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ワーグナー:ニーベルングの指輪~序夜「ラインの黄金」


ショルティ指揮 ウィーンフィル ウィーン国立歌劇場合唱団 ジョージ・ロンドン(Br:ヴォータン) グスタフ・ナイトリンガー(Br:アルベリヒ) セット・スヴァンホルム(T:ローゲ) キルステン・フラグスタート(MS:フリッカ)他 1958年9月録音


4部作の前口上

上演に4日を要する巨大な楽劇の幕開けであり、前口上のような位置にあるのが「ラインの黄金」です。舞台の設定とそこで活躍する人物たちが実に手際よく語られていきます。さらに、そのお話もラインの川底や地底の国であるニーベルハイム等というファンタジー的な場で展開されますし、上演時間も2時間半程度と「コンパクト?」なので、ニーベルングの指輪の中ではもっとも取っつきやすい作品かも知れません。

まず、コントラバスの地鳴りのような持続音で幕が開きます。これは「世界の始原」を表すものであり、まさにワーグナー流の「天地創造」の音楽です。やがてホルンの音がそこに重ねられていき、弦楽器群に金管が加わってクライマックスが作られると幕が開きます。まさに、バイロイトの劇場にこそ相応しい効果満点のオープニングです。

<第1場>ラインの河底

聴き所の第一は冒頭のラインの乙女の叫びです。これは「生命の産声」であり、まさにこの声によって全ての聴衆の耳を引きつけなければなりません。
そこへ、この物語の「裏主役」とも言うべきアルベリッヒが登場します。アルベリッヒは3人の乙女に次々と言い寄りますが、姿の醜い小人族のゆえに徹底的に拒絶されます。その拒絶のされ方は、アルベリッヒが可哀相になるくらい徹底的に馬鹿にされて拒絶されます。
そこへ、突然、ラインの黄金が姿を現します。
そして、乙女たちは不用意にもアルベリッヒに黄金の秘密を語ってしまいます。それは、その黄金で作った指輪を持ったものには無限の権力が与えられと言うことです。そして、その指輪を持つためには全ての愛を断念しなければならないという秘密です。
乙女たちは、しつこく自分たちに言い寄るこの醜い男が愛を断念できるはずがないと高をくくったのです。
しかし、物語は予想を超える展開を始めます。

ここでアルベリッヒは愛を呪う宣言をして黄金を手に入れてしまいます。
この呪いの宣言にリアリティをもたらすためには、冒頭の「拒絶」が徹底的にアルベリッヒをいたぶり、痛めつけるものでなくてはなりません。
このアルベリッヒが黄金を手に入れたときの悪魔的な高笑いこそがこの物語の発端であるのですから、ここも大きな聴き所です。

やがて、音楽は乙女たちの嘆きからハープの響きにのってヴァルハラの動機が奏されて地上でまどろむヴォータンの場面へと移行します。この移行の仕方もワーグナーならではの素晴らしさです。

<第2場>広々とした山の高み

眠りから覚めたヴォータンは「永遠の作品が完成した」と、満足そうにヴァルハラ城を見上げます。そこへ、巨人族の兄弟であるファーゾルトとファフナーが登場して、ヴァルハラ城建設の報酬として美の女神フライアを要求します。
ファーゾルトは契約に従ってフライアを引き渡すことを要求するのですが、ヴォータンはそれを一笑に付します。彼は本当にフライアに惚れているようで、その純情さは可哀相なほどです。
しかし、ファフナーの方は最初からヴォータンが約束を守るはずがないことを承知しているようで、それをネタに神々を脅しにかかります。この二人のキャラクターの違いが、仲違いしたときにファーゾルトの方が殺されてしまうことにつながるようです。

契約の履行を迫るファフナーの前に進退窮まったヴォータンの前に登場したのが「火の神」であるローゲです。
彼はあれこれ関係のないことを語っては一同をじらしたあとに、アルベリッヒがラインの黄金を奪ったことを語ります。もとから、フライアよりは財宝や権力にこそ執着していたファフナーはこの話に飛びつき、フライアの代わりに黄金を要求し出します。そして、その担保としてフライアを連れ去ってしまいます。

フライアは神々の生命の源である「黄金のリンゴ」を作り出す神であったために神々は急激に生命力を失っていきます。ついに、ヴォータンは地底の国であるニーベルハイムに赴き、アルベリッヒの黄金を奪い取ることを決意します。

<第3場>ニーベルハイム

アルベリッヒはニーベルング族の王となり地底の国に君臨しています。彼は弟のミーメに作らせた「隠れ頭巾」をかぶって透明人間となり、ミーメをむち打ってその権力に酔いしれています。
そこへ、ヴォータンとローゲが登場します。己の権力に酔いしれていたアルベリッヒはこの神々に対しても露骨に嫌悪感をあらわにして不穏な空気が流れるのですが、ローゲが巧みにアルベリッヒをおだて上げてその場をおさめます。さらに、ローゲはアルベリッヒをおだて上げて大蛇に変身させ、最後は蛙に変身させてしまい、あっさりとアルベリッヒを捕まえてしまいます。

<第4場>広々とした山の高み

捕まえられたアルベリッヒは、身代金として全ての財宝を要求されるのですが、指輪さえ持っていればそんなものはいくらでも取り戻せると考えて、その無茶な要求を受け入れます。
しかし、ヴォータンとローゲの悪どさはアルベリッヒの想像を超えていて、彼らは財宝以外に隠れ頭巾と指輪までをも要求します。
縄を解かれたアルベリッヒは絶望の叫びを上げながらも、指輪に対して呪いの言葉を投げかけます。この呪いの場面もアルベリッヒ役の聞かせどころです。

しかし、そんな呪いなど意に介さないヴォータンは意気揚々と引き上げてきて、神々もそれを脳天気に歓迎します。
そこへ、巨人族の兄弟がフライアを連れて姿を現します。
彼らは、フライアの身の丈と同じだけの黄金を要求するのですが、アルベリッヒから奪った財宝だけではフライの髪の毛が隠れません。そこで、その髪の毛を隠すために「隠れ頭巾」を彼らは要求し、さらには財宝の隙間からフライアの瞳が見えていることをネタに、それを隠すために指輪までをも要求します。
指輪の秘密を知るヴォータンは当然のことながらそれを拒絶するので、またまた事態は凍結してしまいます。
そこへ「智の神エールダ」が登場して神々の黄昏が近づいていることを告げてヴォータンに指輪を手放すことを告げます。この場面は実に印象的で、一種超越的な巫女的存在としての資質が要求されるので、短いながらも難しい役所です。

このエールダの警告にヴォータンも漸く指輪を手放すことに同意し、フライアは解放されます。
そして、望み通り財宝を手に入れた巨人族の兄弟は、早速分け分を巡って言い争いを始めます。事の起こりは、ローゲの助言に従ってファーゾルトがフライアの身代わりとして指輪だけを要求したことでした。しかし、指輪を渡すまいとするファフナーはついに棍棒の一撃でファーゾルトを打ち殺してしまいます。哀れを極めるのは、純情男のファーゾルトです。

この険悪な雰囲気にさすがのヴォータンも不吉なものを感じるのですが、その空気を振り払うように雷神ドンナーがハンマーをふるって雲を集め雷を起こします。そして、ここから有名な「ヴァルハラ城への神々の入場」が始まります。
フローが城へと架かる虹の橋を架けて、そこへヴォータンが足をかけるとラインの乙女の嘆きの歌が聞こえてきます。それを不快に思ったヴォータンのためにローゲは皮肉な言葉を投げ返して一同の笑いを誘います。しかし、ラインの乙女の歌は依然として警告の歌を響かせ続け、そこへローゲが神々の没落と、やがては己の炎で彼らを焼き尽くすことを語ります。くせ者ローゲが唯一己の本音をもらす場面です。
しかし、そう言う「些細」な事は壮大なオーケストラの響きの中にかき消されていって除夜の幕は閉じます。まさに、次の夜へと期待の高まる見事なエンディングです。

20世紀の録音史に燦然と輝く金字塔


率直に言えば、ワーグナーの楽劇はどうにも取っつきが悪いのです。それが、「ニーベルングの指輪」ともなれば、そのボリュームだけで圧倒されて聞く前からへこたれてしまいます。
自慢ではないですが、この長大な4部作を、とりあえずは最初から最後まで通して聞いたのは、私の人生では「1回」しかありません。それも、ショルティやベーム等という名の通った録音ではなくて、グスタフ・クーンが率いるチロル音楽祭でのライブ録音をまとめたものです。
なぜに聞き通せたのかと言えば理由は簡単、速めのテンポで実にすっきりと指輪の世界を描き出していて「胃もたれゼロ」だったからです。

ビジュアルが欠落している「音楽」だけでこのような大作を聞き通すのは並大抵のことではありません。
ですから、世評の高いショルティやカラヤンなどは、その欠落を埋めるためにオケを雄弁に物語らせて、まるで眼前に舞台が見えるかのように演奏してくれます。
しかし、それは「一度は生の舞台を見たことがある人」にとっては有効であっても、そんな機会に恵まれない多くの人にとっては逆に「胃もたれ」を引き起こしかねません。
いや、私は確実にもたれます。
だから、言い訳をするわけではないのですが、このショルティの録音も「一幕だけ」みたいな聴き方をすることが多くて、結局はこの長大な4部作をショルティの録音で一気に聞き通したことは一度もないのです。
その点、クーンの録音は音楽祭の舞台をそのまま切り取ったものなので、変な小細工がないので逆に聞きやすいのです。

さらに言えば、クーンの演奏で指輪を聞き通すと、この4部作からなる楽劇がまるで4楽章構成の巨大なシンフォニーであるかのような統一感に貫かれていることにも気づかされます。そんなような話は「知識」としては頭の中には入っているのですが、それを実感として感じ取らせてくれるクーンの演奏は「ただ者」ではありません。
確かに歌手陣に関しては明らかに力不足を感じる面は多々ありますから、決して理想的な指輪でないことは事実です。しかし、このとてつもなく巨大な作品にはじめて向きあうには好適な録音だと思います。

とは言え、そのあたりを入り口として何とか「指輪」と向きあうことができれば、やはり一度は正面からしっかりと向きあいたいのがショルティの録音です。このショルティのと言うべきか、カルショーのと言うべきかは迷いますが、まさにこの録音こそはクラシック音楽の録音史に燦然と輝く金字塔です。
そして、「ショルティのと言うべきか、カルショーのと言うべきか」などと言う物言いはいささかショルティに失礼かも知れないのですが、そこにこそ、この録音の持つ大きな意義があります。

よく知られていることですが、この「ラインの黄金」ははじめはクナッパーツブッシュで録音される予定でした。
フルトヴェングラーもクラウスも鬼籍に入ったあとではクナッパーツブッシュこそが最高のワーグナー指揮者でしたから、この記念碑的な録音を任せる指揮者としては当然の選択でした。
しかし、カルショーはデッカの社長を説得して、当時46歳の若手指揮者だったショルティにチェンジさせます。
この時カルショーはわずか34歳だったのですから、この大事業を任されるだけでも大変なことでした。ところが、さらに己の理想を実現するために社長に直談判して、指揮者を偉大なるマエストロから駆け出しの若手にを変更させたのですから驚かされます。
そして、それを認めたデッカという会社も何とも懐の広い会社でした。昨今は単年度でチマチマと「これだけの利益は出せ!」なんてな事をやっているらしいのですが、そんなやり方では「屑」・・・とまでは言いませんが、たいしたものは生まれないのではないかと思ってしまいます。

では、なぜにカルショーは指揮者をクナからショルティに変えたのでしょう。
そこには、この時代の指揮者という存在の大きさが重要なファクターとして存在します。
そう、この時代の指揮者というのはとっても偉かったのです。今のように、オケの前に立って「振らせていただきます」みたいな腰の低い指揮者などは存在しなかったのです。それが、トスカニーニやフルトヴェングラーやクナのようなマエストロクラスになると、それはそれは、神のごとき存在だったのです。
若手の指揮者を相手にしたリハーサルでチンタラチンタラ演奏してたベルリンフィルが、突然本番のように気合いを入れて演奏し始めたので、何事が起こったのかと驚いた人がホールを見回すと入り口にフルトヴェングラーが立っていた、というのは有名なエピソードです。
つまりは、それくらい「偉かった」のです。

ですから、もしもカルショーが指揮者としてクナを押しつけられたのなら、それはクナの指輪になってしまいます。もちろん、それはそれで素晴らしい演奏になったでしょうが(彼には、ワルキューレの一幕だけと言う変則的な録音がありますが、それはそれは素晴らしい演奏でした)、カルショーが理想と考えるワーグナーにならないことは誰が考えても分かります。
カルショーが理想としたワーグナーは、ワーグナーがスコアに書いてあることをもっとも理想的な形で完璧に再現することでした。そこには、劇場的な効果やマエストロの思い入れ、さらに言えば霊感も不要でした。それは、言葉をかえれば、戦後のクラシック音楽界を席巻した新即物主義という思潮の一つの到達点を打ち立てようとするものでした。
ですから、彼にとって必要だったのは偉大ではあっても我の強い我が儘なマエストロではなく、能力もあって誠実で、かつ忍耐強いパートナーとしての指揮者だったのです。その点で言えば、彼がショルティに白羽の矢を立てたのは慧眼でした。

ショルティという人は基本的に努力の人でした。
彼は朝早く起き出して自分の手で珈琲を入れ、その二杯目からスコアを広げて勉強するという生活を終生貫き通した人でした。もちろん、彼らは常に関係が良好だったわけではなく、時には激しくぶつかることもあったようですが、それでもショルティは常に誠実であり、粘り強くこの困難な作業に取り組みました。そして、カルショー自身が「時間をかけて、音楽的にも技術的にも懸命に練り上げた」と語ったような「献身」はクナのようなタイプのマエストロには期待できないことでした。
その意味で、この録音は決してカルショーのものだけでなく、ショルティのものでもあったのです。特に、この国におけるショルティの評価は不当と思えるほどに低く、それ故に、この録音におけるショルティの役割をおとしめる評価も散見するのですが、それは絶対に間違っています。疑いもなく、この録音はショルティであったからこそ実現し得たものであることを忘れてはいけません。

この録音は、いろいろな意味で画期的なものでした。そして、数ある功績の中での最大のものは、録音という行為が単なるコンサートの代替物ではなく、コンサートと同じような価値のある新しい芸術のジャンルになりうることを証明したことでした。
このような完璧なポロポーションをもった指輪の演奏を実際の舞台で再現することは絶対に不可能です。
それは、生の舞台がもっている人間くささみたいなものをきれいさっぱり捨象した上に成り立つ人工的な「美」であり、そのような「美」がこの世の中に存在することを誰の目(耳?)にも分かるようにはっきりと示してくれたのです。

おそらく、クラシック音楽の録音の歴史は、このリング以前と以後に二分されるのだろうと思います。そして、新即物主義という思潮は、まさにこの「録音」と言う行為において、その真の居場所を得たのではないでしょうか。
話は飛躍しますが、グールドがコンサート活動からドロップアウトするのも、このような流れとは無縁ではなかったと思います。
しかし、このコンビによって提供された「美」はある種の絶対性を要求するようになることは容易に察しがつきます。そして、その「絶対性」の要求は、やがては短いパーツの継ぎ合わせによって作り上げられる「整形美人」の横行によって新たな問題に直面するようになるのですが、それは次の話です。

私たちは、このカルショーとショルティのコンビによって、今まで誰も聞いたことがなかった新しいワーグナーの姿を提供されました。それは、偉大なマエストロたちが提供してくれたワーグナーとは全く次元の違う衝撃的なまでに新しいワーグナー像でした。そして、時代はこの新しいワーグナー像をスタンダードなものとして採用するようになり、やがては現実の舞台もこれを模倣するようになっていくのです。
まさに、「20世紀の録音史に燦然と輝く金字塔」という名に恥じない歴史的録音です。

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