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リヒター(Karl Richter)|バッハ:パルティータ第2番 ハ短調 BWV826
バッハ:パルティータ第2番 ハ短調 BWV826
(Cembalo)カール・リヒター 1959年録音
Bach:Partita No.2 in C minor, BWV 826 b1.Sinfoniac
Bach:Partita No.2 in C minor, BWV 826 b2.Grave-Adagio-Andantec
Bach:Partita No.2 in C minor, BWV 826 b3.Allemandec
Bach:Partita No.2 in C minor, BWV 826 b4.Courantec
Bach:Partita No.2 in C minor, BWV 826 b5.Sarabandec
Bach:Partita No.2 in C minor, BWV 826 b6.Rondeauxc
Bach:Partita No.2 in C minor, BWV 826 b7.Capriccioc
バッハの鍵盤楽器による「組曲」の中では最も聞きごたえのある作品
バッハはいろいろな楽器を使った「組曲」(パルティータ)という形式でたくさんの作品を書いています。ヴァイオリンやチェロを使った無伴奏のパルティータや鍵盤楽器を使ったものです。
とりわけ、鍵盤楽器を使ったものとしては「イギリス組曲」「フランス組曲」、そしてただ単に「パルティータ」とだけ題されたものが有名です。
一般的には、「組曲」というのは様々な国の舞曲を組み合わせたものとして構成されるのですが、この最後の「パルティータ」にまで至ると、その様な「約束事」は次第に後景に追いやられ、バッハ自身の自由な独創性が前面に出てくるようになります。
たとえば、パルティータの基本的な構成は「プレリュード-アルマンド-クーラント-サラバンド-ジーグ」が一般的ですが、バッハはその構成をかなり自由に変更しています。冒頭のプレリュードの形式を以下のように、様々な形式を採用しているのもその一例です。
第1曲:Praeludium 第2曲:Sinfonia 第3曲:Fantasia 第4曲:Ouverture 第5曲:Praeambulum 第6曲:Toccata
そして、この最初の曲で作品全体の雰囲気を宣言していることもよく分かります。
それ以外にも、同じ形式が割り振られていても、実際に聞いてみると全く雰囲気が異なるというものも多くあります。
おそらくバッハの鍵盤楽器による「組曲」の中では最も聞きごたえのある作品であることは間違いありません。
第1番変ロ長調 BWV 825
Prelude - Allemande - Courante - Sarabande - Menuett I - Menuett II - Gigue
第2番ハ短調 BWV826
Sinfonia - Allemande - Courante - Sarabande - Rondeaux - Capriccio
第3番イ短調 BWV827
Fantasia - Allemande - Corrente - Sarabande - Burlesca - Scherzo - Gigue
第4番ニ長調 BWV828
Ouverture - Allemande - Courante - Aria - Sarabande - Menuett - Gigue
第5番ト長調 BWV829
Preambulum - Allemande - Corrente - Sarabande - Tempo di Minuetto - Passepied - Gigue
第6番ホ短調 BWV830
Toccata - Allemande - Corrente - Air - Sarabande - Tempo di Gavotta - Gigue
リヒターの立ち位置
今さら言うまでもないことですが、バッハは「対位法」の人でした。複数の独立した声部からなる音楽のことを「ポリフォニー音楽」と呼ぶのですが、その様な音楽の作曲技術のことを「対位法」と呼びました。
私たちが日常的に接している音楽の大部分も複数の声部から成り立ってはいるのですが、そこでは主旋律と伴奏というように、その声部の間に主従関係が存在します。しかし、バッハに代表される「ポリフォニー音楽」では、それぞれの声部の間には主従関係は存在せず、それらは全て対等平等な関係を維持します。
ですから。2声程度の音楽ならばそれほどではないのですが、3声になると演奏する側の難易度は一気に上がってしまいます。3つの声部をしっかりと意識しながら、それらを対等平等に弾きわけるのはかなり難しくなります。これが4声、5声となると、その難しさは半端ではなくなります。
また、その難しさは聞き手にも多くのことを要求するようになっていきます。グールドとカークパトリックの演奏を比較したときに、カークパトリックの演奏があまりにもパラパラしすぎているので、頭の中で音楽の姿を把握するのに「努力」が必要ですと書いたのですが、つまりは、その様な「努力」が聞き手にも求められるのです。
ここで音楽史を繰り返すつもりはないのですが、バッハの時代の聞き手は貴族などの知識階級が中心でした。そこでは、複雑さは何の支障にもならなかったのですが、市民革命を経て音楽の享受者が一般民衆に変わってくると、その様な複雑さは次第に敬遠されるようになっていきました。代わりに台頭してきたのが、主旋律と伴奏からなる「ホモフォニー音楽」でした。そこでは、聞き手は主旋律だけに意識を集中していれば迷子になる心配はありません。その様な音楽が主流となっていく中でバッハが忘れ去られていったのは仕方のないことでした。
しかし、広く知られることはなかったとしても、心ある音楽家達はバッハの存在を常に意識の中に留めていました。
その様なバッハをもう一度コンサートの表舞台に復活させた立役者がランドフスカでした。彼女は、ピアノという楽器は縦の和音を鳴らすのには適していても、複数の声部をバランスよく弾きわけるのには適していないことに気づきチェンバロを復活させました。しかし、20世紀の初め頃にはチェンバロという楽器は基本的に絶滅していました。それは博物館などに展示されるものであって、実際のコンサートで使用できるものとは思われていなかったのです。
ですから、彼女はプレイエル社と協同して20世紀のチェンバロを作り出しました。
世間では、「ランドフスカ・モデル」とよばれるこのチェンバロは、鋼鉄製のピアノのフレームにチェンバロの機構を入れたもので、コンサートホールでも使えるように音を大きくしただけでなく、クレッシェンドやディクレッシェンドもできるという「お化けシステム」だったようです。現在では「モダン・チェンバロ」と呼ばれるこの楽器を使って、彼女は「ポリフォニー音楽」としてのバッハをコンサートの表舞台に復活させたのです。
そして、この復興運動は第2次世界大戦によって一時的に中断されるのですが、戦争が終われば再び大きなムーブメントとなっていきました。特に、チェンバロ演奏と言うことならば、その中心となったのがカークパトリックやリヒター達でした。
しかし、彼らのバッハ作品の録音を聞いてみると、今となってはかなり違和感を感じてしまうことは否定できません。その違和感の最大の原因は「モダン・チェンバロ」の響きです。
確かに、演奏様式としては、未だに主旋律と伴奏という雰囲気が残っていたランドフスカと較べれば、カークパトリックもリヒターも完全にポリフォニーな人になっています。特に、リヒターの演奏を聞くとき、その強固な意志力と集中力によって(そう、ポリフォニーナ音楽を再現するには強固な意志力と集中力が必要なのです)、峻厳なる「対位法の人」であるバッハを描き出しています。
しかし、その響きには「仰け反って」しまいます。
いわゆる「ピリオド楽器のチェンバロ」がコンサートで使用されるようになるのは60年代の初頭ですから、リヒターもカークパトリックも使用していた楽器はともに「モダン・チェンバロ」でした。しかし、同じように「モダン・チェンバロ」を使っていても、この二人の響きの質はかなり異なります。
聞く人によってはカークパトリックであっても違和感を感じる人もいるようですが、私個人としてはそれほど強い違和感を感じません。
しかしながら、さすがにこのリヒターの響きにはなかなか慣れることはできませんでした。
個人的には、チェンバロの響きのスタンダードはスコット・ロスによるスカルラッティの録音でした。あの、地中海を吹き渡る風を思わすような軽くて乾いた響きこそがチェンバロの響きでした。それと比べると、ここで聞くことのできる、とりわけリヒターのゴルドベルク変奏曲の響きはまるで別の楽器で演奏されているかのようでした。
パルティータの方にはそこまでの違和感はありませんが、それでも異質は異質です。
言うまでもなく、この違和感を「モダン・チェンバロ」を使っていることだけに帰着させることはできません。
既に述べたように、同じように「モダン・チェンバロ」を使っていても、カークパトリックの録音ではリヒターほどの違和感を感じないからです。つまりは、やろうと思えばカークパトリックのような響きでバッハの音楽を作り得ることができたのですから、それをしなかったと言うことは、当時のリヒターにとってはこの響きで良しとする立ち位置があったと言うことです。
私は、この事は非常に大切なことだと思うのです。
ちなみにゴルドベルク変奏曲は1956年に録音され、パルティータの方は1960年に録音されています。この4年の間に、さすがにゴルドベルク変奏曲の響きはまずいと思ったのかもしれませんが、それでもなお、リヒターのパルティータは、カークパトリックのパルティータの録音と較べれば違和感は小さくありません。
しかしながら、もう一つ確認しておかなければいけないのは、バッハの対位法を峻厳に描き出していくリヒターの集中力には驚くべきものがあるということです。
その精緻な対位法の世界と、この古めかしい響きとの奇妙な同居に、どうしようもない居心地の悪さを感じてしまうのです。この居心地の悪さを、私たちはどのように受け取ればいいのでしょうか。
そこで結局思い至るのは、リヒターという人の音楽の本質はかなり古い時代に根っこを持っているのではないかと言うことです。
そして、その古さこそが、60年代の半ば以降、時代の流れに取り残されるように急激に衰えていった遠因ではないかという気もするのです。リヒターの急激な衰えの背景として体調の不良が指摘されてきたのですが、やはりそれだけでは説明しきれないなほどの急落ぶりでした。
もちろん、その様な大事を軽々に決めつけることはできないのですが、このチェンバロを使った一連の録音を聞くと、いろいろなことを考えさせてくれるものでした。
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よせられたコメント
2017-01-21:カンソウ人
- カークパトリックやリヒターの演奏は、自分にはそれ程の違和感は無いです。
大学教育学部で、ピアノの授業がありました。
60番通過が可の成績で、小学校教員免許の必修でしたので、他学部生でピアノを続けたい生徒は、彼らがやって来る11時前に行く必要がありました。弦楽器や管楽器、声楽の学生たちも行くので、ある程度の度胸は必要です。自分は、インヴェンションを持って行き、インヴェンションは卒業、シンフォニアへと進みました。楽譜は当然チェルニー版は駄目。原典版しか私は使わせません。と言うキツイお言葉で、私の前のクラリネットの学生は、ロマンティックな抑揚をつけていたので、怒られていました。音楽学の教授で、怖いので空いているのですが、私の付け目でした。
ピアノを使って、チェンバロ的な音楽をさせるのです。レガートはしてはいけない。楽譜に書かれている場合のみだが、アティキュレーションを示す為。クレッシェンドは、音楽が要求すればやっても構わないが、音と音の隙間を増減させることが基本で、そこにピアノ的なクレッシェンドを用いろと言う事でした。テンポの揺れは最低限(と自分は思った)。効果としての、リタルダンドは駄目。アッチェレも駄目。最後の和音の前に、少し間を取って、和音に入る。微妙なタイミングでした。
ところが、ピアノ科で一番上手な女の子だけは、許してもらえるのです。音楽的に良いからが理由だったと、声楽の先輩から聞きました。
リヒターのチェンバロは、強固な意志で、造形を目指しながらも、技術が裏切りかける・・・そこを強烈な表現意欲で、持ち直す。何となくですが、今聞くと、そこまで頑張らなくても・・・。マタイやヨハネの受難曲は凄いでけれど、毎日の活動であるカンタータまでそんなに息を詰めていたら…。仏教徒の自分には、そこまでの真面目過ぎる辛さは、お気楽生きる事が良いのにって思う。
子どもの時に、このパルティータの二番は、『仮面の忍者赤影』で、金目教が敵として出て来る時に流れていた、テーマだったような気がします。音楽を聴くことは、何かを思い出すきっかけになるような気がします。録音の場合特に。共通項があるかどうかわからないけれど…。
オルガにストとしてのリヒターには、信仰生活との繋がりを感じますが、チェンバロの演奏はちょっと、付いていけないところがありますね。
パルティータ等は、バッハはカトリックの聖人でもないし、プロテスタントだし、もう少し気楽な、楽譜や時代考証を下敷きにした音楽の方が・・・。
だけど、『半音階的幻想曲とフーガ』は、表現意欲に圧倒される思いがします。チェンバロとかピアノとか、楽器を超えた物が、そこには表現されていて、宗教的な何かを感じてしまいます。フィッシャーの弾いた、柔らかい音色のピアノの、半音階的幻想曲とフーガ(ザウアー版)の方が、後のピアニストには、ケンプ・ブレンデル・シフ等の大御所にも、影響を与えているでしょうが・・・。
グールドは特別な存在で、クラシックの音楽と言う枠に嵌らないでしょう。ボイジャーに乗せられて、銀河系の方へ飛んで行くに相応しい音楽なのでしょう。人類の精神活動の極限を表していると思っています。対位法の音楽を、こう弾くのだと言う、ある種の方法論で、多声的に聴こえるように弾いたのではない。つまり、伝統的なピアノ奏法を守って、バッハの多声的な弾き方をなぜ練習するのかを、他の作曲家の作品に応用するレヴェルを越えています。完全に、頭の中で、多声を別々に、バラバラに鳴らしていると感じます。多声に聴こえるように、ピアノ演奏の伝統の方法で弾いているのとは違うのです。この事は、パラパラに聴こえると言う、表面的な音と言う意味ではなく、脳科学的な意味、哲学的な意味、後の人類の為の研究対象が残されたと言う意味を感じます。
残念ながら、ランドフスカの優雅さは、自分には先駆者と言う意味以上の斧を感じません。youtubeで聴いた、彼女の母国であるポーランドの大先輩である、ショパンのマズルカの、チェンバロでの録音が、自分の心を苦しめています。
現代ならば、大ホールで聴こえるようなチェンバロを用意するよりは、クラヴィコードにピックアップを直接に付けて、デジタル増幅器でノイズなしで、ギンギンに鳴らす方が趣味が良い気がします。グルダが、実際にやっていますね。ヴィヴラートの効果が、はっきり分かるもので、演奏も説得力がありました。どれぐらいの増幅をしていたのか?ロックコンサート並みにやった時もあったでしょう。
個人的には、日本人が西洋音楽を演奏する意味を感じたいと思います。井上直幸先生と高橋悠治先生の演奏が、自分の心の中の何物も邪魔をしない気がします。ピアノの音自体が、西洋人の真似をしてもしょうがない気がしています。