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シュナイダーハン(Wolfgang Schneiderhan)|モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第5番 イ長調, K.219
モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第5番 イ長調, K.219
(Vn)ヴォルフガング・シュナイダーハン:フェルディナンド・ライトナー指揮 ウィーン交響楽団 1952年11月録音
Mozart:Violin Concerto No.5 in A major, K.219 [1.Allegro aperto]
Mozart:Violin Concerto No.5 in A major, K.219 [2.Adagio]
Mozart:Violin Concerto No.5 in A major, K.219 [3.Rondeau: Tempo di Menuetto]
断絶と飛躍
モーツァルトにとってヴァイオリンはピアノ以上に親しい楽器だったかもしれません。何といっても、父のレオポルドはすぐれたヴァイオリン奏者であり、「ヴァイオリン教程」という教則本を著したすぐれた教師でもありました。
ヴァイオリンという楽器はモーツァルトにとってはピアノと同じように肉体の延長とも言える存在であったはずです。
そう考えると、ヴァイオリンによるコンチェルトがわずか5曲しか残されていないことはあまりにも少ない数だと言わざるを得ません。さらにその5曲も、1775年に集中して創作されており、生涯のそれぞれの時期にわたって創作されて、様式的にもそれに見あった進歩を遂げていったピアノコンチェルトと比べると、その面においても対称的です。
創作時期を整理しておくと以下のようになります。
- 第1番 変ロ長調 K207・・・4月14日
- 第2番 ニ長調 K211・・・6月14日
- 第3番 ト長調 K216・・・9月12日
- 第4番 ニ長調 K218・・・10月(日の記述はなし)
- 第5番 イ長調 K219・・・12月20日
この5つの作品を通して聞いたことがある人なら誰もが感じることでしょうが、2番と3番の間には大きな断絶があります。
1番と2番はどこか習作の域を出ていないかのように感じられるのに、3番になると私たちがモーツァルトの作品に期待するすべての物が内包されていることに気づかされます。
並の作曲家ならば、このような成熟は長い年月をかけてなしとげられるのですが、モーツァルトの場合はわずか3ヶ月です!!
アインシュタインは「第2曲と第3曲の成立のあいだに横たわる3ヶ月の間に何が起こったのだろうか?」と疑問を投げかけて、「モーツァルトの創造に奇跡があるとしたら、このコンチェルトこそそれである」と述べています。そして、「さらに大きな奇跡は、つづく二つのコンチェルトが・・・同じ高みを保持していることである」と続けています。
これら5つの作品には「名人芸」というものはほとんど必要としません。時には、ディヴェルティメントの中でヴァイオリンが独奏楽器の役割をはたすときの方が「難しい」くらいです。
ですから、この変化はその様な華やかな効果が盛り込まれたというような性質のものではありません。
そうではなくて、上機嫌ではつらつとしたモーツァルトがいかんなく顔を出す第1楽章や、天井からふりそそぐかのような第2楽章のアダージョや、さらには精神の戯れに満ちたロンド楽章などが、私たちがモーツァルトに対して期待するすべてのものを満たしてくれるレベルに達したという意味における飛躍なのです。
アインシュタインの言葉を借りれば、「コンチェルトの終わりがピアニシモで吐息のように消えていくとき、その目指すところが効果ではなくて精神の感激である」ような意味においての飛躍なのです。
さて、ここからは私の独断による私見です。
このような素晴らしいコンチェルトを書き、さらには自らもすぐれたヴァイオリン奏者であったにも関わらず、なぜにモーツァルトはこの後において新しい作品を残さなかったのでしょう。
おそらくその秘密は2番と3番の間に横たわるこの飛躍にあるように思われます。
最初の二曲は明らかに伝統的な枠にとどまった保守的な作品です。言葉をかえれば、ヴァイオリン弾きが自らの演奏用のために書いた作品のように聞こえます。もっとも、これらの作品が自らの演奏用にかかれたものなのか、誰かからの依頼でかかれたものなのかは不明です。
しかし、3番以降の作品は、明らかに音楽的により高みを目指そうとする「作曲家」による作品のように聞こえます。
父レオポルドはモーツァルトに「作曲家」ではなくて「ヴァイオリン弾き」になることを求めていました。彼はそのことを手紙で何度も息子に諭しています。
「お前がどんなに上手にヴァイオリンが弾けるのか、自分では分かっていない」
しかし、モーツァルトはよく知られているように、貴族の召使いとして一生を終えることを良しとせず、独立した芸術家として生きていくことを目指した人でした。それが、やがては父との間における深刻な葛藤となり、ついにはザルツブルグの領主との間における葛藤へと発展してウィーンへ旅立っていくことになります。
その様な決裂の種子がモーツァルトの胸に芽生えたのが、この75年の夏だったのではないでしょうか?
ですから、モーツァルトにとってこの形式の作品に手を染めると言うことは、彼が決別したレオポルド的な生き方への回帰のように感じられて、それを意図的に避け続けたのではないでしょうか。
注文さえあれば意に染まない楽器編成でも躊躇なく作曲したモーツァルトです。その彼が、肉体の延長とも言うべきこの楽器による作曲を全くしなかったというのは、何か強い意志でもなければ考えがたいことです。
しかし、このように書いたところで、「では、どうして1775年、19歳の夏にモーツァルトの胸にそのような種子が芽生えたのか?」と問われれば、それに答えるべき何のすべも持っていないのですから、結局は何も語っていないのと同じことだといわれても仕方がありません。
つまり、その様な断絶と飛躍があったという事実を確認するだけです。
新しい潮流との向き合い方
シュナイダーハンと言えば、どうしてももう一人思い出すヴァイオリニストがいます。エリカ・モリーニです。
二人の共通点は、ともに戦前の古き良きウィーンの伝統の中で育ったヴァイオリニストと言うことです。しかし、戦争は二人の運命を大きくく隔ててしまいます。
モリーニはウィーンを追われアメリカに亡命し、再びヨーロッパに戻ることはありませんでした。それに対して、シュナイダーハンはウィーン・フィルのコンサート・マスターとして戦争を乗り切り、戦後もウィーンを拠点として活動を続けました。
おかしな話ですが、古き良き伝統というのは、その伝統の発祥した地ではなくて、そこから離れた辺境の地に置いてこそ良く保存される傾向があります。言語学の分野において「辺境残存の法則と言うものがあるようです。「新しい語は文化的中心地で作られ、中心地から遠い場所に古語が残りやすい」というものだそうです。
そして、音楽の演奏様式というのも言語みたいなものですから、意外とこの法則があてはまるようです。
ウィーンを離れてアメリカに亡命したモリーニは戦後も頑なに古き良きウィーンの伝統を守り続けました。そして、それは演奏する作品にもあられていて、自分が良しとする作品しか演奏しませんでしたし、共演する相手にも厳しい選別を行いました。
それに対して、ウィーンに残ったシュナイダーハンは明らかに時代の潮流をつかみ取って古い伝統とは異なるものであってもどんどん取り入れていきました。
つまりは、古き伝統というものはその発祥の地ではどんどん変容していくのに、そこから遠く離れた地域ではその伝統が頑強に保持されると言うことをこの二人の存在が実に明瞭に示しているのです。
そして、その変わっていくシュナイダーハンの姿が如実に刻み込まれているのがこの二つのモーツァルトのヴァイオリン協奏曲です。
52年に録音された第5番は、例えば戦時中に録音されたクラウスとワルター・バリリの演奏と大きな違いは感じません。おそらく、そこでは彼がウィーンという土地で学び取ってきたモーツァルトの姿がそのまま示されているように思います。しかし、1956年に録音された第4番の協奏曲は、それはもう別人の手になるような演奏になっています。そこには、指揮者であるロスバウとの影響は否定できないでしょう。
確かに、第5番にたいして第4番のヴァイオリンは多少は切れ味の鋭さを求める音楽なのですが、それにしてもここでもシュナイダーハンのヴァイオリンの切れ味の鋭さは半端ではありません。そして、そのするどい切れ味こそが新しい時代の潮流だったのです。そして、その新しい流れを取り入れる事にシュナイダーハンは躊躇いはなかったのです。
しかし、それがモリーニであれば間違っても採用しないような演奏スタイル、音楽言語だったはずです。
変わることに価値があるのか、変わらないことに価値があるのか。
「転石苔むさず」という格言にも二通りの解釈があるように、それは一概には決められないのでしょう。
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