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アニー・フィッシャー(Annie Fischer) |ベートーベン:ピアノソナタ第18番 変ホ長調 作品31-3
ベートーベン:ピアノソナタ第18番 変ホ長調 作品31-3
(P)アニー・フィッシャー 1961年6月14,17日録音 Beethoven:Piano Sonata No.18 in E flat major Op.31 No.3 [1.Allegro]
Beethoven:Piano Sonata No.18 in E flat major Op.31 No.3 [2.Scherzo: Allegretto vivace]
Beethoven:Piano Sonata No.18 in E flat major Op.31 No.3 [3.Menuetto: Moderato e grazioso]
Beethoven:Piano Sonata No.18 in E flat major Op.31 No.3 [4.Presto con fuoco]
規模の大きな叙情的な作品
作品を6つ、もしくは3つにまとめて発表したり出版するのはバロック時代から古典派の時代における一つの特徴でした。それは、バッハの組曲やパルティータなどにもよくあらわれています。
おそらくは、そういう風にセットにすることで「お得感」もあったでしょうし、作曲家にしても自らの多様な姿を示すのに都合がよかったのでしょう。
ベートーベンもまた同様なのですが、彼の場合は6つではなくて3つにまとめることが多かったようです。
ピアノ作品だけを例にしてみれば、作品2(1番~3番)、作品10(5番~7番)、作品31(16番~18番)がそれにあてはまります。
Piano Sonata No.1 in F minor, Op.2-1
Piano Sonata No.2 in A major, Op.2-2
Piano Sonata No.3 in C major, Op.2-3
Piano Sonata No.5 in C minor, Op.10-1
Piano Sonata No.6 in F major, Op.10-2
Piano Sonata No.7 in D major, Op.10-3
Piano Sonata No.16 in G major, Op.31-1
Piano Sonata No.17 in D minor, Op.31-2
Piano Sonata No.18 in E-flat major, Op.31-3
作品14や作品27のように3つではなくて2つをまとめているものもありますし、当然の事ながら単独で作品番号を与えているものが全体の半数を占めています。
しかし、最後の3つのソナタ(Op.109~Op.111)のように、本来は3つにまとまった作品と考えられるのですが、ばらして出版した方が金になると判断したので異なる作品番号が与えられることになった作品も存在します。
そして、重要なことは、このようにまとまった形で発表された作品は、そのまとまりとして眺めないと見落としてしまう面があると言うことです。
明らかなのは、このようにまとまりを持った作品というのは、それぞれに対して明確な性格の違いが与えられていると言うことです。
例えば、作品10の3曲を例に挙げればハ短調のソナタはその調性に相応しく英雄的であり、続くヘ長調ソナタは諧謔的な雰囲気を漂わせます。そして、最後のニ長調のソナタは3曲の中では最も規模が大きくて雄大な広がりを持った作品として全体を締めくくります。
ベートーベンはこの3つの作品をまとめて発表することで、英雄的であり、諧謔的であり、そして雄大な世界をも提示できる自らの多様性をアピールすることが出来たのです。
そして、「作品31」においてはその様な性格付けはさらに際だっていて、それぞれが「諧謔的(ト長調)」であり「悲劇的(ニ短調)」であり、最後は規模の大きな「叙情的(変ホ長調)」に締めくくられます。
そして、それは若手の人気ピアニストとして売り出していたベートーベンの姿が「作品10」の3曲に刻み込まれていたとすれば、そう言う18世紀的なソナタから抜け出して独自の道を歩み始めたベートーベンの姿が「作品31」には明確に刻み込まれているのです。
ピアノソナタ第18番 変ホ長調 Op31-3
第1楽章:Allegro
ローゼン先生はこの冒頭部分はこれまでに作曲したソナタの中で最も不安定な感情を表していると述べています。繰り返される問いかけに対して音楽は一瞬停止して応答があらわれるからです。そして、その呼びかけと応答にはある種の哄笑が含まれているとも述べています。
第2楽章:Scherzo. Allegretto vivaceひそやかな哄笑はこの楽章において爆発します。スタッカートを多用した進行や極端なダイナミックスの交錯はその笑いに悪魔的な雰囲気を忍び込ませてくるようです。
第3楽章:Minuet. Moderato e grazioso - Trio
ベートーベンがピアノソナタでメヌエットを用いた最後の音楽です。従来の伝統的なメヌエット形式を踏襲するkとで、先んじるスケルツォ楽章と好対照をなしています。
第4楽章:Presto con fuoco
荒々しいエネルギーと高揚感に満ちた楽種です。冒頭の飛び跳ねるようなリズムはタランテランであり、その正確なリズム処理が演奏家には求められます。そして、このリズムが楽章全体を貫いているために「ドイツ人のタランテラン舞曲」とか「狩りのソナタ」というニックネームを奉られることになるのですが、当然の事ながら、それはベートーベンのあずかり知らぬことです。
強靱なタッチによって音楽の隅々にまでくっきりと光を当てることでベートーベンの複雑さを解き明かした演奏
アニー・フィッシャーというピアニストは、その実力のわりには認知度が低いのですが、それは演奏家を「演奏会」を通してではなくて「録音」を通して知ることが多いというこの国の宿命がもたらしたものでした。
「アニー・フィッシャー=録音嫌い」という数式が成り立つくらいに録音の数が少ないピアニストなのですが、そのあたりの事情については「
録音嫌い~アニー・フィッシャー 」という一文にまとめたことがあります。興味のある方は目を通してみてください。
1914年生まれなので、その全盛期は50~60年代ということになるのでしょうが、その時期に為した録音はCDに換算して10枚にも満たなのです。
そして、そのレパートリーもモーツァルト、ベートーベン、シューベルト、シューマンという「王道」が大部分と言えば聞こえがいいのですが、頑なまでに範囲が狭いのです。
こんなストイックな音楽活動では人気が出るはずもありません。
この世界は、そう言うストイックさよりは、聞き手の要求に応えて、例えば耳あたりのよいリストの有名作品を次から次へと弾きとばしていくような売り方の方が受けがよくなると言うものです。
ただ、私もまた、それほど偉そうなことは言えません。
彼女は50年代の後半から60年代の初めにかけてある程度まとまった数のベートーベンのソナタを録音しているのですが、その中から「悲愴」と「月光」という有名どころだけをアップして後は忘れてしまっていたのです。更新記録を確認すると、この時期にバックハウスやアラウのソナタも集中してアップしていたので、少しベートーベンのソナタは一休みしようと考えたようで、結局はそのまま残された録音を追加することを忘れてしまったようなのです。
やはり、私の中でも認知度は低かったようです。
そして、そこでふと気づくのです。
クラシック音楽の世界でピアノのソリストとして生きていくためには、これほどまでに見事にピアノを弾きこなす能力が必要なのかという当たり前すぎる現実と、そして、それだけの能力で弾きこなした録音はどれもこれもが立派なものではありながら、それでも数多くの偉大なピアニストたちが残した録音の中に放り込まれれば、それらを押しのけて一等抜きんでているとは言い難い現実の厳しさについてです。
つまりは、商品のクオリティだけで勝負していたのではどうにも分が悪いのがこの世界なのです。ですから、どうしても商品以外の部分に何らかのプラスαを付け加えないと生き残っていけないので、あれやこれやの物語を付け加えたりお水系で売り出したりと涙ぐましい努力をするのです。それでも、そんなプラスαはすぐに剥がれ落ちてしまいますし、何よりも肝心の本人がおっ死んでしまえば後には何も残りません。
そう言えば、美術の世界では画家が亡くなれば絵の価値は一気に半分になるという話を聞いたことがあります。
芸術の世界で生きていくというのは何とも厳しいことです。
ソリストを目指すような連中は子どもの頃から厳しいレッスンに明け暮れて、古い録音などを聞く機会はないと言います。そして、多くの人は訳知り顔でそれでは音楽に「深み」が出ないなどと気楽に言ったりしています。
しかし、過去という歴史の中で積み重ねられてきた録音と真摯に向かい合ってしまえば、よほど鈍感な神経の持ち主でもなけれ同じ道を目指そうとは思わないでしょう。
世の中には、知らないと言うことが幸せにつながることもあるのです。
アニー・フィッシャーが50年代から60年代にかけて録音したベートーベンのピアノソナタを録音順にまとめると以下の7つです。
ピアノソナタ第21番「ワルトシュタイン」 ハ長調 作品53 1957年6月3,4,12,13日録音
ピアノソナタ第24番「テレーゼ」 嬰へ長調 作品78 1958年10月14日録音
ピアノソナタ第8番 ハ短調 「悲愴」 作品13 1958年10月12~14日録音
ピアノソナタ第30番 ホ長調 作品109 1958年11月20,21日録音
ピアノソナタ第14番「月光」 嬰ハ短調 作品27-2 1958年11月18~20日&1959年1月5日,2月5日録音
ピアノソナタ第32番 ハ短調 作品111 1961年6月13~15日録音
ピアノソナタ第18番 変ホ長調 作品31-3 1961年6月14,17日録音
まず聞いてみて最初に感じるのは驚くほどに強靱なタッチだと言うことです。
女流ピアニストで強靱なタッチと言えばリリー・クラウスですが、あれはモーツァルトでの強靱さであって、こちらはベートーベンでの強靱さなので、ダイナミックレンジ的に比較すれば次元が異なります。
この強靱さをブラインドで聞かされれば、まさか女性が演奏しているとは思わないでしょう。それほどの強さがフィッシャーのピアノからは放出されています。
ピアニストを女性だ男性だと分けることには意味がないことが多いのですが、彼女ほど「女流」ピアニストという表現が意味を持たない人は珍しいでしょう。
そして、彼女のもう一つの特徴は、その強靱なタッチゆえにか、音楽が内に沈潜していくのではなくてひたすらに外に向かって放出していくことです。
その外向性が強靱なタッチと出会えば、結果として彼女の音楽はこの上もなく健康的なものになります。
彼女のピアノは言ってみれば一つの光源のようなものであり、ベートーベンのピアノソナタという立体物の複雑な構造をくっきりと照らし出します。
ですから、ただ端に健康的というレベルをこえて、時には抽象化された二進法の世界のようにも聞こえるのです。(フォルテとピアノの極端なコントラスト!!)
ただし、その照らし出す光で浮かび上がってくるベートーベンという立体構造物の姿は、フィッシャーによる徹底した「譜読み」という「主観」によって描き出されたものであることには注意する必要があります。
彼女のピアノはいわゆるザッハリヒカイトという、ともすれば内容空疎な「呪文」に陥ることはなく、どの部分をとっても強烈な自己主張によって貫かれています。
そして、こういう演奏に接するたびに、スコアに帰れと言う即物主義が本当に意味を持つためには「作曲家の意志に忠実」などと言う実体の伴わない曖昧さに寄りかかるのではなくて、スコアと主観性を徹底的に闘わせることが必要なのだと感じてしまいます。
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