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シェリング(Henryk Szeryng)|ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第1番ト長調op.78「雨の歌」
ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第1番ト長調op.78「雨の歌」
(P)アルトゥール・ルービンシュタイン (Vn)ヘンリク・シェリング 1960年12月30日録音
Brahms:Violin Sonata No.1 in G major, Op.78 [1.Vivace, ma non troppo]
Brahms:Violin Sonata No.1 in G major, Op.78 [2.Adagio]
Brahms:Violin Sonata No.1 in G major, Op.78 [3.Allegro molto moderato ]
ロマン派におけるヴァイオリン・ソナタの傑作
ブラームスは3曲のヴァイオリン・ソナタを残していますが、これを少ないと見るかどうかは難しいところです。確かに一世代前のモーツァルトやベートーベンと比べると3曲というのはあまりにも少ない数です。しかし、ベートーベン以降のロマン派の作曲家のなかで3曲というのは決して少ない数ではありませんし。さらに、完成度という観点から見ると、これに匹敵する作品はフランクの作品以外には思い当たりませんから、そういう点を考慮すれば3曲というのは実に大きな貢献だという方が正解かもしれません。
ブラームスの第1番のソナタは1878年から79年にかけて、夏の避暑地だったベルチャッハで作曲されました。45才になってこのジャンルに対する初チャレンジというのはあまりにも遅すぎる感がありますが、それはブラームスの完全主義者としての性格がそうさせたものでした。
実は、この第1番のソナタに至るまで、知られているだけでも4曲のソナタが作曲されたことが知られています。そのうちの一つはシューマンが出版をすすめたにもかかわらず、リストたちの忠告で思いとどまり、結果として失われてしまったイ短調のソナタも含まれています。他の3曲は弟子の証言から創作されたことが知られているものの、ブラームスによって完全に破棄されてしまって断片すらも残っていません。
ブラームスがファーストシンフォニーの完成にどれほどのプレッシャーを感じていたかは有名なエピソードですが、そのプレッシャーは決して交響曲だけに限った話ではありませんでした。ベートーベンが完成形を提示したジャンルでは、ことごとくプレッシャーを感じていたようで、そのプレッシャーがヴァイオリン・ソナタというジャンルでも大量の作品廃棄という結果をもたらしたようです。
では、ヴァイオリン・ソナタという形式の「何」が、ブラームスに対して多大な困難を与えたのでしょうか。
もちろん、ユング君ごとき愚才がブラームスの心中を推し量ることなどできようはずもないのですが、そこを無理してあれこれ思案をしてみれば、おそらくはヴァイオリンとピアノのバランスをどうとるかという問題だったのではないかと思います。
言うまでもないことですが、ヴァイオリン・ソナタの歴史を振り返ってみれば、ヴァイオリンとピアノという二つの楽器が対等な関係ではなくて、どちらかが主で他が従という形式をとっていました。それが、モーツァルトという天才によって初めて両者が対等な関係でアンサンブルを形成する音楽へと発展していきました。そして、この方向性のもとで一つの完成形を示したのが言うまでもなくベートーベンでした。
しかし、一連のベートーベンの作品を聴いてみると、事はそれほど単純ではないことに気づかされます。
鍵盤楽器としてのピアノの機能が未だに貧弱だったモーツァルトの時代では、ヴァイオリンとピアノは十分に共存できましたが、ベートーベンの時代になるとピアノは急激に発展していき、オーケストラを向こうに回して一人で十分に対抗できるまでの力を蓄えてしまいます。それに比べると、ヴァイオリンという楽器は弓の形状は多少は変わったようですが、弓を弦に擦りつけて音を出すという構造は全く変わっていないわけですから大きな音を出すにも限界があります。ですから、クロイツェル・ソナタなどでピアノが豪快にうなりを上げて弾ききってしまうと、さすがのベートーベンをもってしてもヴァイオリンがかすんでしまう場面があることを否定できません。
そして、ロマン派の時代になるとピアノはその機能を限界まで高めていきます。(ブラームスのピアノコンチェルトの2番を聴くべし!!)つまり、頭の中だけでこの両者を丁々発止のやりとりをさせて上手くいったと思っても、実際に演奏してみるとピアノがヴァイオリンを圧倒してしまい「何じゃこれ?」という結果になってしまうのです。
つまり、この二つの楽器の力量差を十分に配慮しながら、それでもなおこの二つの楽器を対等な関係でアンサンブルを成立させるにはどうすればいいのか?
これこそが、45才まで書いては廃棄するを繰り返させた「困難」だったのではないでしょうか?
もっとも、これはユング君の愚見の域を出ませんから、あまりあちこちでいいふらさないように・・・(^^;
しかし、ブラームスのヴァイオリン・ソナタを聴くと、この二つの楽器が実に美しい調和を保っていることに感心させられます。ベートーベンでは、時にはピアノがヴァイオリンを圧倒してしまっているように聞こえる部分もあるのですが、ブラームスではその様な場面は皆無と言っていいほどに、両者は美しい関係を保っています。そして、その様な絶妙のバランスを保ちながら、聞こえてくる音楽からはしみじみとした深い感情がにじみ出してきます。
これはある意味では一つの奇跡と言っていいほどの作品群です。
ヴァイオリン・ソナタ第1番ト長調op.78「雨の歌」
ブラームスが夏の避暑地として愛していたベルチャッハで1848年から49年にかけて作曲されました。副題の「雨の歌」というのは、第3楽章の冒頭の旋律が歌曲「雨の歌」から引用されているためにつけられたものです。しかし、その様な単なる引用にとどまらず、作品全体を雨の日の物思いにふけるしみじみとした感情のようなものが支配しています。特に第2楽章はその様な深い感情がしみじみと歌われる楽章であり、一度聴けば忘れることのできない音楽です。
ヴァイオリン・ソナタ第2番イ長調op.100
ベルチャッハに次いでブラームスが避暑地として選んだのがスイスのトゥーンでした。ヴァイオリン・ソナタの2番と3番はともにこのトゥーンで作曲されました。
トゥーンはユング君も一度訪れたことがあるのですが、湖の畔に広がる小さな町で、天気がよいと遠くにアルプスの山が見渡すことができる実に気持ちのいいところです。ブラームスの評論家として有名なガイリンガーはその事をとらえて、トゥーンの町がベルチャッハよりも雄大なように、第2番ソナタもアルプス風の威厳に富んで力強くて逞しい、等と述べているそうです。
「ほんまかいな?」という感じですが、しかし、この作品に取り組んだ頃のブラームスは人生の絶頂にあったことは間違いないようです。3曲あるブラームスのヴァイオリン・ソナタのなかでは最もよく歌う作品であり、音楽は明るくのびのびしています。
音楽家としての成功を勝ち取り、多くの友人に囲まれて充実した作曲活動を展開していた時期であり、その様な幸福な生活をこの作品が反映ししていることは間違いありません。
ヴァイオリン・ソナタ第3番ニ短調op.108
このソナタは第2番ソナタと2年しか隔たっていないのに作品の雰囲気が大きく異なります。第2番のソナタではあれほどまでも幸福感につつまれていたのが、この第3番のソナタでは晩年のブラームスに特徴的な渋くて重厚な雰囲気が支配しています。
この変化をもたらしたものは親しい友人たちの「死」でした。トゥーンにおける幸福な生活はわずか一年しか続かす、その後は彼の回りで親しい友が次々と亡くなっていきました。この事はブラームスに大きな衝撃を与えることになり、彼の作品は短調のものが多くなって、避けられぬ人の宿命に対する諦観のようなものがどの作品にも流れるようになっていきます。
この第3番のソナタでも、第2楽章のG線だけで歌われる冒頭のメロディからはその様な傾向をはっきりと聞き取ることができます。
やはり名演だと・・・思います。
随分と長い間、あれこれの録音を聞いて、あれこれと好き勝手なことを書いてきました。
「批評」と呼べるような立派なレベルには到底達しない全くの無駄口なのですが、それでも、こういう事を長い間書いていると気づかされることがたくさんあります。そんな気づきの一つが、たとえ無駄口のレベルであっても、それをどのようなスタンスで書くのかによって、随分と難しさが変わると言うことです。
意外かもしれませんが、一番気楽で簡単なスタンスは「他にもこういう優れた演奏がある」とか、「○○こそがこの作品のベストだ」というスタンスで書くことです。特に、あまり知られていないような録音を探し出してきて、その素晴らしさを紹介するというのは意外なほど簡単です。
最近は影を潜めましたが、こういうスタンスで埋め尽くされた書籍が世に出回ったことがありましたが、あれは随分と簡単に原稿が仕上がったと思います。
それと比べれば、みんなが褒めている録音・演奏を「やはり素晴らしい」と言って褒めるのは意外と難しいのです。
「えーっ?みんなが褒めているものを同じように褒めるなんて誰でも出来るでしょう」と言われそうですが、実はそれほど簡単ではありません。
何故ならば、誰もが褒めているがゆえに、その褒め方によってその人の底が見えてしまうからです。
自戒しないといけないのですが、ネット上に溢れている批評の大部分は、どこかの誰かが書いた文章の受け売りのを域を出ていないものが大部分です。酷いのはいわゆる「コピペ」ですが、「コピペ」とまではいかなくても、そこにその人の顔が見えてこない文章が大部分です。
そこに自分なりのオリジナリティを出せとまでは言いませんが、せめてその録音・演奏を聴いて感動した己の真情の一端でも書け、とは言いたくなります。
しかし、たとえ一端であっても真情を吐露するというのは、その前提としてその録音・演奏を聴いて感動したという「事実」が必要です。つまりは、聞いて感動もしていない自分がいて、それでも世間は褒めているから何か書こうとすると、結局その文章は他人の受け売りのレベルをこえることは出来ないのです。
ですから、みんが褒めている録音・演奏を褒めるのと言うのは意外と怖いことなのです。
そして、最後に、もっとも難しいスタンとスはみんなが褒めている録音・演奏に駄目出しをすることです。
つまりは、誰もが褒めている録音・演奏を聴いて感動していない自分がいれば、その「真情」を素直に吐露すればいいのですが、これが実に難しいのです。
まず何よりも、みんなが褒めているものを批判するというのは勇気が必要です。
しかし、そこで勇気を出して、「王様は裸だ!」と叫べばどうなるでしょう。
残念なことに、その99%以上において王様は裸ではないのです。そして、裸ではないものを裸だと叫べば、それはただの阿呆なのです。
良識ある多くの人はこの厳然たる事実をよく知っています。ですから、感動していない自分に気づいても、多くの人は穏便に、かつ穏健に他人の受け売りでそれを褒めてしまうのです。
しかし、それだけに、勇気を持って「王様は裸だ!」と叫ぶ人の勇気には拍手を送りたいと思います。そして、それが結果としてどれほど阿呆に見えても、その勇気には拍手を送るべきです。
このルービンシュタインとシェリングによるブラームスのヴァイオリンソナタ全集は「名演」とされてきました。
曰く、「シェリングを世に紹介しようというルービンシュタインの強い意志が溢れている。」
曰く、「才能に富む後輩に対する温かい配慮が感じ取れる。」
曰く、「シェリングの端正な音色と表現が力感と味わいを兼ね備えた老巨匠のピアノと巧みにマッチしている。」
等々です。
しかし、こういう世の批評に対して果敢に挑戦する人がいます。
「ヴァイオリンの伴奏のはずのピアノがヴァイオリンを凌ぐ音量と言うのが気になる。」
なかには、
「このフォルテの轟音でヴァイオリンを吹っ飛ばしてしまった、うるさいだけの失敗作。」
と切って捨てる人がいたりするので嬉しくなってしまいます。
それじゃ、お前はどうなんだ?と言うことが肝心ですよね。
その前に、一言申し開きをしておかないといけないのは、どうもヴァイオリンソナタという形式では私の耳はヴァイオリンに引きつけられる傾向があると言うことです。ですから、「これはヴァイオリンソナタと言うよりはヴァイオリン助奏つきのピアノソナタと言うべき作品だ」と言われるような音楽であっても、私の耳はヴァイオリンの響きに引きつけられるのです。
ですから、とりわけベートーベン以降のヴァイオリンソナタでは、ヴァイオリンとピアノが対等の関係で音楽を構成すると言われても、ほとんどの演奏でヴァイオリン優勢のように聞こえてしまうのです。
これはきっと私だけの偏った性向かと思われるのですが、そう言う性向を持った人間にとっては、このルービンシュタインとシェリングの演奏くらいで初めてピアノとヴァイオリンによる二重奏に聞こえるのです。
とは言え、こうしていろいろな見方が忌憚なく出てくるというのは良いことだと思います。
この演奏を評価してください。
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よせられたコメント
2022-05-18:望月 岳志
- NHKBSプレミアム早朝放送のクラシック倶楽部で、レオニード・カヴァコスと萩原麻未のデュオによるブラースのヴァイオリンリサイタル(2021年10月 オペラシティでの収録)を聴きましたが、ヴァイオリンとピアノの音量バランスが気になりました。
実演で演奏者の意図として実際そのようなバランスだったのか、それともNHKの番組制作のバランスエンジニアによるものかわかりませんが、ピアノが引っ込み過ぎで、ヴァイオリンが一本調子に聞こえるほど目立ち過ぎて、楽しめない放送でした。
このシェリングとルービンシュタインのデュオは、その点ピアノが「伴奏」ではなく、まさにデュオとして奏でられている点に感心しました。
かつての評論では、このバランス自体が批判の対象になっていたということで、驚かされました。