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リヒター(Karl Richter)|ヘンデル:チェンバロ組曲 第5番 ホ長調 HWV430 「調子の良い鍛冶屋」
ヘンデル:チェンバロ組曲 第5番 ホ長調 HWV430 「調子の良い鍛冶屋」
(Harpsichord)カール・リヒター 1954年3月録音
Handel:Harpsichord Suite in E major, HWV 430 [1.Praludium]
Handel:Harpsichord Suite in E major, HWV 430 [2.Allemande]
Handel:Harpsichord Suite in E major, HWV 430 [3.Courante]
Handel:Harpsichord Suite in E major, HWV 430 [4.Air & 5 variations "The Harmonious Blacksmith"]
海賊版への対抗としてまとめられた作品集
ヘンデルのチェンバロ組曲はアムステルダムやロンドンの出版社から出版されていたのですが、それらは全てヘンデルの許可は一切受けていないものでした。さらには、それ以外にも多くの人によって写譜された楽譜も出回っていたようで、そう言う一連の「海賊版」に対抗するためにヘンデル自身によってまとめられたのが8曲からなる「チェンバロ組曲第1集」でした。
ヘンデルはこの組曲集をまとめるにあたって大幅な改訂を行い、新たに書き下ろした楽章を追加したり既存の楽章と差し替えを行ったりして、海賊版に対する「優位性」を主張しました。
なお、ヘンデルのチェンバロ組曲には第2集というのも存在しているのですが、こちらは海賊版に対抗するためにヘンデル自身によってまとめられた第1集に対抗するために、海賊版を出版していたロンドンの出版社が新たに発行した海賊版でした。(^^;・・・ややこしい。
どうやら、第1集でヘンデルが「この曲集が好評ならば続編を発行する」と書いていたのに便乗した商売だったようです。
ですから、第2集の方はあまり世に知られていないヘンデル初期作品をまとめたものになっています。
今の時代であればあり得ない、さらにはヘンデルの時代であってもかなり酷い商売を行っていた出版社なのですが、その経営者が亡くなって息子の代に変わると、その息子はヘンデルと良好な関係を築くことに成功し、この第2集はヘンデルの許可が与えられます。そして、第2版を発行するときにはヘンデルの意向に従って一部の手直しが行われました。
これもまたややこしい話なのですが、海賊版として出版された第2集は、結果としてはヘンデルが公認する「チェンバロ組曲第2集」となったわけです。
チェンバロ組曲 第5番 ホ長調 HWV430 「調子の良い鍛冶屋」
- Praeludium(前奏曲)
- Allemande(アルマンド)
- Courante(クーラント)
- Air with 5 variations(エアと変奏)「調子の良い鍛冶屋」
この組曲の第1曲「前奏曲」は第1集の組曲を出版するために新しく書かれたものであり、それに続くアルマンドと同じように4声が基本となっています。
また、よく知られているように、「調子の良い鍛冶屋」というタイトルはヘンデル自身がつけたものではありません。さらに言えば、ヘンデルが鍛冶屋の軒下で雨宿りをしていた時に、鍛冶屋がハンマーで金床を撃つ音にインスピレーションを得て旋律を思い付いたというエピソードも、後の時代の人が作りあげた「お話」です。
現代の研究では、この変奏曲はヘンデルのハンブルク時代に作曲した「シャコンヌ」をもとにして改訂したものと考えられています。なお、ヘンデルは何曲も「シャコンヌ」を残していますから、その「シャコンヌ」は先に紹介したシャコンヌとは全く別の作品です。
新しい時代の始まりを密やかに宣言する小さな狼煙
リヒターの初録音は一般的にはシュッツの「音楽による葬送(Musikalische Exequien)」だと言われています。しかしその録音はWikipediaに記されている1954年ではなくて、1953年だったようです。(1953年11月28日~29日録音)
実は、リヒターの初期録音のクレジットは随分といい加減で、酷いボックス盤になると録音クレジットそのものが記載されていないものもあります。
また、この「音楽による葬送」の録音年に関しても、ネット上には1953年、1954年、1955年という3種類の記述が存在しているようです。
こういう事が起こる背景には、レーベルの側にきちんとしたデータが残っていないためであり、それはリヒターという音楽家の扱いがいかに軽かったかという裏返しでもあります。
実は、リヒターの初録音に関してさらに詳しく調べてみると、53年のシュッツ作品の録音よりも前に、レーマン指揮(バンベルク交響楽団)によるブランデンブルグ協奏曲やヘンデルの合奏協奏曲のチェンバリストとして録音に参加しているのです。
そして、シュッツの作品に関して言えば、リヒターの立ち位置は「合唱指揮者」だったのです。
言うまでもないことですが、オーケストラを率いる「指揮者」に対して「合唱指揮者」という存在は一段落ちるというのがこの業界の常識です。
ですから、シュッツの録音に関しても「レーマンのもとでチェンバロを弾いていた人が合唱の指揮もやっているらしいよ」みたいな雰囲気だったのではないでしょうか。
リヒターが頭角を現すのは、彼の師であったギュンター・ラミンが急死し、それによってアルヒーフ・レーベルのカタログを作りあげていく中心的な役割が弟子である彼に回ってきたことがきっかけでした。そして、歴史的な「マタイ受難曲」の録音によってその役割を十二分に果たせることを証明することによって不動の地位を確立したのでした。
しかし、そこに至るには、それ相応の準備期間があるのであって、そこには「新しい音楽」をやりたいという強い思いがあったのです。
よく知られた話ですが、ハインリヒ・シュッツ合唱団を任されたリヒターは、その合唱団でバッハのカンタータを演奏できるように鍛え上げ、名称もミュンヘン・バッハ合唱団と変更しました。さらには、自分たちの活動の幅を広げるためにミュンヘンの街角で「私たちと新しい音楽をやりませんか」と呼びかけるチラシを配って、ミュンヘン・バッハ管弦楽団を設立したのでした。
そして、彼が求めた「新しい音楽」とはどういうものかと言えば、それはこの時代の彼のチェンバロやオルガンによる録音にこそ刻み込まれています。
この1954年3月に録音された二つのヘンデル作品は、リヒターがソリストとして録音活動を行った最初のものではないかと思われます。そして、そこで割り当てられたのがヘンデルの「調子のよい鍛冶屋」と「シャコンヌ」だったというのは、レーベルから見た彼の位置づけが透けて見えます。
しかし、駆け出しの若手にとってはそう言うことに不満を述べるようなポジションにいるわけではないので、与えられた機会を生かして次のステップにつなげていくしかないのです。
それでは、何をもって次の機会につなげようとしたのかと言えば、対位法的に横に絡み合うラインを縦に積み直すような従来のやり方ではなくて、ランドフスカや、師であるラミンが切り開いてきた本来の横へ流れるスタイルで演奏して見せる事だったのです。
そんな事は、今となっては当たり前以上に自明なことなのですが、それを1950年代の前半という時代に置いてみれば、それは画期的なまでに新しかったのです。
ピアノという楽器は10本の指で鍵盤を掴むことで豊かな和声を響かせることは得意ですが、何本もの絡み合う旋律線をくっきりと描き出していくのは苦手です。ですから、ピアノでは実現が難しい複数の横へのラインをクッキリと描き出すためにチェンバロが復活する意味があったのです。
ただし、時代的な制約もあって、ここでリヒターが使用しているのは「モダン・チェンバロ」です。今の耳からすれば、その金属的な響きは耳障りでもあり違和感を感じるかもしれません。
しかし、それでもなお、ここからは伝統という怠惰の中で歪められたバッハやヘンデルの音楽を本来の姿で蘇らせようという強い意志を感じとることは出来ます。
そして、この翌年にはカナダの若いピアニストが、ピアノでもこの方法論が可能なことをゴールドベルク変奏曲という大曲で証明して見せて大きな話題となるのです。
リヒターがこの海の向こうで起こった奇跡をどのような思いで受け止めたのかは知る術もありませんが、それでもこの二人によってバッハ演奏の新しい歴史は作られていくことになるのです。
そう思えば、この54年に録音された2つのヘンデル作品は、新しい時代の始まりを密やかに宣言する小さな狼煙だったのかもしれません。
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