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チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調 作品74「悲愴」

カラヤン指揮 ベルリンフィル 1963年2月録音

Tchaikovsky:Symphony No.6 in B minor Op.74 "Pathetique" [1st movement]

Tchaikovsky:Symphony No.6 in B minor Op.74 "Pathetique" [2nd movement]

Tchaikovsky:Symphony No.6 in B minor Op.74 "Pathetique" [3rd movement]

Tchaikovsky:Symphony No.6 in B minor Op.74 "Pathetique" [4th movement]


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私は旅行中に頭の中でこれを作曲しながら幾度となく泣いた。

 チャイコフスキーの後期の交響曲は全て「標題音楽」であって「絶対音楽」ではないとよく言われます。それは、根底に何らかの文学的なプログラムがあって、それに従って作曲されたというわけです。
 もちろん、このプログラムに関してはチャイコフスキー自身もいろいろなところでふれていますし、4番のようにパトロンであるメック夫人に対して懇切丁寧にそれを解説しているものもあります。
 しかし6番に関しては「プログラムはあることはあるが、公表することは希望しない」と語っています。弟のモデストも、この6番のプログラムに関する問い合わせに「彼はその秘密を墓場に持っていってしまった。」と語っていますから、あれこれの詮索は無意味なように思うのですが、いろんな人が想像をたくましくしてあれこれと語っています。

 ただ、いつも思うのですが、何のプログラムも存在しない、純粋な音響の運動体でしかないような音楽などと言うのは存在するのでしょうか。いわゆる「前衛」という愚かな試みの中には存在するのでしょうが、私はああいう存在は「音楽」の名に値しないものだと信じています。人の心の琴線にふれてくるような、音楽としての最低限の資質を維持しているもののなかで、何のプログラムも存在しないと言うような作品は存在するのでしょうか。
 例えば、ブラームスの交響曲をとりあげて、あれを「標題音楽」だと言う人はいないでしょう。では、あの作品は何のプログラムも存在しない純粋で絶対的な音響の運動体なのでしょうか?私は音楽を聞くことによって何らかのイメージや感情が呼び覚まされるのは、それらの作品の根底に潜むプログラムに触発されるからだと思うのですがいかがなものでしょうか。
 もちろんここで言っているプログラムというのは「何らかの物語」があって、それを音でなぞっているというようなレベルの話ではありません。時々いますね。「ここは小川のせせらぎをあらわしているんですよ。次のところは田舎に着いたうれしい感情の表現ですね。」というお気楽モードの解説が・・・(^^;(R.シュトラウスの一連の交響詩みたいな、そういうレベルでの優れものはあることにはありますが。あれはあれで凄いです!!!)
 
 私は、チャイコフスキーは創作にかかわって他の人よりは「正直」だっただけではないのかと思います。ただ、この6番のプログラムは極めて私小説的なものでした。それ故に彼は公表することを望まなかったのだと思います。
 「今度の交響曲にはプログラムはあるが、それは謎であるべきもので、想像する人に任せよう。このプログラムは全く主観的なものだ。私は旅行中に頭の中でこれを作曲しながら幾度となく泣いた。」
 チャイコフスキーのこの言葉に、「悲愴」のすべてが語られていると思います。


カラヤン美学へのターニングポイント

カラヤンという男は実に慎重な男だったようです。
1954年にフルトヴェングラーが急死すると、その後を受けて1955年にはベルリンフィルの終身指揮者に就任します。普通ならば、そこでフルトヴェングラー時代とは全く違ったカラーを出して自分の「偉さ」をアピールしたくなるものです。ところが、このカラヤンという男は、実に淡々とフルトヴェングラー時代のオケの佇まいを維持していくのです。
その事は、この時代のベルリンフィルをカラヤン以外の指揮者が振ると、昔ながらの古き良き時代の田舎オケの響きがすることからも容易に納得できます。

もしかしたら、彼は「取りあえず10年!」と自分に言い聞かせていたのかもしれません。
フルトヴェングラーに変わってベルリンフィルを手中に収めたと言っても、オケの中にはフルトヴェングラーをはじめとしたかつての「巨匠」のことをよく知っている古参メンバーがたくさんいました。そんな猛者が跋扈しているオケで、若手の指揮者が何か新しいことをしようとしても、いいようにあしらわれて潰されるのが落ちです。
それが、カラヤンだったとしても事情はそれほど変わりはなかったはずです。

ですから、彼は、じっくりと時間をかけてオケの信頼を醸成し、その信頼をベースとして少しずつ自分のカラーを出していったのだと思います。そして、どうやらこのオケは自分の手の中に入ったかなと確信ができたのが、61年から62年にかけて行われたベートーベンの交響曲全集の録音だったのでしょう。
ここで彼はトスカニーニもかくやと言うほどの推進力に満ちた音楽を実現して見せました。
それは、この時代のスタンダードな価値観に照らし合わせてみれば100点満点の演奏だったと思いますから、これを持って、流石のベルリンフィルも彼の軍門に下ったと言わざるを得ませんでした。

私が最近使っている言葉を援用すれば、天辺目指して駆け上がってきた男がついに頂に立ったのです。

そして、問題はここから始まります。
頂点にたどり着いた男は、次に何処を目指すのかです。
凡は、この極めた天辺に満足してこの頂上付近をうろつくだけで一生を終えます。当然のことながら、カラヤンはそのような鈍なことはせずに、まさに、この天辺を極めた事を持って彼にとっての本当のスタートとしたのです。

つまりは、ホントの意味での「カラヤン美学」への道がここから始まるのです。
ベートーベンの録音が終わってから彼が取り組んだのはブラームスです。交響曲全曲とドイツ・レクイエム、そしてヴァイオリン・コンチェルトの録音が63年の9月から64年の4月にかけて一気に行われています。そして、その合間を縫うようにチャイコフスキーの悲愴(64年2月)とドヴォルザークの新世界より(64年3月)が録音されています。

これらは明らかに、ベートーベンの交響曲とはテイストが違っています。
ベートーベンが明らかに強力な推進力によって音楽を成り立たせようとしていたのと比べれば、この63年以降の録音では旋律線の横への流れが重視されています。そして、そのラインをできる限り目のつまった美音で表現しようという意図が垣間見られます。

かつて、カラヤン美学のことを、「20世紀の前半でフルトヴェングラーやトスカニーニが築き上げた指揮芸術というものに、まだ違うアプローチがあることをかぎ取り、そのかぎ取った世界をものの見事なまでに現実化したことにある」と書いたことがあります。では、その違うアプローチとは何かと言えばそれは「ホロヴィッツ的な指揮者」への道でした。

もっと、分かりやすく言えば、ホロヴィッツやハイフェッツが、クラシック音楽という世界は「精神性」だけで成り立っているわけではないという当たり前の事実をものの見事に腕一本(いや、二本か?)で証明して見せたように、指揮芸術においても、つまらぬ知性などはどこかに放り出して、鬼のようなトレーナーと化してオケを鍛え上げ、究極のシンセサイザーとして超絶的にゴージャスで美麗なる音楽を聴かせることだけで成り立つことを証明して見せたのです。

そして、そう言う、天辺極めた指揮者が踏み出すにはとんでもなく勇気がいる世界に、カラヤンはこの63年頃を一つの区切りとして踏み出したのです。
ですから、この道に踏み出したカラヤンにとっては、「精神性の足りない表面的な美しさだけに終始した音楽」などと言う批判は、ほとんど褒め言葉に近かったはずです。それは、あのショーンバーグに「猫ほどの知性もない」と批判されても全く意に介しなかったホロヴィッツと全く同じです。
彼らは、精神性などと言う意味不明の代物を持ち出してこなくても、鍛え上げた響きによる音のサーカスとしてだけでクラシック音楽が成り立つことを秘めやかに主張し、そして大らかに実践していたのですから。
そう言う意味で、この63年から64年にかけての一連の録音は意義深いものだと言えます。

もちろん、これが嫌いだという人もいるでしょう。しかし、そう言う人が存在していることこそが実は意味があるのです。
概ね多くの人から好意的に受け入れられたのに、2~3年もすれば誰の記憶にも残らないような演奏よりは100倍も意味があるのです。以下にこのカラヤンの道を否定するとしても、その意図あるアプローチには敬意を表さねばならないのです。

なお、この64年録音の悲愴は、55年にフィルハーモニア感と録音した悲愴とは全く雰囲気が異なります。
ここでは、あの若き時代の直線的でスタイリッシュな「悲愴」の姿は何処にもありません。しかし、その事を持ってこの演奏を否定するのは、音楽を「好き嫌い」だけで評価するという過ちそのものです。
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