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ショパン:バラード集(全4曲)

P:フランソワ 1954年10月録音



Chopin:バラード第1番 ト短調 作品23

Chopin:バラード第2番 ヘ長調 作品38

Chopin:バラード第3番 変イ長調 作品47

Chopin:バラード第4番 ヘ短調 作品52


ピアノによる物語

バラードというのは物語のことですから、これは基本的にピアノという「言語」を使った物語だと思います。
しかし、どういうわけか、音楽に物語性を持ち込むことは一段レベルが低くなると思う風潮がこの国にはあるようで、どの解説書を読んでも創作の動機となった物語の内容とこの作品の結びつきをできる限り過小に評価しようという記述が目立ちます。
とは言え、ショパンの研究家の間ではポーランドの詩人アダム・ミツキェヴィッチのどの作品と結びつきがあるのかという研究は熱心されてきましたので、今日ではおおよそ以下のような対応関係が確定されているようです。

バラード第1番ト短調 作品23→→→「コンラード・ヴァーレンロッド」
バラード第2番ヘ長調 作品38→→→「魔の湖」
バラード第3番変イ長調 作品47→→→「水の精」
バラード第4番ヘ短調 作品42→→→どうもこれだけがミツキェヴィッチの詩とは関係ないらしい

もちろん、それぞれの作品がそっくりそのままミツキェヴィッチの詩と対応しているという事はありません。そういう意味では、R.シュトラウスの交響詩などのような「標題音楽」とは異なります。
しかし、優れたピアニストによる演奏でこの作品を聞くと、明らかに一つの物語を聞かされたような「納得感」みたいなものを感じ取ることができます。昨今の、指だけがよく回る若手ピアニストによる演奏を聴かされて何がつまらないからと言うと、この「納得感」みたいなものが希薄なことです。ピアノだけは派手に鳴り響くのですが、聞き終わった後に何とも言えない取り留めの無さしか残らないのは実に虚しいのです。

あまり専門的なことは分からないのですが、「スケルツォ」や「バラード」のような作品は、明らかに始まりの時点から終わりが意識されています。それは、「ノクターン」などにおいて、いろいろなフレーズが取り留めもなく流れくるような雰囲気とは大きく異なります。
たとえば、バラードの1番で冒頭のユニゾンを鳴り響かせたときに、それはコーダの「Presto con fuoco」に向けた明確な一本の線で結びついていなければいけません。
ある方は、こんな風に書かれていました。

「各動機、各音は前後のしがらみに囚われており、逸脱を許されない。沈鬱な主題が次々と現われ、それらは鬱積して怒濤をなし、ついには破滅的な終末を迎える。」

なんと上手いこと表現するのでしょう。
明らかに、この作品を生み出す原動力となったのはミツキェヴィッチの詩によって喚起されたショパンの内なるイメージです。しかし、作品というものはそれが生み出され発表されてしまえば、それは作曲家の手を離れて一人歩きします。
即物主義は、一人歩きを始めた作品の恣意的解釈を戒めて、作曲家の内なるイメージに迫ることを要求しました。しかし、このような作品ならば、演奏家はスコアから喚起された己のイメージに忠実に演奏することも許されるでしょう。少なくとも、お約束ごとの上に胡座をかいて、ひたすらスコアを正確に音に変換する作業を聞かされるよりは百倍は幸福なはずです。

バラード第1番ト短調 作品23
自分でピアノを演奏する人のなかでは非常に人気のある作品です。
そこそこ難しくて、そしてその苦労に見合うだけの華やかな演奏効果が期待できます。

シューマンはこの作品に対して「彼の作品のなかでは最も優れた作品とは言えないが、そこには彼の天才性が現れているように思われます。」などと、ほめているのか貶しているのか分からないような言葉を残しています。

バラード第2番ヘ長調 作品38
最初は牧歌的で伸びやかな音楽が奏され、それがやがて静かに幕が閉じられます。なんだこれは?とてもショパンの作品とは思えないような退屈で陳腐な作品じゃないか!!と思ったとたんに「Presto con fuoco」でピアノが爆発します。後は聞いてのお楽しみ・・・です。

シューマンは手紙の中で「その熱狂的なエピソードはあとから挿入されたものらしい。ショパンがこのバラードをここで演奏してくれたとき、曲がヘ長調で終わっていたのを思い出す。ところが今度はイ短調に変わっている。彼はそのとき、このバラードを書くためにミツキェヴィチのある詩(=「魔の湖」)から感銘を受けたと言っていた。しかし他面彼の音楽は詩人をしてそれに歌詞をつけさすような感銘を与えるだろう。」と書いています。

バラード第3番変イ長調 作品47

最も優雅な情緒に満ちていて、まさにパリの社交界の雰囲気を彷彿とさせる作品です。
シューマン曰く「フランスの首都の貴族的環境に順応した、洗練された知的なポーランド人が、そのなかに明らかに発見されるであろう。」
まさにおっしゃるとおりです。

バラード第4番ヘ短調 作品52

おそらく、ショパンの最高傑作の一つと言い切っていいでしょう。演奏する人にとってはさりげなく難しい箇所が多く、かといって華やかな演奏効果にも縁遠い作品なので、実に怖い作品でもあるようです。
ただし、気楽に聞くだけの人にとっては、これ一曲でその人が持っている表現力が分かってしまうので、実に面白い作品です。


作曲家に関することについて、私は興味はありません。

サンソン・フランソワ、酒と煙草、そしてジャズをこよなく愛したピアニスト、破滅的とも言えるような生き様の果てにわずか46歳でこの世を去ったピアニスト、そして、19世紀型ピアニストの最後の生き残りとも評された男です。

そんな男がこう言い放っています。
「作曲家に関することについて、私は興味はありません。」

原点尊重が錦の御旗で、作曲家の意図にどれほど忠実に演奏するかが演奏家の試金石になる時代にあって、なかなか言える言葉ではありません。おかげで、演奏というものは作曲家の意図に忠実でなければならないという立場(即物主義)からは襤褸糞に評価されてきました。

でも、彼の演奏は時にロマンティック、時にスリリングで面白いんですね。とりわけ50年代にモノラルで録音された録音は聞き終わった後に「ああ、面白かった!!」というようなレベルではなくて、聞いているうちに思わず絶叫したくなるほどの熱さとスリルに満ちた面白さを持っています。
それは、「テンポ設定ってこんなんでよかったの」とか、「いくらなんでもルパートかけすぎでしょ」とか、「もしかしたらスコア勝手に変えてない」とか、そんな「些末」な事はどうでもいいと思えるような面白さに満ちているのです。(うーっ、些末じゃないか・・・)
そういう意味では、彼は疑いもなくバッハマンやパデレフスキーに代表されるような、とんでもなく主観的な演奏を展開した19世紀のピアニストの生き残りのように聞こえます。

戦後のクラシック音楽界を席巻した「即物主義」の功罪については、あちこちで言及してきました。
音楽作品を19世紀のロマン主義的歪曲から救い出した「功」については、今さら言うまでもないでしょう。

ロマン主義的歪曲の問題点は音楽作品を目的ではなくて手段にしてしまったことです。
ホフマンたちは音楽作品を己のテクニックを誇示するための道具にしましたし、バッハマンたちは己の主観的感情や気分を顕示するための道具にしたのです。
ですから、シュナーベルからギーゼキングにつながっていく即物主義の流れは、その様な演奏家と作曲家の関係を180度転換させるものでした。
作曲家等という存在はどこかに忘れ去られ、その作品さえもが音楽とは全く別の何者かを誇示するための道具に貶められていたものをもう一度拾い上げて、今度は演奏家がその作品に仕えようと言うのが即物主義の意味するところだったのです。

それは年を経た美術作品から、表面を覆っていたゴミを丹念に取り除いていくのと似た作業でした。時には、修復という名で適当に加筆された部分を取り除くことも必要だったでしょう。
しかし、その結果として、その作品が生み出されたときの輝きを取り戻した功績の大きさは讃えられてしかるべきです。

さて、問題はここからです。
美術作品ならば、修復作業が済めば、その作品を展示しておけば話はすみます。しかし、音楽作品ならば、演奏家が演奏のたびにこの「修復」作業に当たる必要があります。しかし、現実問題として、演奏のたびにスコアに向かい合ってゼロからスタートする演奏家は決して多くはありません。ともすれば、先人の轍のうえを危なげなく通り過ぎるだけで「作曲家の意図に忠実な演奏」と主張して事が済んでしまいます。
凡庸な演奏家にとって「即物主義」とは、己の「凡庸」さを覆い隠す隠れ蓑になりました。
これが「即物主義」の「罪」の部分です。

考えてみれば、「即物主義」というのはなんという矛盾をはらんでいることでしょう。それは、「作曲家の意図」という絶対的に正しい「答え」がどこかに存在していて、演奏という行為はその正しい「答え」に対する比較によって「採点」されるという息苦しさを常にかかえこまざるを得ないのです。
こんな作業のどこに、芸術家が豊かな創造性の羽を伸ばすことができるのでしょうか。
もちろん、「作曲家の意図」にどれくらい迫れるのかという範囲において創造性が発揮できるという人もいるでしょう。しかし、それはまるで収束する級数の最先端におけるミクロの争いのようです。そこからは、創造性という言葉から連想されるような闊達さではなく、逆に息苦しさしか感じられません。

芸術というのは、闊達な創造性に彩られていなければいけません。
「即物主義」というものが生まれたのは、疑いもなくそのような闊達な創造性の営みによるものでした。しかし、「即物主義」が一つの権威となってしまうと、瞬く間にそこから創造性は失われていきました。そして、その果てにおいて「古楽器ムーブメント」という「鬼子」を生み出して木っ端微塵に砕け散ってしまったのが「今」という時代です。
思い切った言い方が許してもらえるならば、そんな今にあって必要なのは、音楽作品を「即物主義的歪曲」から救い出すことかもしれないのです。
そういう意味で、もしかしたら、漸くにして時代はフランソワに追いついたのかもしれません。彼は決して「19世紀型ピアニストの最後の生き残り」などではなく、この行き詰まった即物主義の時代の先を歩いていたのです。

最後に、ちょっとばかり格好をつけて、フランソワのピアノを聞くといつも思い出すランボーの詩をひとつ。

  俺は歩いた 破れたポケットに両手を突っ込んで
  外套もポケットに劣らずおあつらえ向きだった
  大空の下を俺は歩いた ミューズを道案内にして
  何たる愛の奇跡を俺は夢見たことか

  一張羅のズボンにもでっかい穴があいていた
  俺は夢見る親指小僧よろしく道々詩に韻を踏ませた
  俺様の今夜の宿は大熊座
  あちこちにきらめくは我が星座

  俺は聞き入る 道端にしゃがみ込んで
  九月のこの良き夕空に浮かぶ星たちのささやきに
  すると夜露がワインの滴となって俺の額を濡らし

  俺はいよいよ韻を踏むのに夢中になると
  膝を胸に引き寄せて竪琴のように抱え込んでは
  靴の紐を引っ張って楽器のかわりにしたのだった

積み重なったヨーロッパ近代の重みに己の感性一つで対峙して砕け散ったランボーとフランソワに近しさを感じるのは私だけでしょうか。

<追記>
「私は自分の快楽のためだけに生きる。誰にも頼らない。孤独だからだ。」
こんな言葉を残したフランソワにとって、バラードやスケルツォこそはもっとも無理なく己のイメージを羽ばたかせることのできる作品だったようです。
疑いもなく、彼の全てのショパン演奏のなかで、もっとも素敵な演奏だと言い切れると思います。(フランソワ本人にとってはどうでもいい話でしょうが・・・)

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2016-12-08:さとちゃん





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