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ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調 Op.95 「新世界より」

カイルベルト指揮 バンベルク交響楽団 1961年録音

Dvorak:交響曲第9番 ホ短調 作品95 「新世界より」 「第1楽章」

Dvorak:交響曲第9番 ホ短調 作品95 「新世界より」 「第2楽章」

Dvorak:交響曲第9番 ホ短調 作品95 「新世界より」 「第3楽章」

Dvorak:交響曲第9番 ホ短調 作品95 「新世界より」 「第4楽章」


望郷の歌

ドヴォルザークが、ニューヨーク国民音楽院院長としてアメリカ滞在中に作曲した作品で、「新世界より」の副題がドヴォルザーク自身によって添えられています。

ドヴォルザークがニューヨークに招かれる経緯についてはどこかで書いたつもりになっていたのですが、どうやら一度もふれていなかったようです。ただし、あまりにも有名な話なので今さら繰り返す必要はないでしょう。
しかし、次のように書いた部分に関しては、もう少し補足しておいた方が親切かもしれません。

この作品はその副題が示すように、新世界、つまりアメリカから彼のふるさとであるボヘミアにあてて書かれた「望郷の歌」です。

この作品についてドヴォルザークは次のように語っています。
「もしアメリカを訪ねなかったとしたら、こうした作品は書けなかっただろう。」
「この曲はボヘミアの郷愁を歌った音楽であると同時にアメリカの息吹に触れることによってのみ生まれた作品である」


この「新世界より」はアメリカ時代のドヴォルザークの最初の大作です。それ故に、そこにはカルチャー・ショックとも言うべき彼のアメリカ体験が様々な形で盛り込まれているが故に「もしアメリカを訪ねなかったとしたら、こうした作品は書けなかっただろう」という言葉につながっているのです。

それでは、その「アメリカ体験」とはどのようなものだったでしょうか。
まず最初に指摘されるのは、人種差別のない音楽院であったが故に自然と接することが出来た黒人やアメリカ・インディオたちの音楽との出会いです。

とりわけ、若い黒人作曲家であったハリー・サンカー・バーリとの出会いは彼に黒人音楽の本質を伝えるものでした。
ですから、そう言う新しい音楽に出会うことで、そう言う「新しい要素」を盛り込んだ音楽を書いてみようと思い立つのは自然なことだったのです。

しかし、そう言う「新しい要素」をそのまま引用という形で音楽の中に取り込むという「安易」な選択はしなかったことは当然のことでした。それは、彼の後に続くバルトークやコダーイが民謡の採取に力を注ぎながら、その採取した「民謡」を生の形では使わなかったののと同じ事です。

ドヴォルザークもまた新しく接した黒人やアメリカ・インディオの音楽から学び取ったのは、彼ら独特の「音楽語法」でした。
その「音楽語法」の一番分かりやすい例が、「家路」と題されることもある第2楽章の5音(ペンタトニック)音階です。

もっとも、この音階は日本人にとってはきわめて自然な音階なので「新しさ」よりは「懐かしさ」を感じてしまい、それ故にこの作品が日本人に受け入れられる要因にもなっているのですが、ヨーロッパの人であるドヴォルザークにとってはまさに新鮮な「アメリカ的語法」だったのです。
とは言え、調べてみると、スコットランドやボヘミアの民謡にはこの音階を使用しているものもあるので、全く「非ヨーロッパ的」なものではなかったようです。

しかし、それ以上にドヴォルザークを驚かしたのは大都市ニューヨークの巨大なエネルギーと近代文明の激しさでした。そして、それは驚きが戸惑いとなり、ボヘミアへの強い郷愁へとつながっていくのでした。
どれほど新しい「音楽的語法」であってもそれは何処まで行っても「手段」にしか過ぎません。
おそらく、この作品が多くの人に受け容れられる背景には、そう言うアメリカ体験の中でわき上がってきた驚きや戸惑い、そして故郷ボヘミアへの郷愁のようなものが、そう言う新しい音楽語法によって語られているからです。

「この曲はボヘミアの郷愁を歌った音楽であると同時にアメリカの息吹に触れることによってのみ生まれた作品である」という言葉に通りに、ボヘミア国民楽派としてのドヴォルザークとアメリカ的な語法が結びついて一体化したところにこの作品の一番の魅力があるのです。
ですから、この作品は全てがアメリカ的なもので固められているのではなくて、まるで遠い新世界から故郷ボヘミアを懐かしむような場面あるのです。

その典型的な例が、第3楽章のスケルツォのトリオの部分でしょう。それは明らかにボヘミアの冒頭音楽(レントラー)を思い出させます。
そして、そこまで明確なものではなくても、いわゆるボヘミア的な情念が作品全体に散りばめられているのを感じとることは容易です。

初演は1893年、ドヴォルザークのアメリカでの第一作として広範な注目を集め、アントン・ザイドル指揮のニューヨーク・フィルの演奏で空前の大成功を収めました。
多くのアメリカ人は、ヨーロッパの高名な作曲家であるドヴォルザークがどのような作品を発表してくれるのか多大なる興味を持って待ちかまえていました。そして、演奏された音楽は彼の期待を大きく上回るものだったのです。

それは、アメリカが期待していたアメリカの国民主義的な音楽であるだけでなく、彼らにとっては新鮮で耳新しく感じられたボヘミア的な要素がさらに大きな喜びを与えたのです。
そして、この成功は彼を音楽院の院長として招いたサーバー夫人の面目をも施すものとなり、2年契約だったアメリカ生活をさらに延長させる事につながっていくのでした。


クリエーターとキーパー

ジュリーニのドヴォルザークの交響曲を一気にアップしたときに、長い間野ざらし(^^;になっていたカイルベルトの「新世界より」もついでにアップされてしまいました。こんな書き方をするとカイルベルトファンの方に叱られそうなのですが、よく考えてみれば、今やカイルベルトという指揮者は、その存在すら忘れ去らようとしています。まあ、大丈夫でしょう。

しかしながら、そう言う忘れ去られようとしている音楽家にスポットライトを当てるのがこのサイトの役割ですから、調べてみると、既に3つの録音がアップしていました。そこで、この指揮者について紹介している文章を読み直してみて、それでほぼ尽きていることを再確認しました。

「彼ほど「職人」という言葉がぴったりくる指揮者はそうそういるものではありません。オペラハウスのコレペティトゥール(歌手などに音楽稽古をつけるピアニスト)からの叩き上げで、最後はドレスデンやバイエルンの歌劇場のシェフにまでのぼりつめた人でした。それだけに、バイエルンの歌劇場で「トリスタンとイゾルデ」の上演中に心臓発作を起こしてなくなるという最期は、彼としてみれば「本望」だったのかもしれません。」

「彼が作り出す響きは、いわゆるドイツのオケの伝統ともいうべき重厚なものですが、オケへの指示が的確で無駄がないためか、内部の見通しは悪くありません。
その意味では、当時のザッハリヒカイトの流れの中にあるのでしょうが、彼の音楽はどうもそう言う「主義」とは縁遠いところにあるような気がします。そうではなくて、彼の音楽の明晰さはそう言う「主義」に起因するものではなくて、あるべきものはあるべきままの姿でキッチリ仕上げていくという、職人としての良心によっているような気がするのです。」

そして、彼が1956年にハンブルクのオケと録音したエロイカの演奏について述べたことは、この「新世界より」の演奏にもそのままあてはまります。

「この演奏もカイルベルトの職人技が遺憾なく発揮された演奏なのですが、聞いていて一番印象に残ったのが何とも言えずまろやかで伸びやかなホルンの響きです。
こういう響きはなかなか聞けないですね。
もちろん、オケ全体の響きが何とも言えない「自然素材の風合い」を感じさせてくれます。

こういう響きを聞かされると、今と昔ではオケの鳴らし方が根本的に変わったことを教えられます。

カイルベルトのやり方は、おそらくは主たる旋律のラインをくっきりと描き出した上で、その他の声部のバランスを取るというやり方をしているのでしょう。基本はメロディラインが優先です。
私が一番印象に残ったホルンの伸びやかな響きは、そう言うやり方の「功徳」でしょう。」

この録音でも管楽器の響きがとても魅力的です。そして、そのくつろいだオケの響きは、まるで温めのお湯にのんびりとつかっているような心地よさです。
言葉はいささか汚くなって恐縮なのですが、なるほど、これは疑いもなく、糞もひれば屁もこく普通のおっさん達が寄り集まってやっている音楽です。昨今のハイテクオケのクリスタルな響きは、そう言う人間くささを全て捨象したマシーンが寄り集まって演奏してるんじゃないかと思わせられて、聞いているうちに何とも言えない居心地の悪さみたいなものを感じてしまうときがあります。
ですから、「新世界より」の最初の二つの楽章、とりわけ第2楽章の家路の音楽などを聴いていると、オケのテクニックなんてこの程度のレベルが維持されているならばそれで十分じゃないだろうか、などという不遜な思いが頭をもたげてきたりするほどです。

しかし、音楽が後半の二つの楽章に及んでくると、やはり、もう一つ上を望んでもらわないと駄目なんだ・・・ということも納得させられます。
それは、一言で言えば、始めから終わりまで主たる旋律のラインをくっきりと描き出すだけでは、「交響曲」という音楽のフォルムが立ち上がってこないと言うことです。いいかげん、このあたりでシャキッと背筋を伸ばして居ずまいを糺してくれよという思いがおこってくるのです。
結果として、温めのお湯にのんびりとつかっているような心地よさは味わえても、立派な音楽を聴かせてもらったという感動には至りそうもないのです。

結論として言えば、ジュリーニとカイルベルトという二人の指揮者を並べてみると、そこからは悲しいまでにクリエーターとキーパーの違いが立ち現れてきます。
なるほど、そう言う見方でオケを眺めてみれば、クリエーターにとっては、もっともっとオケを鍛え上げないといけなかったのでしょう。その限りない要求の果てに、糞や屁などとは全く無縁と思われるマシーンのようなオケが登場したのだとすれば、「オケのテクニックなんてこの程度で十分」などという阿呆なことをいって場合ではないのです。

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