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ジュリアード弦楽四重奏団(Juilliard String Quarte)|シェーンベルク:弦楽四重奏曲第3番 作品30
シェーンベルク:弦楽四重奏曲第3番 作品30
ジュリアード弦楽四重奏団:1951年6月12日、13日 & 1952年3月21日、7月30日録音
Schoenberg:String Quartet No.3, Op.30 [1st movement ]
Schoenberg:String Quartet No.3, Op.30 [2nd movement ]
Schoenberg:String Quartet No.3, Op.30 [1rd movement ]
Schoenberg:String Quartet No.3, Op.30 [4th movement ]
12音技法の確立
思うに、シェーンベルクの偉かったのは、あんな訳の分からない無調の音楽を書きながらも、その気になればマーラーでさえも裸足で逃げていきそうなほどに精緻で巨大な後期ロマン派風の音楽も書けたことです。
それは、どこかピカソに似ています。
ピカソもまた、その気になれば、しっかりとしたデッサンと美しい色調で、誰もが惚れ惚れと見とれるような絵を描くことが出来ました。
そして、この二人は、既存の価値観に安住していれば、誰からも認められる「大家」になれたであろうに、それを投げ捨てて新しい道へと分け入ったところに共通点を感じます。
ただ、正直に言って、その新しい道が成功したのかどうかは分かりません。
ピカソに関しては、彼の名を冠した美術館で彼の代表作をまとめて見たときに、何故に彼がこのような道に進まざるを得なかったのが直感的に理解できました。そこにあったのは、途方もないエネルギーの放出でした。
そして、この怪物のようなエネルギーを放出する男にとって、既存の絵画のスタイルは狭すぎることは私のような愚であっても容易に理解できました。
しかし、それに追随した凡百の絵描きの作品をポンピドー美術館で見たときには、頭が痛くなりました。そこにあったのは、ピカソの巨大なエネルギーの放出とは正反対の、いじましいまでの小賢しい小細工でした。
偏見かもしれませんが、あのピカソの獰猛さに対抗できているのは唯一マチスだけでした。
そして、ルオーやシャガールは全く違った道で、己のアイデンティティを確保していました。
シェーンベルクもまた巨大なエネルギーを持った音楽家だったと思うのですが、音楽自体がすでに極限までに巨大化しているという事情が絵画とは異なっていたのでしょうか。彼は、巨大化の果てに収まりきらないエネルギーを、今度は凝縮させることで結実化させようとしたように見えます。もちろん、私は音楽の専門家ではありませんから、それは全くの個人的な感想の域を出ません。
しかし、シェーンベルクの無調の音楽は、決して無機的でもなければ非人間的でもなく、どこか人の心に届く響きを持っています。そして、その響きの中には、マーラーのシンフォニーをも凌駕するような巨大なものが極限にまで凝縮されて詰め込まれているような凄みを感じてしまいます。
ただし、ピカソの後継者の大部分が小賢しい小細工の中で窒息していったように、シェーンベルクの後継たる無調の、または12音の音楽の大部分もまた凝縮させるべき巨大なエネルギーを持たなかったが故に、結果として訳の分からない、ただの無機的で非人間的なノイズへと堕していきました。
しかし、そんな先の話はひとまず脇においておきましょう。ここで聞くべきはシェーンベルクの音楽です。
世間言われるほどに、彼の無調の音楽は訳の分からない音楽ではありません。少なくとも、彼の音楽は人の心の奥に届く「何か」を持っていることは間違いありません。
そして、とりわけこの弦楽四重奏曲というジャンルは、彼の創作活動の全体を覆っていますので、わずか4曲でシェーンベルクとは何者であったのかを教えてくれます。
シェーンベルクかー!!(>□<〃)ギャ・・・という人も多いかとは思いますが、是非一度くらいは虚心坦懐に耳を傾けてください。
弦楽四重奏曲第3番 作品30
第2番の弦楽四重奏曲から20年の時を隔てて作曲された第3番の弦楽四重奏曲は、完全に調性が放棄された音楽になっています。そして、シェーンベルクはこの「無調」の音楽を作り上げるために「12音技法」というル?ルを作り上げます。
彼は後期ロマン派に別れを告げ無調の音楽に踏み込んでからはピアノの小品や声楽曲が多くなるのですが、この時期になると積極的に器楽曲の創作に意欲を見せます。特に、彼が「12音技法」のルールを決めた21年以降は「木管五重奏曲(23年~24年)」「7楽器による組曲(25年~26年)」や「管弦楽のための変奏曲(26年~28年)」などが生み出されています。
この弦楽始終箏曲第3番も、その様な流れの中で27年に作曲されています。
おそらくこの背景には、自分が創り出した「12音技法」に対す得る自信が確信に変わり(彼は12音技法の完成によってドイツ音楽の優位性は今後100年にわたって続くことが約束されたと述べています。)、それを実際の果実として証明するためには純粋器楽による音楽が必要だったのでしょう。また、それを実現できる己の力量に対する自信もあったのでしょう。
なお、この「12音技法」というのはシェーンベルクが勝手に創り出したルールであり、簡単にいってしまえば、1オクターブの中の存在する12の音を平等に使って音楽を創れば、調性音楽の桎梏から解放されるというものです。
つまり、同じ音を二回以上使ってしまうとその音が聞き手に強く印象づけられるので、聞き手はその音を「主音」であると勘違いしてしまうというのです。
ただし、同じ音を一回ずつしか使っていけないというのはとんでもない制約であり、それは時には音楽の創作と言うよりは数学の数式を解くようなおもむきになってしまいます。そして、このシェーンベルクの提唱は多くの信奉者と追随者を生み出したものの、圧倒的多数の聞き手からは拒絶された事だけは疑いもない事実です。
そして、今日のクラシック音楽の作曲家というのは誰も彼もがこのライン上で音楽を書いているらしいのですが、それを顧みるような聞き手は、同じような音楽を書いている仲間内でしか存在しないというのもまた事実のようです。
彼らの多くは、この進歩的で新しい音楽についてこれない聞き手のレベルの低さを嘆くのですが、決して自分たちが裸と気づかずに100年の時を過ごしていることに一般の聞き手は奇異の目を向けています。
シェーンベルクの音楽を聞いていて面白いと思うのは、この12音技法の提唱者である作曲家は、必ずしも12音技法には忠実でないという事実です。そして、面白いのは、そう言う技法から逸脱したときの彼の作品こそが面白いという「厳然たる事実」です。
その意味では、この12音技法にバリバリに入れ込んでいた時期に書かれた作品が、格好つけ無しで聞いたときに何処まで心に響くかはかなり疑問です。
しかし、私のようにレベルが至って低い聞き手であっても・・・、(=。=)ふ?…・・・と心底疲れた夜などに小さな音でこういう音楽を流すと不思議に心が癒されることも事実です。
作品の真価を伝えようとする熱さ
ジュリアード弦楽四重奏団はバルトークの弦楽四重奏曲の全曲録音を3回も行っています。それに対して、私が知る限りでは、シェーンベルクの弦楽四重奏曲はこの古いモノラル録音の一回だけです。
残された資料によると、彼らは1949年に最晩年のシェーンベルクをロサンジェルスに訪問して、弦楽四重奏曲の解釈について熱心と意見を交換したようです。さらに翌年にはシェーンベルクの前で実際に演奏を行って、作曲家自身の意見も聞いています。
その時の様子を、リーダーであったロバート・マンは「シェーンベルクの予想した以上に、私たちの解釈はワイルドでした。そして、私たちが彼のために最初のカルテットを演奏すると、彼はそれが自分の予想もしていなかった解釈であると明かしました。」と述べています。この作曲家の反応は彼らにとっては大きな戸惑いであったようですが、シェーンベルクは笑い出して「でも、そのように演奏してください、それでいいのです」と付け加えたようです。
シェーンベルクにしてみれば、多少は意に沿わない部分があったとしても、ここでだめ出しをして録音が世に出ないよりはましだと判断したのではないかと思います。ただし、世間ではこの出来事を持って彼らの演奏は作曲家のお墨付きを得た「スタンダード」の地位を確保したことになっているのですが、実際に聞いてみれば、それは少し違うような気がするのです。
私の駄耳がこの演奏を聴いて感じたのは、彼らの一番最初のバルトークを聞いたときとほぼ同じです。
世間では、この演奏はきわめて過激な演奏であり、その過激さ故にシェーンベルクは違和感を感じたと言うことになっているのですが、どう聞いてみても、精緻さよりは作品の真価を伝えようとする熱さと、その熱さに由来する人肌の温もりみたいなものを感じてしまいます。そして、その熱さが私には魅力的なのです。
楚々手、彼のモノラルによるバルトーク演奏を聴いたときに感じたことが、そのままそっくりあてはまります。
「確かに、作品のたたずまいからいって、もっとクールに、もっと精緻に演奏されてこそ作品はその魅力をよりいっそう輝やかせることは否定できません。しかし、あまりにもクールに、そして精緻に演奏しすぎると、ただでさえ聞く人を拒絶するような側面がある作品だけに、はじめてこの作品に接する人には厳しすぎる事も事実です。それに対して、ジュリアード弦楽四重奏団によるこの一番最初のモノラル録音は、それが持つ人肌の温もりの故に聞く人にとって「優しい演奏」と言えるかもしれません。」
ただし不思議なのは、これほど熱心にシェーンベルクの作品と向き合ったにもかかわらず、たった1回しか録音しなかった、それも古いモノラル時代の1回だけだったことです。
バルトークに関してはさらに演奏の精密度を上げた録音を60年代に行い、さらにはデジタル時代に入った80年代にももう1回録音していることを考えれば、「どうしてだろう?」とは考えてしまいます。
おそらくは、「売れない」という判断がレーベルの方ではたらいたのかもしれません。ただでさえ室内楽は売れませんから、グールドみたいに本人が演奏したいものならば何でも「O.K」とはいかなかったのでしょうか?
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