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ハイドン:交響曲第96番 ニ長調 Hob.I:96 「奇蹟」

ワルター指揮 ニューヨークフィル 1954年11日29日&12月6日録音

Haydn:Symphony No.96 in D major Hob.I:96 The Miracle [1.Adagio - Allegro]

Haydn:Symphony No.96 in D major Hob.I:96 The Miracle [2.Andante]

Haydn:Symphony No.96 in D major Hob.I:96 The Miracle [3.Menuetto (Allegro) - Trio]

Haydn:Symphony No.96 in D major Hob.I:96 The Miracle [4.Finale (Vivace assai)]


ザロモン演奏会の概要

エステルハージ候の死によって事実上自由の身となってウィーンに出てきたハイドンに、「イギリスで演奏会をしませんか」と持ちかけてきたのがペーター・ザロモンでした。
彼はロンドンにおいてザロモン・コンサートなる定期演奏会を開催していた興行主でした。
当時ロンドンでは彼の演奏会とプロフェッショナル・コンサートという演奏会が激しい競争状態にありました。そして、その競争相手であるプロフェッショナル・コンサートはエステルハージ候が存命中にもハイドンの招聘を何度も願い出ていました。しかし、エステルハージ候がその依頼には頑としてイエスと言わなかったために、やむなく別の人物を指揮者として招いて演奏会を行っていたという経緯がありました。
それだけに、ザロモンはエステルハージ候の死を知ると素早く行動を開始し、破格とも言えるギャランティでハイドンを口説き落とします。
そのギャラとは、伝えられるところによると、「新作の交響曲に対してそれぞれ一曲あたり300ポンド、それらの指揮に対して120ポンド」等々だったといわれています。ハイドンが30年にわたってエステルハ?ジ家に仕えることで貯蓄できたお金は200ポンドだったといわれますから、これはまさに「破格」の提示でした。
このザロモンによる口説き落としによって、1791年・1792年・1794年の3年間にハイドンを指揮者に招いてのザロモン演奏会が行われることになりました。そして、ハイドンもその演奏会のために93番から104番に至る多くの名作、いわゆる「ザロモン・セット」とよばれる交響曲を生み出したわけですから、私たちはザロモンに対してどれほどの感謝を捧げたとして捧げすぎるということはありません。

第1期ザロモン交響曲(第93番?98番)
1791年から92年にかけて作曲され、演奏された作品を一つにまとめて「第1期ザロモン交響曲」とよぶのが一般化しています。この6曲は、91年に作曲されて、その年に初演された96番と95番、91年に作曲されて92年に初演された93番と94番、そして92年に作曲されてその年に初演された98番と97番という三つのグループに分けることが出来ます。

<第1グループ>
・96番「奇跡」:91年作曲 91年3月11日初演
・95番    :91年作曲 91年4月1日or4月29日初演
<第2グループ>
・93番    :91年作曲 92年2月17日初演
・94番「驚愕」:91年作曲 92年3月23日初演
<第3グループ>
・98番    :92年作曲 92年3月2日初演
・97番    :92年作曲 92年5月3日or5月4日初演

91年はハイドンを招いての演奏会は3月11日からスタートし、その後ほぼ週に一回のペースで行われて、6月3日にこの年の最後の演奏会が行われています。これ以外に5月16日に慈善演奏会が行われたので、この年は都合13回の演奏会が行われたことになります。
これらの演奏会は「聴衆は狂乱と言っていいほどの熱狂を示した」といわれているように、ザロモン自身の予想をすら覆すほどの大成功をおさめました。また、ハイドン自身も行く先々で熱狂的な歓迎を受け、オックスフォード大学から音楽博士号を受けるという名誉も獲得します。
この大成功に気をよくしたザロモンは、来年度もハイドンを招いての演奏会を行うということを大々的に発表することになります。

92年はプロフェッショナル・コンサートがハイドンの作品を取り上げ、ザロモン・コンサートの方がプレイエルの作品を取り上げるというエールの交換でスタートします。
そして、その翌週の2月17日から5月18日までの12回にわたってハイドンの作品が演奏されました。この年は、これ以外に6月6日に臨時の追加演奏会が行われ、さらに5月3日に昨年同様に慈善演奏会が行われています。

第2期ザロモン交響曲(第99番?104番)

1974年にハイドンはイギリスでの演奏会を再び企画します。
しかし、形式的には未だに雇い主であったエステルハージ候は「年寄りには静かな生活が相応しい」といって容易に許可を与えようとはしませんでした。このあたりの経緯の真実はヤブの中ですが、結果的にはイギリスへの演奏旅行がハイドンにとって多大な利益をもたらすことを理解した候が最終的には許可を与えたということになっています。
しかし、経緯はどうであれ、この再度のイギリス行きが実現し、その結果として後のベートーベンのシンフォニーへとまっすぐにつながっていく偉大な作品が生み出されたことに私たちは感謝しなければなりません。

この94年の演奏会は、かつてのような社会現象ともいうべき熱狂的な騒ぎは巻き起こさなかったようですが、演奏会そのものは好意的に迎え入れられ大きな成功を収めることが出来ました。
演奏会はエステルハージ候からの許可を取りつけるに手間取ったために一週間遅れてスタートしました。しかし、2月10日から始まった演奏会は、いつものように一週間に一回のペースで5月12日まで続けられました。そして、この演奏会では99番から101番までの三つの作品が演奏され、とりわけ第100番「軍隊」は非常な好評を博したことが伝えられています。

・ 99番    :93年作曲 94年2月10日初演
・101番「時計」:94年作曲 94年3月3日初演
・100番「軍隊」:94年作曲 94年3月31日初演

フランス革命による混乱のために、優秀な歌手を呼び寄せることが次第に困難になったためにザロモンは演奏会を行うことが難しくなっていきます。そして、1795年の1月にはついに同年の演奏会の中止を発表します。しかし、イギリスの音楽家たちは大同団結をして「オペラ・コンサート」と呼ばれる演奏会を行うことになり、ハイドンもその演奏会で最後の3曲(102番?104番)を発表しました。
そのために、厳密にいえばこの3曲をザロモンセットに数えいれるのは不適切かもしれないのですが、一般的にはあまり細かいことはいわずにこれら三作品もザロモンセットの中に数えいれています。
ただし、ザロモンコンサートが94年にピリオドをうっているのに、最後の三作品の初演が95年になっているのはその様な事情によります。
このオペラコンサートは2月2日に幕を開き、その後2週間に一回のペースで開催されました。そして、5月18日まで9回にわたって行われ、さらに好評に応えて5月21日と6月1日に臨時演奏会も追加されました

・102番      :94年作曲 95年2月2日初演
・103番「太鼓連打」:95年作曲 95年3月2日初演
・104番「ロンドン」:95年作曲 95年5月4日初演

ハイドンはこのイギリス滞在で2400ポンドの収入を得ました。そして、それを得るためにかかった費用は900ポンドだったと伝えられています。エステルハージ家に仕えた辛苦の30年で得たものがわずか200ポンドだったことを考えれば、それは想像もできないような成功だったといえます。
ハイドンはその収入によって、ウィーン郊外の別荘地で一切の煩わしい出来事から解放されて幸福な最晩年をおくることができました。ハイドンは晩年に過ごしたこのイギリス時代を「一生で最も幸福な時期」と呼んでいますが、それは実に納得のできる話です。


粋が分かる指揮者

ワルターとハイドンの組み合わせは相性がいい。それは、彼が戦前にウィーンフィルと録音した100番「軍隊」の録音を聞くだけで納得がいくはずです。
ハイドンという人は、人格破綻者の群れとも言うべき作曲家のなかでは異例とも言うべきほどの「いい人」でした。そして、ワルターもまた一筋縄ではいかない奇人・変人の群れとも言うべき指揮者のなかでは、これまた異例とも言うべき温和な人格者と見なされていました。
ただし、そんな「いい人」の音楽だから「人格者」が指揮して「いい音楽」になるほどこの世界は甘くはありません。

ハイドンの音楽は普通にスコアを音に変換しただけではちっとも面白くありません。
大切なことは、そのスコアに仕込まれた「職人ハイドン」の意図を自分なりに読み込んで、そこに一つの世界を表現しないといけません。ですから、「原典尊重」が己の無能の隠れ蓑になっているような指揮者が棒を振ると、ホントに悲惨なことになってしまいます。
また、指揮者がそれなりに意図を持って棒を振っても、それに応えるオケに必要な機能が備わっていないと、これまた悲惨なことになってしまいます。ですから、ハイドンのシンフォニーはオケの性能テストなどと言われるのです。

ですから、ハイドンを熱心に取り上げてきた指揮者というのは、それぞれの持ち味がはっきりしていました。

ハイドンがスコアに仕込んだ職人の技をひたすら精緻に再現することに執念を燃やしたのがセルでした。
ハイドンが築き上げた交響曲という仕様が持っている構築の世界をひたすら追求したのがクレンペラーでした。
そして、ハイドンが生涯失うことのなかったユーモアとエスプリを見事に表現してみたのがビーチャムでした。

シェルヘンはセルと同じ指向だったのでしょうが、明らかに力及ばず、バーンスタインも結構熱心にハイドンを取り上げているのですが、何をしたかったのかがイマイチはっきりしません。
カラヤンはハイドンの中に潜んでいるメロディラインの美しさだけに興味があったようで、それに共感できる人ならば楽しめる音楽作りです。

さて、そんな中にワルターのハイドンをおいてみると、さて彼の立ち位置は何処にあるんだろうか、と考え込んでしまいます。
50年代の未だ現役の指揮者だったときに録音した96番「奇蹟」や102番では、オケに対してコントロールしようという意図ははっきりと感じ取れます。モノラルではあるのですが録音状態がいいので、引き締まったニューヨークフィルの響きから現役指揮者の気迫が伝わってきます。
それでも、セルの精緻さやクレンペラーの構築への執念と較べると、そこまでの強烈なコントロールとは異なります。
しかし、そこまでの指揮者による強固な意志は感じ取れなくても、そこには確かにハイドンの音楽が持っている「趣味の良さ」みたいなものがはっきりと聞き取れます。

困るのは61年に録音された88番「V字」と100番「軍隊」の録音です。
オケは臨時編成のコロンビア交響楽団で、ワルターは音楽の大きな流れだけを示しているだけで、オケをコントロールしようという素振りは全く感じられません。しかし、それでも、そこで鳴り響いている音楽はスコアを音に変換しただけの「無能の隠れ蓑としての原典尊重」とは明らかに異なります。

どうやら、同じ交響曲と言っても、ハイドンやモーツァルトの交響曲とベートーベン以降の交響曲とでは、全く別物のようです。と言うか、ベートーベンという男はそういう風に交響曲を変えてしまったのです。
そして、ベートーベン以降の音楽家は、ベートーベンが変えてしまった価値観でハイドンやモーツァルトを見るというおかしな事になってしまっているのかもしれません。

しかし、こんな事を書くと穿ちすぎと言われるかもしれませんが、もしかしたらワルターの血のなかにはベートーベン以前の18世紀的な価値観が生き残っていたのかもしれません。
ベートーベンはモーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ 」を不道徳なオペラと断じて最後まで認めることができなかったそうです。彼は最後まで18世紀のハプスブルグ帝国に息づいていた「粋」を理解することはできず、それを19世紀的な「野暮」でぶった切って見せたのでした。
そう考えると、クレンペラーのハイドンは18世紀的な「粋」を19世紀的な「野暮」でぶった切った演奏であり、セルのハイドンは19世紀的な怜悧で捌いた演奏だったのかもしれません。

ワルターがハイドンの音楽を大きな方向を示すだけでハイドンたり得たのは、彼のなかに18世紀的な「粋」が未だに息づいていたからなのでしょう。
そして、ちょっとしたお遊びですが、この時代の巨匠を「粋」と「野暮」で二分すると意外と面白いかもしれません。そうすると、トスカニーニ、フルトヴェングラー、クレンペラーと野暮のオンパレードです。

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