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ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調 作品95「新世界より」

フリッチャイ指揮 RIAS交響楽団 1953年9月8日~14日録音

Dvorak:Symphony No 9 in E Minor, Op. 95, "From the New World" [1.Adagio - Allegro molto]

Dvorak:Symphony No 9 in E Minor, Op. 95, "From the New World" [2.Largo]

Dvorak:Symphony No 9 in E Minor, Op. 95, "From the New World" [3.Molto vivace]

Dvorak:Symphony No 9 in E Minor, Op. 95, "From the New World" [4.Allegro con fuoco]


望郷の歌

ドヴォルザークが、ニューヨーク国民音楽院院長としてアメリカ滞在中に作曲した作品で、「新世界より」の副題がドヴォルザーク自身によって添えられています。

ドヴォルザークがニューヨークに招かれる経緯についてはどこかで書いたつもりになっていたのですが、どうやら一度もふれていなかったようです。ただし、あまりにも有名な話なので今さら繰り返す必要はないでしょう。
しかし、次のように書いた部分に関しては、もう少し補足しておいた方が親切かもしれません。

この作品はその副題が示すように、新世界、つまりアメリカから彼のふるさとであるボヘミアにあてて書かれた「望郷の歌」です。

この作品についてドヴォルザークは次のように語っています。
「もしアメリカを訪ねなかったとしたら、こうした作品は書けなかっただろう。」
「この曲はボヘミアの郷愁を歌った音楽であると同時にアメリカの息吹に触れることによってのみ生まれた作品である」


この「新世界より」はアメリカ時代のドヴォルザークの最初の大作です。それ故に、そこにはカルチャー・ショックとも言うべき彼のアメリカ体験が様々な形で盛り込まれているが故に「もしアメリカを訪ねなかったとしたら、こうした作品は書けなかっただろう」という言葉につながっているのです。

それでは、その「アメリカ体験」とはどのようなものだったでしょうか。
まず最初に指摘されるのは、人種差別のない音楽院であったが故に自然と接することが出来た黒人やアメリカ・インディオたちの音楽との出会いです。

とりわけ、若い黒人作曲家であったハリー・サンカー・バーリとの出会いは彼に黒人音楽の本質を伝えるものでした。
ですから、そう言う新しい音楽に出会うことで、そう言う「新しい要素」を盛り込んだ音楽を書いてみようと思い立つのは自然なことだったのです。

しかし、そう言う「新しい要素」をそのまま引用という形で音楽の中に取り込むという「安易」な選択はしなかったことは当然のことでした。それは、彼の後に続くバルトークやコダーイが民謡の採取に力を注ぎながら、その採取した「民謡」を生の形では使わなかったののと同じ事です。

ドヴォルザークもまた新しく接した黒人やアメリカ・インディオの音楽から学び取ったのは、彼ら独特の「音楽語法」でした。
その「音楽語法」の一番分かりやすい例が、「家路」と題されることもある第2楽章の5音(ペンタトニック)音階です。

もっとも、この音階は日本人にとってはきわめて自然な音階なので「新しさ」よりは「懐かしさ」を感じてしまい、それ故にこの作品が日本人に受け入れられる要因にもなっているのですが、ヨーロッパの人であるドヴォルザークにとってはまさに新鮮な「アメリカ的語法」だったのです。
とは言え、調べてみると、スコットランドやボヘミアの民謡にはこの音階を使用しているものもあるので、全く「非ヨーロッパ的」なものではなかったようです。

しかし、それ以上にドヴォルザークを驚かしたのは大都市ニューヨークの巨大なエネルギーと近代文明の激しさでした。そして、それは驚きが戸惑いとなり、ボヘミアへの強い郷愁へとつながっていくのでした。
どれほど新しい「音楽的語法」であってもそれは何処まで行っても「手段」にしか過ぎません。
おそらく、この作品が多くの人に受け容れられる背景には、そう言うアメリカ体験の中でわき上がってきた驚きや戸惑い、そして故郷ボヘミアへの郷愁のようなものが、そう言う新しい音楽語法によって語られているからです。

「この曲はボヘミアの郷愁を歌った音楽であると同時にアメリカの息吹に触れることによってのみ生まれた作品である」という言葉に通りに、ボヘミア国民楽派としてのドヴォルザークとアメリカ的な語法が結びついて一体化したところにこの作品の一番の魅力があるのです。
ですから、この作品は全てがアメリカ的なもので固められているのではなくて、まるで遠い新世界から故郷ボヘミアを懐かしむような場面あるのです。

その典型的な例が、第3楽章のスケルツォのトリオの部分でしょう。それは明らかにボヘミアの冒頭音楽(レントラー)を思い出させます。
そして、そこまで明確なものではなくても、いわゆるボヘミア的な情念が作品全体に散りばめられているのを感じとることは容易です。

初演は1893年、ドヴォルザークのアメリカでの第一作として広範な注目を集め、アントン・ザイドル指揮のニューヨーク・フィルの演奏で空前の大成功を収めました。
多くのアメリカ人は、ヨーロッパの高名な作曲家であるドヴォルザークがどのような作品を発表してくれるのか多大なる興味を持って待ちかまえていました。そして、演奏された音楽は彼の期待を大きく上回るものだったのです。

それは、アメリカが期待していたアメリカの国民主義的な音楽であるだけでなく、彼らにとっては新鮮で耳新しく感じられたボヘミア的な要素がさらに大きな喜びを与えたのです。
そして、この成功は彼を音楽院の院長として招いたサーバー夫人の面目をも施すものとなり、2年契約だったアメリカ生活をさらに延長させる事につながっていくのでした。


悲劇的なものへの親近感

楽しい音楽というものを聞いたことがない・・・と、言ったのはシューベルトだったでしょうか。確かに、すぐれた音楽というものはその中になにがしかの悲劇性を内包しているものです。よく言われるように、それが澄み切った青空のようなモーツァルトの長調の作品であっても、その青さの中に言いしれぬ悲劇性が顔を覗かせていたりするものです。

そして、病を得てからのフリッチャイの音楽を聴いていると、そう言う悲劇的なものへの傾斜が大きくなっているような気がします。
そして、作品によっては、そう言う悲劇的なものに肩入れしすぎるがゆえに、かえって足下をすくわれているような場面もあるかのように見えます。その典型が59年に録音されたモーツァルトのト短調シンフォニーでしょう。
これはもう語り尽くされるほどに語り尽くされていることですが、モーツァルトは壊れやすいのです。

ただし、その同じ録音を聞いて、それを形にとらわれずに作品が内包している悲劇性に肉薄したという人がいたとしても、私は否定しようとは思いません。

ただ、こうやって彼の晩年の録音を聞いていると、その悲劇性におぼれるように対峙してもそれほど作品の形が崩れないものと、驚くほどにそう言うスタンスを拒否するものがあると言うことです。拒否するものの典型が言うまでもなくモーツァルトです。

逆に、形が崩れない典型はチャイコフスキーの音楽でしょうか。
とりわけ、59年に録音された「悲愴」は、この作品の最も優れたアプローチの一つでしょう。そして、ドイツ・グラモフォンがこのすぐれた録音をお蔵入りさせてしまったことには驚きを禁じ得ません。

同じように、リストの前奏曲やスメタナのモルダウのようなロマン派の小品を聞いていると、悲劇的なものへの近しさというスタンスが実に上手くはまっているように思えます。そう言えば、ウェーバーの舞踏への招待なんかも実にいい感じです。
ところが、シュトラウスのワルツのような音楽になると悲劇性がいたって希薄なので、今度はそこへ自分の気分を反映させようとして逆におかしな事になっているような場面もあったりします。そう言う録音を聞いていると、どうしてこんなものを取り上げたんだろうと訝しく思ってしまいます。(まあ、レーベル側からの要望があったのでしょうね。)

それから、意外だなと自分でも思ったのがベートーベンです。61年に録音された運命などは、ズブズブに悲劇性に絡め取られているように聞こえるのですが、ベートーベンにはそれを引き受ける強さがあります。
そして、バルトークのような作品になると、その悲劇性が数学的な精緻さで構築されていることは手に取るように分かるので、そこで悲劇性に足下をすくわれるようなことは起こるはずもないと言うことです。それどころか、あの60年にアンダを迎えて録音されたピアノ協奏曲の録音を聞いていると、バルトークの悲劇性とフリッチャイの悲劇性が同化して、まるで孔子の従心「心の欲する所に従いて矩を踰えず」のような境地に達しているかのようです。

しかし、そうやって彼の晩年(と言っても40代の若さだったわけですが)の録音を聞いていると、その素晴らしさは認めながらも、失ったものの大きさも感じずにはおれません。
あの、50年代の初頭に聞くことが出来た、弾むようなリズム感に裏打ちされた、精緻でありながらも強い推進力に満ちた音楽は姿を消してしまいました。それは、この隔てられた二つの時期において録音された同一の作品を聞いてみると、そのお思いはよりいっそう強くなります。

既に紹介しているものとしては、モーツァルトの二つの交響曲(29番・41番)があるのですが、41番のジュピターなどは古い録音の方に好ましさを感じている自分がいたりします。
それ以外にも、チャイコフスキーの「悲愴(53年・59年)」やドヴォルザークの「新世界より(53年・59年)」などもあります。
変わることによって得たものが大きかった事は否定しませんが、同じように失ったものも大きかったことも否定しようがありません。

ただ、こうやってフリッチャイについてあれこれ述べていながら、実は大きな欠落があることも自覚しています。
それはただの一つも彼のオペラ作編の録音について触れていないことです。
これでは、少なく見積もってもフリッチャイという指揮者の半分しか見ていないと言うことになります。ですから、それなりにペラ作品の録音を概観してからだと、また違ったフリッチャイの姿が見えてくるのかもしれません。
ですから、彼についてこれ以上のことをあれこれ言おうと思えば、それなりに彼のオペラを聞いてからにした方がいいのかもしれません。

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