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ケンプ(Wilhelm Kempff)|ベートーベン:ピアノソナタ第1番 ヘ短調 作品2の1
ベートーベン:ピアノソナタ第1番 ヘ短調 作品2の1
(P)ヴィルヘルム・ケンプ 1964年11月9日録音
Beethoven: Piano Sonata No.1 In F Minor, Op.2 No.1 [1. Allegro]
Beethoven: Piano Sonata No.1 In F Minor, Op.2 No.1 [2. Adagio]
Beethoven: Piano Sonata No.1 In F Minor, Op.2 No.1 [3. Menuetto (Allegretto)]
Beethoven: Piano Sonata No.1 In F Minor, Op.2 No.1 [4. Prestissimo]
ハイドンに献呈されたピアノソナタ
ハイドンと若きベートーベンの確執については色々なエピソードが残っています。ハイドンに学んでいるときに訂正してもらった楽譜にたくさんの誤りがあって、「ハイドンからは何も学ぶことがなかった」と失望した話や、「作品1」として発表したピアノ三重奏曲の中で最も自信のあったハ短調の作品を出版しないように忠告されてひどく感情を害した、などです。
しかし、そんなハイドンに対して作品の2として書き上げた三曲のピアノソナタを献呈しているのですから、その行き違いはそれほど深刻なものではなかったようです。
片方はヨーロッパに威名をとどろかせていた大作曲であり、かたやウィーンに出てきたばかりの駆け出しなのですから、喧嘩になる方が難しかったのかもしれません。それに、なんといっても人格破綻者の多いクラシック音楽の世界では、ハイドンは珍しいほどの人格者ですから、そんな尖ったベートーベンに対してやんわりと対応して、その才能を評価することにもやぶさかではなかったのですから、やはり喧嘩になるのは難しかったのでしょう。
実際、ベートーベンにしてみても、落ち着いて考えてみればハイドンはやはり偉大な音楽家であり、自分の才能を見いだしてウィーンへの道を切り開いてくれた恩人であることは間違いないので、こういう形で謝意を表したのでしょう。
ピアノソナタ第1番 ヘ短調 作品2の1
第1楽章 アレグロ ヘ短調
冒頭の第1主題を聞いてどこかで聞いたことがあるような気がした人は鋭い!!
この出だしの部分はモーツァルトのト短調シンフォニーの終楽章との類似性がよく指摘されていました。おそらく、偶然ではなくてベートーベン自身も強く意識してのことだったと思われます。
ベートーベンという人は、同時代、もしくは先駆ける時代の作曲家と比べると短調の作品の割合が多いように思われます。この3つのソナタから作品2でも、冒頭の1番にイ短調のソナタを持ってきています。そう言う意味では、音楽に強い劇的な感情を持ち込んだベートーベンの萌芽がこういうところにも垣間見ることが出来そうです。
そして、これもよく指摘されることですが、この後音楽が長調に移っても臨時記号で一貫して短調の雰囲気が保持されています。そして、最後はそのような色づけの中で明らかにヘ短調に舞い戻ってそのまま終結を迎えます。
第2楽章 アダージョ ヘ長調
この楽章は18世紀的なオペラ的なアリア様式の音楽になっています。形式としては、アリアの両端、つまりは提示部と再現部だけで真ん中の展開部が欠けたような構造になっています。いわゆる、カヴァティーナ形式と呼ばれるものです。
音楽の最後も主調のヘ長調で完全終始するので、非常に静かに幕を閉じるような印象が残ります。
第3楽章 メヌエットア レグレット ヘ短調
伝統的なABA形式で書かれていますが、トリオの部分には挿入句を入れて少し工夫が為されているようです。
第4楽章 プレスティッシモ ヘ短調
まさにベートーベンの若さが持っている激しさが爆発したような音楽になっています。作品2の3曲のソナタの中では最も独創的で大胆な音楽だという人もいます。(私ならば、第3番のアダージョ楽章を取りたい。)
至る所にフォルティッシモの指定があるのも、後のベートーベンを彷彿とさせる楽章です。
神から与えられた恩寵がケンプというエオリアンハープを通して鳴り響く演奏
演奏家の本質的な部分を考える上で「コンプリートする人」と「コンプリートにはこだわらない人」というのは一つの指標になるはずです。
しかし、世の中は常に「例外」が存在するのであって、この二分法が全く意味をなさない演奏家というものも存在します。やはり、そう言うシンプルな「図式論」で割り切れるほど現実はシンプルではないと言うことなのでしょう。
一般的にいって「コンプリートする人」というのはその一連の演奏に一貫した「論理」みたいなものが通底しています。ですから、その論理に従って一つずつの作品と丁寧に向き合い、じっくりと時間をかけて「全集」を完成させるというのが通常のスタイルです。
例えば、ピアニストで言えばバックハウスなどはその典型だと思うのですが、彼は2回目のベートーベンの全集に10年以上の時間をかけながら結果として29番のソナタを残してこの世を去りました。
モノラル録音による1回目の全集にしても1950年から1955年までの長い時間を要しています。
つまりは、じっくりと時間をかけて一つずつの作品と向き合って丁寧に仕上げていくのがそう言うタイプの演奏家の特徴なのです。
ところが、このケンプというピアニストに関しては、そう言う「常識」が通用しないのです。
外面的に見れば、彼は疑いもなく「コンプリートする人」の部類に入ります。
何しろ、彼はモノラル録音で1回、ステレオ録音で1回の計2回もベートーベンのソナタをコンプリートしているからです。最晩年には、当時は取り上げる人もそれほど多くなかったシューベルトのソナタもほぼコンプリートしています。
さらに調べてみると、ケンプは戦時中の1940年代にもベートーベンの全曲録音に取り組んでいました。
結果としてこの全集は未完成に終わったのですが、もし完成していればシュナーベルに続くコンプリートになる予定でした。
そしてもう一つ、1961年の来日の時にNHKのラジオ放送のためにベートーベンのソナタを全曲録音しているのです。
つまりは、彼はその生涯においてベートーベンのソナタの全曲録音に4回も取り組み、その内の3回は完成させているのです。
- 1940年~1943年:SP録音(未完成)
- 1951年~1956年:モノラル録音
- 1961年:ラジオ放送のためのライブ録音
- 1964年~1965年:ステレオ録音
61年のライブ録音は10月10日,12日,14日,16日,26日,27日,30日の7日間で行われています。来日時の限られた日程の中での録音だったのでそれは仕方がないことだったのですが、それ以外のセッション録音の方はクレジットを見る限りはそれなりに時間をかけて取り組んだかのように見えます。
ですから、外見上は疑いもなく「コンプリートする人」のように見えるのです。
ところが、詳しい録音のクレジットが残っている50年代のモノラル録音と60年代のステレオ録音をさらに細かく調べてみると、一見するとそれなりに時間をかけて取り組んだように見えながら、その実態は61年のライブ録音とそれほど変わりのないことに気づくのです。
例えば50年代のモノラル録音をもう少し詳しく見てみると以下のような日程で行われています。
- 1951年9月20日:作品110/作品111
- 1951年9月21日:作品90/作品106
- 1951年9月22日:作品57/ 作品78/作品79
- 1951年9月24日:作品53/作品81a
- 1951年10月13日:作品7
- 1951年12月19日:作品2-2/作品2-3/作品10-1/作品10-2
- 1951年12月20日:作品14-2/作品26/作品27-1/作品10-3/作品14-1
- 1951年12月21日:作品28/作品31-1/作品31-2
- 1951年12月22日: 作品31-3
- 1951年9月25日&12月22日:作品49-1
- 1951年10月13日&12月22日:作品2-1
- 1951年9月25日: 作品49-2/作品54/作品101/作品109
- 1953年1月23日:作品13
- 1956年5月3&4日:作品27-2
- 1956年5月4&5日:作品22
つまりは1951年の9月と12月の10日ほどの間に集中して録音がされていて、落ち穂拾いのように53年と56年に3曲が録音されているのです。
録音の進め方としては61年のライブ録音の時とそれほど大差はありません。
そして、それと同じ事がステレオ録音の方に言えるのです。
煩わしくなるのでこれ以上細かいクレジットは紹介しませんが、ザックリと言って、64年の1月に29番以降の後期のソナタを4曲録音して、その後は9月の4日間で中期の9曲、11月の4日間で初期作品を中心に12曲、そして年が明けた1月の4日間で残された7曲を録音して全集を仕上げているのです。
つまりは、誤解を恐れずに言い切ってしまえば、ケンプという人は「コンプリートにこだわらない人」の感性を持って「コンプリート」しているように見えるのです。
「コンプリートにこだわらない人」の特徴は己の感性に正直だということです。
ですから、普通そう言うタイプの人は「好きになれない音楽」「共感しにくい音楽」をコンプリートするためだけに無理して録音などはしないのですが、なぜかケンプという人は己の感性に従って淡々と録音をしていくのです。
そして、時には1950年12月20日のように、この一日だけで5曲も録音を仕上げてしまったりするのです。
ちなみにその前日には4曲を仕上げていますから、この2日間だけで全体の3分の1近くを仕上げてしまったことになります。
そして、その淡々とベートーベンの音楽を鳴り響かせるケンプの姿に接していると、ブレンデルの「ケンプはエオリアンハープである」という言葉を思い出さざるを得ないのです。
おそらく、ケンプにとってベートーベンやシューベルトの音楽は、好きとか嫌いなどと言う感情レベルで判断するような音楽ではなかったのでしょう。
それはまさに神から与えられた恩寵であり、その恩寵がケンプというエオリアンハープを通して鳴り響くだけだったのかもしれません。
風が吹けば鳴り、風が吹かなければ鳴りやむ、ただそれだけのことだったのかもしれません。
例えば、8番のパセティックの冒頭、普通ならもっとガツーンと響かせるのが普通です。29番のハンマークラヴィーアにしても同様です。
ところが、ケンプはそう言う派手な振る舞いは一切しないで、ごく自然に音楽に入っていきます。そして、その後も何事もないように淡々と音楽は流れていきます。
あのハンマークラヴィーアの第3楽章にしても、もっと思い入れタップリに演奏しようと思えばできるはずですが、ケンプはそう言う聞き手の期待に肩すかしを食らわせるかのように淡々と音楽を紡いでいきます。
普通、こんな事をやっていると、面白くもおかしくもない演奏になるのが普通ですが、ところがケンプの場合は、そう言う淡々とした音楽の流れの中から何とも言えない感興がわき上がってくるから不思議です。
おそらく、その秘密は、微妙にテンポを揺らす事によって、派手さとは無縁ながら人肌の温かさに満ちた「歌」が紡がれていくことにあるようです。
パッと聞いただけでは淡々と流れているだけのように見えて、その実は裏側で徹底的に考え抜かれた「歌心」が潜んでいます。
ケンプのモノラル録音全集に対してこういう言葉を綴ったことがあるのですが、このステレオ録音に対しても全く同じ事が、いやそれ以上にその言葉はステレオ録音の方にこそ相応しいのかもしれません。
しかし、彼の録音をさらに聞き込んでいく中で気づかされたのは、彼の魂とも言うべ「微妙にテンポを揺らす事によって」紡ぎ出される「人肌の温かさに満ちた歌」は、「徹底的に考え抜かれた歌心」ではなくて、まさに彼に吹き寄せる風によって生み出され多た「歌」だったと言うことです。そして、そう言う風が鳴り響かせる「歌」に身を任していれば、音楽にとってテクニックというものはどこまで行っても「手段」にしかすぎないと言うことを再認識させられるのです。
しかしながら、その「歌」の幻想的なまでの心地よさは認めながらも、それでもベートーベンの音楽には演奏する側にとっても聞く側にとっても「傾注」が必要だという事実にも突き当たります。
そして、ケンプの演奏はその様な「論理に裏打ちされた傾注」によって構築されたベートーベンではないことは明らかなのです。ベートーベンという音楽を象るアウトラインが曖昧であり、率直に言ってぼやけていると言われても仕方がありません。つまりは「緩い」のです。
もちろん、そう言う「傾注」と「エオリアンハープ」が同居することなどはあり得ない事ははっきりしています。
そして、その事が明確であるがゆえに、まさにそこにこそケンプの演奏の魅力と限界があると言わざるを得ないのです。
そう考えれば、彼のエオリアンハープ的資質が存分に発揮されるのはベートーベンではなくてシューベルトなんだろうと思われます。
しかし、そこから先のことはシューベルトの録音を取り上げたときに、さらに突っ込んで考えてみたいと思います。
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