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コルトー(Alfred Cortot)|ショパン:ピアノソナタ第3番 ロ短調 作品58(Chopin:Piano Sonata No.3 in B minor Op.58)
ショパン:ピアノソナタ第3番 ロ短調 作品58(Chopin:Piano Sonata No.3 in B minor Op.58)
アルフレッド・コルトー:1933年7月6日録音(Alfred Cortot:Recorded on july 6, 1933)
Chopin:Piano Sonata No.3 in B minor Op.58 [1.Allegro maestoso]
Chopin:Piano Sonata No.3 in B minor Op.58 [2.Scherzo (molto vivace)]
Chopin:Piano Sonata No.3 in B minor Op.58 [3.Largo]
Chopin:Piano Sonata No.3 in B minor Op.58 [4.Finale (presto, ma non tanto)]
ショパンのピアノソナタ
ショパンのピアノソナタは3曲残されていますが、そのうちの第1番は10代後半の若書き作品です。
この若書きの作品はショパン自身が出版を希望したものの出版社からは無視されます。ところが、彼が名声を博するようになると今度は出版社がショパンに校正を依頼するのですが、今度はそれをショパンが拒否します。そんなこんなで、結局はショパンが亡くなってから「遺作」として出版され手、ようやくにして日の目を見ることになります。
この第1番のソナタには、ショパンらしい閃きよりは、彼が若い時代にいかに苦心惨憺してソナタ形式を身につけようとしたかという「努力」の後が刻み込まれています。それでも、第3楽章のラルゲットからは後のショパンのノクターンを思わせるような叙情性が姿を見せています。いかに習作といえども、やはりショパンはショパンなのです。
それに対して、残りの二つのソナタ、作品35の変ロ短調のソナタと作品58のロ短調ソナタは、疑いもなくショパンの全業績の中でも大きな輝きを放っています。
特に「葬送」というタイトルの付いた変ロ短調のソナタはショパンの作品の中でも最も広く人口に膾炙したものです。
この葬送ソナタは愛人サンドの故郷の館で作曲されたもので、ある意味ではこの二人の最も幸福な時代を反映した作品だともいえます。
この作品の中核をなすのは言うまでもなく、第3楽章の葬送行進曲です。この葬送行進曲は、このソナタが着想されるよりも前にできあがっていたもので、言葉をかえれば、変ロ短調のソナタはこの葬送行進曲を中核としてイメージをふくらませて完成されたといえます。そういう意味では、3つもしくは4つの楽章が緊密な関係性を保持して構築される一般的なソナタとはずいぶんと雰囲気の異なった作品になってしまっています。
そのあたりのことを、シューマンは「ショパンは彼の乱暴な息子たち4人を、ただ一緒にくくりつけた」と表現しています。
もちろん、シューマンはソナタの約束事に反していることを批判しているのではなくて、そういう古い約束事を打ち破って独創性に富んだ作品を生み出したショパンを評価しているのです。それは、有機的な統一感に欠けるという、この作品に寄せられた批判に対するシューマンらしい弁護の論だったのです。
それにしても、二人の最も幸福な時代に葬送行進曲を中核としたソナタを書くというのは何とも不思議な話です。しかし、ここでの「葬送」の対象は個人的なものではなく「祖国ポーランド」であることは明らかです。そう思えば、そういう大きなテーマに取り組むには「幸福」が必要だったと考えれば、それもまた納得できる話です。
そして、その葬送行進曲から5年後に作品58のロ短調ソナタが書かれます。
ショパンにとって宿痾の病だった結核はますます悪化し、さらに父の死というニュースは彼にさらなる打撃を与えます。しかし、そんなショパンのもとを姉夫婦が訪れることで彼は元気を回復し再び創作活動に取り組みます。この作品は、そんなつかの間の木漏れ日ような時期に生み出されたのです。
この作品の大きな特徴は、変ロ短調ソナタとは異なってソナタらしい有機的な統一感を感じ取ることができることです。しかし、音楽の規模はより大きく雄大なものになるのですが、しかしながら決してゴツゴツすることなく、その中にショパンらしい「美しさ」と「叙情性」がちりばめられています。
しかし、世間とは難しいもので、そのような伝統的なソナタ形式への接近ゆえに、リストなどは「霊感よりも努力の方が多く感ぜられる」と批判しています。
変ロ短調ソナタでは伝統からはずれることで有機的な統一性がないことを批判され、逆にロ短調ソナタでは有機的統一への接近故に霊感の欠如と批判されます。
やはり、ダンテが言うように「汝の道を歩め そして人々をして その語るに任せよ」ですね。
テンポ・ルパートの何たるかを知っている演奏
ギオマール・ノヴァエスの演奏について考え抜いた演奏ということを述べた上で、以下のようなことを書きました。
「考えるな、感じろ!」とはブルー・スリーの言葉ですが、クラシック音楽の世界では真逆で「感じるな、考えろ!」が基本とならなければいけません。感じるがままに演奏してものになるほどこの世界は単純ではありません。
基本的にそれほど間違った捉え方ではないと思っています。
しかし、ふとコルトーの演奏が脳裏をよぎりました。
あの自由自在ともいうべき歌心に満ちたショパン演奏が脳裏をよぎるとき、あれってもしかしたらコルトーが楽譜を前にして感じたがままに演奏していたのではないだろうかという思いが否定しかねたのです。
確かにクラシック音楽の世界で感じるがままに演奏して独りよがりではなくて、その感性だけで聞き手を納得させるなどということは人間業をこえています。しかし、時にはそう言うとんでもない存在があったとしても不思議ではなく、そう言う化け物みたいな存在がコルトーだったのではないだろうかと思ってしまうのです。
しかし、その時、これまたふとと、内田光子の言葉がよみがえりました。
彼女はコルトーの演奏に対して「テンポ・ルパートの何たるかを彼ほどに知っている人はいない」と述べていました。
そして、彼の演奏を聞くたびに「この助平親父」と思うのですが、それでもその魅力には抗しきれないみたいなことを話していた記憶があります。
そうなんだ、コルトーは「テンポ・ルパート」の何たるかを知り抜いたピアニストだったのです。そして、その知り尽くした「テンポ・ルパート」を駆使してショパンの楽譜から溢れるほどの歌心を引き出すことが出来たのです。もしかしたら、彼は「考える」ということを意識しないレベルにまで、まさに本能レベルに近い領域で考え抜いていたのかもしれません。
そして、私たちにとってなによりも幸運だったことは、そう言う歌心に溢れたショパンの演奏を30年代の初め頃にまとまってコルトーが録音していてくれたことです。それは、疑いもなくコルトーの絶頂期におけるショパン演奏でした。
そして、さらに幸運だったのは、その一連の録音がSP番録音の真髄を伝えるほどの音質で、脂ののりきった時代のコルトーの演奏が大量に残されたことでした。
今もってその価値を失わない演奏と録音であり、その価値はさらに長きにわたって失われることはないでしょう。
本当な「永遠に失われることはない」と書きたいのですが、あまり軽々に「永遠」などと言う言葉は使わない方がいいでしょうから、控えめに「さらに長きにわたって失われることはない」にとどめました。
SP盤の時代でも驚くほど音質の素晴らしいものに時々出会うのですが、この30年代の前半に行われたコルトーの録音はその中でも極上の部類に分類されます。
おそらく、ブラインドで聞かされればモノラル録音時代のLP盤だと思うはずです。
そう言えば、金属原盤が戦災などをまぬがれて残されている場合があって、そう言う原盤から復刻したものはかなり音質がいいという話を聞いたことがあります。このコルトーの復刻盤もそう言う金属原盤からの復刻かと思ったのですが、あれこれ聞いていると少し違うのかなと思う部分があります。
それは、全体としてはほとんどノイズがのっていないのですが、人気があってよく聞かれる部分が来るとパチパチノイズがのるのです。
例えば、ショパンのピアノソナタだと葬送行進曲の部分にだけノイズがのります。ピアノ協奏曲の第2番だと第2楽章「Larghetto」にだけ、同じようにノイズがのるのです。さらには、「即興曲」の中でも一番の人気曲である「幻想即興曲」だけがパチパチノイズの量が多いのです。
おそらくは、そう言う人気曲ともなれば「未通針」に近いSP盤というのはあり得ないのでしょう。
音楽というのはやはり歌わなければ魅力は半減します。
いや、「歌ってこそなんぼ」の世界なのです。
しかし、どのように歌わせるかというのは、その人の中にどれだけの音楽力(おかしな言葉ですが)、つまりは「考え抜く力」があるかにかかってきます。残念ながら、未だもってこれだけ見事にショパンを歌ったピアニストは、極めて控えめに言ってもこの30年代のコルトーを含めて数えるほどしかいないでしょう。
最近は一つのミスタッチも無しにあっさりと(無表情に)仕上げるのが美徳のように思っているピアニストが多いようです。その背景には本当に考えることなく、ひたすら楽譜に対して正確に演奏する事しか考えていない人が少なくないからでしょう。または、考えがあまりにも足りなさすぎるのでしょう。
こういうコルトーの最盛期の演奏を聞いていると、嫌みな言い方になりますが、「あなたショパンとはそんなにも素っ気ない音楽を書いた人だと信じているのですか?」聞いてみたくなったりします。
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よせられたコメント
2023-07-26:小林正樹
- >>音楽というのはやはり歌わなければ魅力は半減します。いや、「歌ってこそなんぼ」の世界なのです。しかし、どのように歌わせるかというのは、その人の中にどれだけの音楽力(おかしな言葉ですが)、つまりは「考え抜く力」があるかにかかってきます<<
管理人様のこのご意見、僭越ながら私は150パーセントではなく、一万パーセント(笑)ほども賛同いたします。昨今の演奏にはこのことがあまり感じられなくておもろくないんです。感じられるのは演歌や歌謡曲の歌い手に少しくらいかなぁ・・頑張れクラシックと言いたいですねん。いやほんま!!