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カラス(Maria Callas)|ヴェルディ:アイーダ
ヴェルディ:アイーダ
(S)マリア・カラス セラフィム指揮 ミラノ・スカラ座管弦楽団&合唱団 リチャード・タッカー、フェドーラ・バルビエリ他 1955年8月10~12日、16~20日、23-~24日録音
傑作か愚作か
華やかな演奏効果にあふれた作品だけに、数あるヴェルディオペラの中で最もポピュラーな作品だと言えます。それ故に、これを持ってヴェルディの傑作と評する人もいる中で、逆につまらぬ演奏効果だけに彩られたヴェルディ最大の愚作と切って捨てる人も多い作品です。
確かに、このオペラを「スペクタクルオペラ」としてとらえて、派手派手しい演出にのみ工夫を凝らしている舞台も少なくありません。そういう舞台では、花火は上がる、象さんは出てくる、耳もさけよとばかりにアイーダトランペットは叫びまくるで、これはホントに「ヴェルディ一世一代の恥さらし作品」だなと思ってしまいます。
しかし、そんなアホウな演出は論外として、じっくりと音楽にのみ耳を傾けてみると、このオペラはその様な単純な「スペクタクルオペラ」の範疇だけで理解できるような代物ではないことに気づかされます。
このオペラの底流を流れているのは、社会を成り立たせているあれこれの約束事の世界、言葉をかえれば「〜であらねばならない」という価値観と、個人を貫いている本音の世界、言葉をかえれば「〜でありたい」という価値観の葛藤です。
この前者を代表するのが司祭長のラムフィスとアイーダの父であるエジプト王のアモナズロです。逆に後者の立場を代表するのがアイーダとラダメスです。このオペラの中で、この両者の立場は最後まで揺るぐことはありません。
複雑な立場にあるのがエジプトの王女であるアムネリスです。
アムネリスのラダメスに寄せる愛は真実のものです。しかし、その愛はラダメスからの愛という形ではなくて、凱旋将軍であるラダメスに対する「褒賞」という国家の「約束事」として成就されようとします。つまり、「〜でありたい」という願いが「〜であらねばならない」という約束事の世界で成就してしまうのです。
しかし、アムネリスのラダメスへの愛は真実であるが故に、その様な約束事の世界として成就されることに彼女は我慢ができません。かといって、権力者であるアムネリスは本音の世界においてラダメスの愛を得ようなどとはしません。そうではなくて、彼女は己が持つ権力にすがってアイーダとラダメスの仲を裂こうとあれこれ画策してしまう女性なのです。彼女は己の画策の末に愛するラダメスが祖国への裏切り者として死罪が下されようとするときも、アイーダと別れてくれれば命だけは助けると懇願してしまう女性です。
つまり、彼女だけは二つの価値観の中で身を引き裂かれているのです。
おそらくこのオペラのクライマックスはラストシーンです。(決して凱旋のシーンではありません^^;)
「〜でありたい」という価値観は「〜であらねばならない」という価値観の前に敗れ去ります。エジプトという国家を体現するラムフィスの前にアイーダとラダメスは生きながらに埋められるという死罪を科されて敗れ去るのです。
しかし、その死は同時にエジプト王女アムネリスを通して、「〜であらねばならない」という価値観は決して個人の心の世界を屈服させることができないことをも浮き彫りにします。
ヴェルディ自身が考案したというラストの地下と地上の二重構造の舞台はその事を鮮やかに視覚化してくれます。
ユング君はこのラストシーンの天国的とも言うべき美しい幕切れを聞くたびに、その美しさによいながら、アムネリスはこの後どの様にして生きていくのだろうかと思いを巡らせてしまいます。
もしも彼女がラムフィスのように約束事の世界で毅然と立っていればこの悲劇はおこらなかったはずです。ラダメスを「愛する人」としてではなく、「凱旋将軍」として夫にむかえていればこの悲劇はおこらなかったはずです。しかし、彼女はラダメスの「心」を求めました。すべての悲劇はこの一点からはじまります。そして、その悲劇的結末は、いかなる権力を持ってしても「心の真実」を屈服させることができないことを彼女に教えました。
死を前にして、「おまえはあまりに美しい」と語りかけ、重い石の扉を死にものぐるいで押し上げてアイーダだけは助けようとするラダメスの姿をアムネリスはどの様な思いで地上から眺めたのでしょうか。
結局彼女はエジプトの王女として約束事の世界で生きていくしか術はありません。しかし、彼女はその世界の空しさを嫌と言うほど知ったのですから、その後の生の何という空しさでしょう。
このオペラは決して外面的効果だけを狙った「スペクタクルオペラ」ではありません。疑いもなく、ヴェルディのすべての作品に共通する深い人間のドラマです。そして、その様な人間ドラマとして演出すれば、イタリアペラの総決算とも言うべきすぐれた内容を持った作品として私たちの前に姿を表してくれます。
しかし、外面的な効果に目を奪われて、その効果の追求にのみ興味が集中すれば、いとも容易くこの作品は「世紀の愚作」になってしまう危険性を内包していると言うことも留意しておかなければなりません。
以下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
<構成> 4幕7場
* 第1幕
o 第1場 メンフィスの王宮
o 第2場 メンフィスの神殿
* 第2幕
o 第1場 テーベの宮殿、アムネリス王女の居室
o 第2場 テーベの凱旋門
* 第3幕 ナイル川の岸辺
* 第4幕
o 第1場 王宮の広間
o 第2場 神殿と地下牢
<登場人物>
以下の各人物描写は1873年にリコルディ社より出版された舞台指示書(disposizione scenica)に基づく。この指示書は作曲者ヴェルディの意向を忠実に反映していると考えられているが、今日の舞台演出が必ずしもそれに従っているわけではないのは無論のことである。
* エジプト国王(バス): 約45歳。威厳に満ち、堂々とした態度。
* アムネリス(メゾソプラノ): その娘。20歳。たいへん活発。性格は激情的で、感受性に富む。
* アイーダ(ソプラノ): エチオピアの女奴隷。肌は暗く赤みがかったオリーブ色。20歳。愛情、従順さ、優しさ――これらがこの人物の主要な特質をなす。
* ラダメス(テノール): 軍隊の指揮官。24歳。情熱的な性格。
* ラムフィス(バス): 祭司の長。50歳。確固とした性格。専制的で残忍。態度は威厳に満ちている。
* アモナズロ(バリトン): エチオピアの国王であり、アイーダの父。肌は暗く赤味がかったオリーブ色。40歳。御しがたい戦士で、祖国愛にあふれている。性格は衝動的で暴力的。
* 使者(テノール)
* 巫女の長(ソプラノ)
<あらすじ>
第1幕
第1場
エチオピア軍がエジプトに迫るとの噂が伝わっている。祭司長ラムフィスは司令官を誰にすべきかの神託を得、若きラダメスにそれとなく暗示する。ラダメスは王女アムネリスに仕える奴隷アイーダ(実はエチオピアの王女だが、その素性は誰も知らない)と相思相愛であり、司令官となった暁には勝利を彼女に捧げたいと願う。アムネリスもまた彼に心を寄せており、直感的にアイーダが恋敵であると悟り、激しく嫉妬する。国王が一同を従え登場、使者の報告を聞いた後ラダメスを司令官に任命する。一同はラダメスに「勝利者として帰還せよ」と叫び退場する。アイーダは舞台に一人残り、父であるエチオピア王と恋人・ラダメスが戦わなければならない運命を嘆き、自らの死を神に願う。
第2場
神殿では勝利を祈願する儀式が行われ、ラダメスとラムフィス、祭司たちの敬虔な歌声に巫女の声が唱和する。
第2幕
第1場
エジプト軍勝利の一報が入り、アムネリスは豪華に着飾って祝宴の準備をしている。祖国が敗れ沈痛な面持ちのアイーダに向かってアムネリスは「エジプト軍は勝ったが、ラダメスは戦死した」と虚偽を述べて動揺させ、自分もラダメスを想っていること、王女と奴隷という身分の相違から、自分こそがラダメスを得るであろうことを宣言する。
第2場
ラダメスは軍勢を率いて凱旋する。彼はエチオピア人捕虜の釈放を国王に願う。捕虜の中には身分を隠したアモナズロもいたので、アイーダはつい「お父さん」と言ってしまうが、アモナズロは「国王は戦死し、いまや我々は無力」と偽りを述べ、彼の身分は発覚せずにすむ。ラムフィスはアモナズロを人質として残すことを条件に捕虜釈放に同意、国王はラダメスに娘アムネリスを与え、次代国王にも指名する。勝ち誇るアムネリス、絶望に沈むアイーダ、復讐戦を画策するアモナズロなどの歌が、エジプトの栄光を讃える大合唱と共に展開する。
第3幕
次のエジプト軍の動きを探ろうとするアモナズロは、司令官ラダメスからそれを聞き出すようにアイーダに命じる。アイーダの誘導に、ラダメスが最高機密であるエジプト軍の行軍経路を口にしてしまう。アモナズロは欣喜雀躍して登場、一緒にエチオピアに逃げようと勧めるが、愕然とするラダメスは自らの軽率を悔いる。そこにアムネリスとラムフィス、祭司たちが登場、アモナズロとアイーダ父娘は逃亡するが、ラダメスは自らの意思でそこに留まり、捕縛される。
第4幕
第1場
アムネリスは裁判を待つラダメスに面会する。彼女は、エチオピア軍の再起は鎮圧され、アモナズロは戦死したがアイーダは行方不明のままであると彼に告げ、ラダメスがアイーダを諦め自分の愛を受け容れてくれるなら、自分も助命に奔走しよう、とまで言うが、ラダメスはその提案を拒絶し審判の場へ向かう。アムネリスは裁判を司る祭司たちに必死に減刑を乞うが聞き入れられない。アムネリスが苦しみ悶える中、ラダメスは一切の弁明を行わず黙秘、地下牢に生き埋めの刑と決定する。
第2場
舞台は上下2層に分かれ、下層は地下牢、上層は神殿。ラダメスが地下牢に入れられると、そこにはアイーダが待っている。彼女は判決を予想してここに潜んでいたのだと言う。2人は現世の苦しみに別れを告げ、平穏に死んで行く。地上の神殿ではアムネリスがラダメスの冥福を静かに祈って、幕。
アイーダの決定版としての地位は失っていない
マリア・カラスのアイーダと言えば、いつも話題になるのが1950年のメキシコ公演での3点Esです。第2幕、凱旋の場におけるエンディングの場面で、オーケストラと合唱のフォルテシモをマリア・カラスの声が突き抜けました。もちろん、スコアにそんな超高音が書かれているわけではなくて、あくまでもマリア・カラスのアドリブです。アドリブなのですが、そのあまりのドラマティックな効果に相手役のテノールはうろたえ、観客席は騒然となったわけです。
その頃のことを、カラスはまるで山猫のようだったと回想しているそうです。
当然のことですが、セッション録音であるこの演奏においては、そのようなスタンドプレーは封印されています。しかし、そう言う「掟破り」は封印されてはいても、オケと合唱の分厚い響きを突き抜けていく強靱な声は充分に堪能することができます。そして、このアイーダに絶対必要なのは、そう言う類の強靱な声ですから、未だ持ってこれを凌駕するアイーダを私たちは持ち得ていません。
ですから、この録音は「カラスを聞くための録音」だなどと言われるのですが、ラダメス役のリチャード・タッカーなどは、巷間言われるほどには悪くはないと思います。彼は、これ以外にもトスカニーニの49年盤にも起用されているのですが、「硬骨漢」という言葉がそのまま純化したような男の雰囲気はよく出ているのではないかと思います。アムネリス役のバルビエリも「王女」という設定からするといささか年を食いすぎた雰囲気があるのが残念ですが、どちらにしても、この難役は誰が歌っても文句をつけられる損な役回りです。
さらに言えば、それ以外のヴェルディ作品と比べればオーケストラが重要な役割を果たす作品ですから、セラフィンとスカラ座の管弦楽団は非常に手堅い演奏をしていることも評価できるでしょう。もちろん、あの有名な凱旋の場におけるオケの響きにはもう少し輝きがほしいような気もしますが、それよりも、一人一人の歌手の歌声にそっとあわせていく職人芸はさすがはセラフィンと思わせるものがあります。
ただし、惜しむらくは、何となくぼけた感じが否めない録音のクオリティです。「録音が悪い」とまでは言い切ってしまえないと思いますが、しかし、55年のモノラル録音であれば、もう少しシャープに細部まで音がすくい取れたのではないかと思います。
とは言え、そう言う部分の不満はあったとしても、未だにアイーダの決定版としての地位は失っていないと思います。
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- 最高、これぞ歴史的名演(ξ^∇^ξ) ホホホホホホホホホ>>>9~10
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