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Home|ショルティ(Georg Solti)|ワーグナー:ニーベルングの指輪~第2夜「ジークフリート」第2幕

ワーグナー:ニーベルングの指輪~第2夜「ジークフリート」第2幕

ショルティ指揮 ウィーンフィル ヴォルフガング・ヴィントガッセン(ジークフリート)・ビルギット・ニルソン(ブリュンヒルデ)・ハンス・ホッター(さすらい人)他 1962年5月8日~18日 & 10月22日~11月5日録音


Wagner:Siegfried Act2 [Prelude]

Wagner:Siegfried Act2 [In Wald und Nacht]

Wagner:Siegfried Act2 [Zur Neidhohle fuhr ich bei Nacht]

Wagner:Siegfried Act2 [Mit mir nicht, hadre mit Mime]

Wagner:Siegfried Act2 [Fafner! Fafner! Erwache, Wurm!]

Wagner:Siegfried Act2 [Nun, Alberich, das schlug fehl]

Wagner:Siegfried Act2 [Wir sind zur Stelle!]

Wagner:Siegfried Act2 [Das der mein Vater nicht ist]

Wagner:Siegfried Act2 [Aber wie sah meine Mutter wohl aus?]

Wagner:Siegfried Act2 [Meine mutter, ein Menschenweib!]

Wagner:Siegfried Act2 [Haha! Da hatte mein Lied mir Liebes erblasen!]

Wagner:Siegfried Act2 [Wer bist du, kuhner Knabe, der has Herz mir traf?]

Wagner:Siegfried Act2 [Zur kunde taugt kein Toter]

Wagner:Siegfried Act2 [Wohin schleichst du eilig und schlau]

Wagner:Siegfried Act2 [Was ihr mir nutzt, weis ich nicht]

Wagner:Siegfried Act2 [Willkommen, Siegfried!]

Wagner:Siegfried Act2 [Da lieg auch du, dunkler Wurm!]


ドイツの森でのメルヘン物語

物語の展開は典型的なドイツのメルヘンスタイルに貫かれています。
まずは、ジークフリートというのが野育ちの無邪気な男の子であるものの、その内に偉大な力を秘めているという設定です。このジークフリートというのは言うまでもなく第1夜「ワルキューレ」の主人公であるジークムントとジークリンデの間に生まれた子供です。
ジークリンデはこの子を産み落とした後に深い森の中で死んでしまうのですが、その子どもを育てるのが「指輪」を狙うアルベリヒの弟ミーメです。

指輪は大蛇に姿を変えたファーフナーが洞窟で守っていまう。ミーメはこの子どもがその大蛇をたおすための力を持っていることを期待して育てているのです。
ですから、彼はジークフリートがノートゥングの剣を鍛え上げて大蛇を倒すと、今度は毒薬でジークフリートを殺して指輪を独り占めにしようとします。しかし、大蛇の血を浴びたことで小鳥の言葉が分かるようになったジークフリートはそのミーメのたくらみを小鳥から教えられ、危ういところで彼を斬り殺してしまうのです。

このあたり、正直言って、お話としてはかなり無理があるようで、ためらいなくミーメを斬り殺すジークフリートをみていると「英雄」と言うよりはかなりの「恩知らず」「人でなし」と映ります。
そして、さらに都合のいいことに危険を教えた小鳥は今度は炎に包まれて眠っている美女、ブリュンヒルデのもとに彼を連れて行ってくれるのです。
そして、このジークフリートによって魔の炎の中で眠るブリュンヒルデは目覚め二人はかたく抱きあうのです。

このように都合良く主人公が偉大な力を少しずつ己のものとしながら成長していって、最後は美女と結ばれるというのがこの手のメルヘンスタイルの定番だと思うのですが、これはまさにその様な王道を一切恥じることなく貫き通したオペラだと言えそうです。

第1幕


第1場

ミーメが物思いに沈む「思案の動機」によって幕が開きます。そこへ「財宝の動機」や「剣の動機」が重なって彼が何を考えているのかが暗示されます。
そこへ、突然やんちゃ坊主のジークフリートが登場するのですが、ここで音楽は一変して、さらにあろう事か、彼は親であるミーメに対して熊をけしかけたりするのです。
この場面で馬鹿笑いするジークフリートの最高音はハイCなのですから、ワーグナーの楽劇では「笑う」のも大変なのです。

それに対して、ミーメは「乳飲み子の頃からお前を育ててやった」と「養育の歌」で愚痴をこぼします。

しかし、ある時、水に映る己の姿とミーメの姿があまりにも似ていないことに気づき、彼はミーメに詰め寄ります。最初は言葉を濁していたミーメも仕方なく、ジークフリートの出生に関わる秘密を話します。
すると、彼はミーメに対して母が形見に残したノートゥングの剣を鍛え直すように命じて、再び快活に森へと姿を消してしまいます。

第2場

一人になったミーメのもとに「さすらい人」と名乗る不思議な男が現れます。
もともとが小心者のミーメはこの不気味な男にいらだつのですが、男は厚かましくもミーメの家に居座ってしまいます。そして、その男はお前が知りたいことを教えてやるかわりにお互いの首をかけて知恵比べをしようと持ちかけます。

何とも強引な話の進め方ですが、この不気味な男を早く厄介払いしたいミーメはこの申し出を受け入れます。そして、この知恵比べの中でミーメはこの「さすらい人」がヴォータンであることに気づくのです。
聞くところによると、この知恵比べは長い楽劇のここに至るまでのダイジェスト解説のような役割も果たしているらしいのですが、基本的に言葉の分からない人間にとってはいささか冗長な感は否めません。

そして、最初はヴォータンの謎を次々と言い当てて上機嫌だったミーメなのですが、最後の謎「誰がノートゥングの剣を鍛え直すのか」にミーメが答えられなくなります。そして、ヴォータンは「恐れを知らないものだけがノートゥングの剣を鍛え直すのだ」と語り、さらに「お前の首はそのもの預ける」と言い残して去っていきます。
首は預けると言われたミーメなのですが、ジークフリート使って大蛇を倒せる道筋が見えたので上機嫌になります。

第3場

ミーメはジークフリートにノートゥングの剣が鍛え直すために「恐怖」というものを教え込もうとするのですが、ジークフリートは全くその事を理解しようとしません。やがて、ミーメは洞窟に行って大蛇を退治するように言うのですが、いつまでたってもノートゥングの剣が鍛え直すことが出来ないので、ついにジークフリートは自分勝手に鍛冶仕事を始めてしまいます。
この場面はジークフリートが持っている超人的な力を見せつける場面となっているのですが、その片方でミーメもまたジークフリートを殺すための毒汁を煮始めます。

やがて、ジークフリートの超人的な力によってノートゥングの剣は完成し、それを力を込めて振り下ろすと鉄床は真っ二つに割れてしまいます。

第2幕



暗闇の中で「巨人の動機」「大蛇の動機」、さらには「呪いの動機」「怨念の動機」が鳴り響きます。やがて、その闇の中からアルベリヒの姿が浮かび上がってきます。

第1場

アルベリヒのもとに馬に乗ったヴォータンがやってきます。
アルベリヒはかつて指輪をヴォータンに奪われたことを激しく言いつのるのですが、ヴォータンもまた「私はみるためにやってきた」と告げます。そして、洞窟のファーフナーにもミーメが指輪を奪いに来ると警告を発するのですが、ファーフナーは全く取り合おうとはせずに洞窟の中で眠り続けています。

第2場

ミーメの手引きでジークフリートは洞窟に向かいます。
この途中で、ジークフリートが母への思いに浸る場面で流れるのが「森のささやき」で、これは単独でもオーケストラピースとして取り上げられます。
そして、その思いに浸りながら角笛を吹き鳴らすとファーフナーは目を覚まして姿を現します。

しかし、この両者の戦いの結果は最初から分かっている事で、ノートゥングの剣を持つジークフリートはいとも容易くファーフナーの急所を突き立ててしまいます。そして、瀕死のファーフナーは「お前にこんな事をさせた奴がお前の命を狙っている」と言い残します。
そして、この時に剣に付いた血を舐めると突然小鳥の言葉が分かるようになるのです。


第3場

ファーフナーがジークフリートによって倒されると、財宝の取り分をめぐってアルベリヒとミーメの兄弟は口論をはじめます。しかし、そんな事はお構いなしにジークフリートは洞窟から財宝を運び出し、さらにはその中に指輪があることに気づくと二人は驚き焦ります。しかし、アルベリヒは次の展開をよんでいるかのようにさっさと姿を消してしまうます。
逆に、思い通りに事が運んで大喜びをしているミーメは毒汁でジークフリートの殺害を謀ろうとします。しかし、小鳥の囁きでミーメの殺意を知ったジークフリートは一撃のもとに彼を切り倒してしまいます。

ミーメを倒したジークフリートは今度は大蛇の死体を持ち上げて洞窟に蓋をするのですが、小鳥はさらに岩山に炎に包まれて眠るブリュンヒルデのことを伝えます。
ここで、初めてこのオペラで女性の声が登場するのですが、ワーグナーは最初はここもボーイ・ソプラノで全て男声だけのオペラにしたかったと伝えられています。ただし、この小鳥のパートは意外と難しいので、未だかつてボーイ・ソプラノで演じられたことはないようです。

第3幕


実はこの2幕と3幕の間には10年間の中断があります。そして、その10年の間にワーグナーは「トリスタンとイゾルデ」や「ニュルンベルグのマイスタージンガー」を作曲しています。
この10年の持つ意味は非常に大きく、実際、この第3幕にはいるとオーケストラは俄然雄弁になります。

この冒頭の嵐を思わせるような音楽も、ただの描写ではなく、これから引きおこされるだろうの神々のも没落への危機感が暗示されているように響きます。

第1場

さすらい人の姿をしたヴォータンは再び智の神エールダに神々の運命を問い糾します。しかし、エールダはヴォータンが犯した罪によって神々の黄昏は避けられぬ事を告げます。ヴォータンはエールダの言葉は受けいれず、ジークフリートへの期待を高らかに語るのですが、エールダはそれもまた無駄なことだと述べます。
この神々の対話は、第2幕から10年を隔てたワーグナーの充実ぶりがはっきりと分かる壮大な音楽に仕上がっています。

やがてジークフリートが岩山に近づいてくるとヴォータンが立ちはだかります。
孫との初めての対話を楽しんでいたヴォータンも、その孫のあまりにも不遜な態度に腹をたて、ついに本気で槍を突き出してしまいます。しかし、その槍もノートゥングの剣によって真っ二つに叩き折られると、「行くがいい、わしには止めることができぬ」と言い残して姿を消します。
このヴォータンとジークフリートのやりとりは、神々の長であったヴォータンの老いによる力の衰えへの無念さと、新しい後継者の登場への喜びが複雑に交差する場面となっています。
しかし、一方のジークフリートはその様な感傷などは一切お構いなしに炎の中に飛び込んでいきます。

第2場

ジークフリートは岩山で楯に覆われた人間を見いだします。そして、その鎧を外すと彼は仰天して叫びます。
「Dsa ist kein Mann!」(これは男じゃない!)

そして、初めて女性をみたジークフリートは「恐れ」というものを初めて知ることになります。
最初は母親に助けを求めたりするものの、やがて落ち着きを取り戻すと、ブリュンヒルデの美しさに魅了されるようになっていき、「目を覚ませ」と叫びながら自らの唇をブリュンヒルデの唇に重ねます。

第3場

ホルンを中心とした「目覚めの動機」によってブリュンヒルデはおもむろに目を覚ましていきます。この目覚めのシーンの音楽はジークフリートの死の場面でも回想されるもので非常に感動的です。

やがて、永い眠りから覚めたブリュンヒルデはそこに光り輝く勇士の姿を見いだします。そして、その勇士の名を尋ねるとジークフリートと答えることに感動して、彼女は神々に感謝を捧げます。
ここから、フィナーレまで一気に長大な愛の二重唱になるのですが、大変なのはジークフリート役のテノールです。
そりゃぁ、そうです。
幕開けから出ずっぱりのテノールに対して、ブリュンヒルデのソプラノはここから歌い始めるのです。オペラ史上最大のハンディキャップ・マッチと言われる所以です。(だから録音を聞いた方がいいんだ、と言う噂もあったりします。)

しかも、この愛の二重唱は一筋縄ではいきません。
何故ならば、肝心のブリュンヒルデが焦らしに焦らすのです。

そこには長い間待ちすぎた女の悲哀みたいなものも感じられるほどですが、それを優しくほぐす気遣いはジークフリートにはありません。
彼はひたすら本能のおもむくままに押しの一手なのですが、意外なことにこのような無邪気さこそが女性の心を開くようで、ついに躊躇い続けていたブリュンヒルデもついにジークフリートに声を合わせて愛の歓喜を歌い上げて幕がおります。


20世紀の録音史に燦然と輝く金字塔

率直に言えば、ワーグナーの楽劇はどうにも取っつきが悪いのです。それが、「ニーベルングの指輪」ともなれば、そのボリュームだけで圧倒されて聞く前からへこたれてしまいます。
自慢ではないですが、この長大な4部作を、とりあえずは最初から最後まで通して聞いたのは、私の人生では「1回」しかありません。それも、ショルティやベーム等という名の通った録音ではなくて、グスタフ・クーンが率いるチロル音楽祭でのライブ録音をまとめたものです。
なぜに聞き通せたのかと言えば理由は簡単、速めのテンポで実にすっきりと指輪の世界を描き出していて「胃もたれゼロ」だったからです。

ビジュアルが欠落している「音楽」だけでこのような大作を聞き通すのは並大抵のことではありません。
ですから、世評の高いショルティやカラヤンなどは、その欠落を埋めるためにオケを雄弁に物語らせて、まるで眼前に舞台が見えるかのように演奏してくれます。
しかし、それは「一度は生の舞台を見たことがある人」にとっては有効であっても、そんな機会に恵まれない多くの人にとっては逆に「胃もたれ」を引き起こしかねません。
いや、私は確実にもたれます。
だから、言い訳をするわけではないのですが、このショルティの録音も「一幕だけ」みたいな聴き方をすることが多くて、結局はこの長大な4部作をショルティの録音で一気に聞き通したことは一度もないのです。
その点、クーンの録音は音楽祭の舞台をそのまま切り取ったものなので、変な小細工がないので逆に聞きやすいのです。

さらに言えば、クーンの演奏で指輪を聞き通すと、この4部作からなる楽劇がまるで4楽章構成の巨大なシンフォニーであるかのような統一感に貫かれていることにも気づかされます。そんなような話は「知識」としては頭の中には入っているのですが、それを実感として感じ取らせてくれるクーンの演奏は「ただ者」ではありません。
確かに歌手陣に関しては明らかに力不足を感じる面は多々ありますから、決して理想的な指輪でないことは事実です。しかし、このとてつもなく巨大な作品にはじめて向きあうには好適な録音だと思います。

とは言え、そのあたりを入り口として何とか「指輪」と向きあうことができれば、やはり一度は正面からしっかりと向きあいたいのがショルティの録音です。このショルティのと言うべきか、カルショーのと言うべきかは迷いますが、まさにこの録音こそはクラシック音楽の録音史に燦然と輝く金字塔です。
そして、「ショルティのと言うべきか、カルショーのと言うべきか」などと言う物言いはいささかショルティに失礼かも知れないのですが、そこにこそ、この録音の持つ大きな意義があります。

よく知られていることですが、この「ラインの黄金」ははじめはクナッパーツブッシュで録音される予定でした。
フルトヴェングラーもクラウスも鬼籍に入ったあとではクナッパーツブッシュこそが最高のワーグナー指揮者でしたから、この記念碑的な録音を任せる指揮者としては当然の選択でした。
しかし、カルショーはデッカの社長を説得して、当時46歳の若手指揮者だったショルティにチェンジさせます。
この時カルショーはわずか34歳だったのですから、この大事業を任されるだけでも大変なことでした。ところが、さらに己の理想を実現するために社長に直談判して、指揮者を偉大なるマエストロから駆け出しの若手にを変更させたのですから驚かされます。
そして、それを認めたデッカという会社も何とも懐の広い会社でした。昨今は単年度でチマチマと「これだけの利益は出せ!」なんてな事をやっているらしいのですが、そんなやり方では「屑」・・・とまでは言いませんが、たいしたものは生まれないのではないかと思ってしまいます。

では、なぜにカルショーは指揮者をクナからショルティに変えたのでしょう。
そこには、この時代の指揮者という存在の大きさが重要なファクターとして存在します。
そう、この時代の指揮者というのはとっても偉かったのです。今のように、オケの前に立って「振らせていただきます」みたいな腰の低い指揮者などは存在しなかったのです。それが、トスカニーニやフルトヴェングラーやクナのようなマエストロクラスになると、それはそれは、神のごとき存在だったのです。
若手の指揮者を相手にしたリハーサルでチンタラチンタラ演奏してたベルリンフィルが、突然本番のように気合いを入れて演奏し始めたので、何事が起こったのかと驚いた人がホールを見回すと入り口にフルトヴェングラーが立っていた、というのは有名なエピソードです。
つまりは、それくらい「偉かった」のです。

ですから、もしもカルショーが指揮者としてクナを押しつけられたのなら、それはクナの指輪になってしまいます。もちろん、それはそれで素晴らしい演奏になったでしょうが(彼には、ワルキューレの一幕だけと言う変則的な録音がありますが、それはそれは素晴らしい演奏でした)、カルショーが理想と考えるワーグナーにならないことは誰が考えても分かります。
カルショーが理想としたワーグナーは、ワーグナーがスコアに書いてあることをもっとも理想的な形で完璧に再現することでした。そこには、劇場的な効果やマエストロの思い入れ、さらに言えば霊感も不要でした。それは、言葉をかえれば、戦後のクラシック音楽界を席巻した新即物主義という思潮の一つの到達点を打ち立てようとするものでした。
ですから、彼にとって必要だったのは偉大ではあっても我の強い我が儘なマエストロではなく、能力もあって誠実で、かつ忍耐強いパートナーとしての指揮者だったのです。その点で言えば、彼がショルティに白羽の矢を立てたのは慧眼でした。

ショルティという人は基本的に努力の人でした。
彼は朝早く起き出して自分の手で珈琲を入れ、その二杯目からスコアを広げて勉強するという生活を終生貫き通した人でした。もちろん、彼らは常に関係が良好だったわけではなく、時には激しくぶつかることもあったようですが、それでもショルティは常に誠実であり、粘り強くこの困難な作業に取り組みました。そして、カルショー自身が「時間をかけて、音楽的にも技術的にも懸命に練り上げた」と語ったような「献身」はクナのようなタイプのマエストロには期待できないことでした。
その意味で、この録音は決してカルショーのものだけでなく、ショルティのものでもあったのです。特に、この国におけるショルティの評価は不当と思えるほどに低く、それ故に、この録音におけるショルティの役割をおとしめる評価も散見するのですが、それは絶対に間違っています。疑いもなく、この録音はショルティであったからこそ実現し得たものであることを忘れてはいけません。

この録音は、いろいろな意味で画期的なものでした。そして、数ある功績の中での最大のものは、録音という行為が単なるコンサートの代替物ではなく、コンサートと同じような価値のある新しい芸術のジャンルになりうることを証明したことでした。
このような完璧なプロポーションをもった指輪の演奏を実際の舞台で再現することは絶対に不可能です。
それは、生の舞台がもっている人間くささみたいなものをきれいさっぱり捨象した上に成り立つ人工的な「美」であり、そのような「美」がこの世の中に存在することを誰の目(耳?)にも分かるようにはっきりと示してくれたのです。

おそらく、クラシック音楽の録音の歴史は、このリング以前と以後に二分されるのだろうと思います。そして、新即物主義という思潮は、まさにこの「録音」と言う行為において、その真の居場所を得たのではないでしょうか。
話は飛躍しますが、グールドがコンサート活動からドロップアウトするのも、このような流れとは無縁ではなかったと思います。
しかし、このコンビによって提供された「美」はある種の絶対性を要求するようになることは容易に察しがつきます。そして、その「絶対性」の要求は、やがては短いパーツの継ぎ合わせによって作り上げられる「整形美人」の横行によって新たな問題に直面するようになるのですが、それは次の話です。

私たちは、このカルショーとショルティのコンビによって、今まで誰も聞いたことがなかった新しいワーグナーの姿を提供されました。それは、偉大なマエストロたちが提供してくれたワーグナーとは全く次元の違う衝撃的なまでに新しいワーグナー像でした。そして、時代はこの新しいワーグナー像をスタンダードなものとして採用するようになり、やがては現実の舞台もこれを模倣するようになっていくのです。
まさに、「20世紀の録音史に燦然と輝く金字塔」という名に恥じない歴史的録音です。

ショルティ指揮 ウィーンフィル 1962年5月8日~18日 & 10月22日~11月5日録音


出演者


  1. ヴォルフガング・ヴィントガッセン(ジークフリート)

  2. ビルギット・ニルソン(ブリュンヒルデ)

  3. ハンス・ホッター(さすらい人)

  4. ゲルハルト・シュトルツェ(ミーメ)

  5. グスタフ・ナイトリンガー(アルベリヒ)

  6. クルト・ベーメ(ファフナー)

  7. マルガ・ヘフゲン(エルダ)

  8. ジョーン・サザーランド(森の小鳥)

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