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エリック・ハイドシェック(Eric Heidsieck)|モーツァルト:ピアノ協奏曲第25番ハ長調, K.503
モーツァルト:ピアノ協奏曲第25番ハ長調, K.503
(P)エリック・ハイドシェック:アンドレ・ヴァンデルノート パリ音楽院管弦楽団 1961年9月5日~7日録音
Mozart:Concerto No.25 In C Major For Piano And Orchestra, K.503 [1.Allegro Maestoso]
Mozart:Concerto No.25 In C Major For Piano And Orchestra, K.503 [2.Andante]
Mozart:Concerto No.25 In C Major For Piano And Orchestra, K.503 [3.(Allegretto)]
18世紀的な協奏曲の集大成
モーツァルト:ピアノ協奏曲第25番ハ長調 , K.503
ウィーンにおける「人気ピアニスト」としてのモーツァルトの最後を飾る作品であり、あのハ短調コンチェルトの8ヶ月後に作曲されたと考えられていますので、おそらくは降臨節におけるコンサートで演奏されたものだと考えられています。
ここではモーツァルトはもう一度「正気」を取り戻したかのように聞こえます。あの嵐のような激情が塗り込まれたハ短調のコンチェルトとは対照的と思えるほどに輝かしく明るい音楽に仕上がっているからです。
おそらくは、ハ短調コンチェルトへの評価にはさすがに「身分の高い人たち」の中でも色々とあったのでしょう。そして、そう言う色々な評価に対する埋め合わせとしてこの輝かしいハ長調のコンチェルトが書かれたとするのは考えすぎでしょうか。ロマン派の時代ならばいざ知らず、モーツァルトは基本的には興行で生活を支えているのですから、聞き手の要望はおそらくは無視できなかったはずです。
愛1楽章のハ長調の音楽には王者のような堂々たる姿が聞き取れます。そして、ときおり姿を見せるハ短調の陰影がその姿に深みを与えます。続くアンダンテ楽章は静謐な世界であり一点の暗さもありません。そして最終楽章は明るいロンドであり、そこに時々短調の影が差しこむこともあるのですが、結果としてその影は明るさをより際だたせる役割をはたしているのです。
ここでのモーツァルトは今まで自ら築き上げてきた18世紀的なコンチェルトの手練手管をフルに発揮しています。
この作品は20番以降の協奏曲の中では22番と並んで最も演奏機会の少ない作品なのですが、それ故にモーツァルトの18世紀的な協奏曲の集大成といえる作品になっていて、もっと聞かれても良い作品だといえます。
ウィーン時代後半のピアノコンチェルト
- 第20番 ニ短調 K.466:1785年2月10日完成
- 第21番 ハ長調 K.467:1785年3月9日完成
- 第22番 変ホ長調 K.482:1785年12月16日完成
- 第23番 イ長調 K.488:1786年3月2日完成
- 第24番 ハ短調 K.491:1786年3月24日完成
- 第25番 ハ長調 K.503:1786年12月4日完成
9番「ジュノーム」で一瞬顔をのぞかせた「断絶」がはっきりと姿を現し、それが拡大していきます。それが20番以降のいわゆる「ウィーン時代後半」のコンチェルトの特徴です。
そして、その拡大は24番のハ短調のコンチェルトで行き着くところまで行き着きます。
そして、このような断絶が当時の軽佻浮薄なウィーンの聴衆に受け入れられずモーツァルトの人生は転落していったのだと解説されてきました。
しかし、事実は少し違うようです。
たとえば、有名なニ短調の協奏曲が初演された演奏会には、たまたまウィーンを訪れていた父のレオポルドも参加しています。そして娘のナンネルにその演奏会がいかに素晴らしく成功したものだったかを手紙で伝えています。
これに続く21番のハ長調協奏曲が初演された演奏会でも客は大入り満員であり、その一夜で普通の人の一年分の年収に当たるお金を稼ぎ出していることもレオポルドは手紙の中に驚きを持ってしたためています。
この状況は1786年においても大きな違いはないようなのです。
ですから、ニ短調協奏曲以後の世界にウィーンの聴衆がついてこれなかったというのは事実に照らしてみれば少し異なるといわざるをえません。
ただし、作品の方は14番から19番の世界とはがらりと変わります。
それは、おそらくは23番、25番というおそらくは85年に着手されたと思われる作品でも、それがこの時代に完成されることによって前者の作品群とはがらりと風貌を異にしていることでも分かります。
それが、この時代に着手されこの時代に完成された作品であるならば、その違いは一目瞭然です。
とりわけ24番のハ短調協奏曲は第1楽章の主題は12音のすべてがつかわれているという異形のスタイルであり、「12音技法の先駆け」といわれるほどの前衛性を持っています。
また、第3楽章の巨大な変奏曲形式も聞くものの心に深く刻み込まれる偉大さを持っています。
それ以外にも、一瞬地獄のそこをのぞき込むようなニ短調協奏曲の出だしのシンコペーションといい、21番のハ長調協奏曲第2楽章の天国的な美しさといい、どれをとっても他に比べるもののない独自性を誇っています。
これ以後、ベートーベンを初めとして多くの作曲家がこのジャンルの作品に挑戦をしてきますが、本質的な部分においてこのモーツァルトの作品をこえていないようにさえ見えます。
二人の音楽性が見事に一致したモーツァルト
ハイドシェックの名前が世間に知られるようになったのはこのモーツァルトのコンチェルトの録音によってでしょう。
この録音はハイドシェックのピアノも素晴らしいのですが、それと同じくらいヴァンデルノートの指揮が素晴らしいのです。後の世代から俯瞰してみれば、ヴァンデルノートの才能は1957年にパリ音楽院管弦楽団を指揮して録音したモーツァルトの交響曲によってすでに明らかでした。
しかし、その録音は世の中がすでにステレオ録音へと移行しつつある中でモノラルによって録音されたものだったので、それほど多くのの人の目に触れることがなかったようです。
そして、このコンチェルトの録音に関しても、1958年に録音された21番と24番の2曲もまた、信じがたいことにモノラルでしか録音されていませんでした。しかし、さすがに60年以降に録音された残りの4曲はステレオによって録音されていたので、それらは一躍世間の注目を集めるようになりました。そして、その事をきっかっけにしてヴァンデルノートの交響曲録音も一部の好事家から注目されるようになりました。
そのヴァンデルノートの録音に関してはすでに紹介してあるのですが、そこで感じたのは「これは30歳の若者にしか作れなかった音楽だな」という感想でした。
その録音は、ボンヤリと聞いていると一見何もしていないように聞こえなくもありません。しかし、その何もしていないように見えながらも、そこからは若者でしか為しえない、ほとばしるうな生命観に満ちあふれている事に気づかされたものでした。
演奏の基本的なスタンスは、この時代を席巻していたザッハリヒカイトな音楽作りといえるのでしょうが、その音楽からはザッハリヒカイトという言葉から連想される素っ気なさや硬直した雰囲気などは微塵も存在しません。
石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも
そんな万葉の歌が思い起こされるような音楽でした。
そして、そう言う音楽の方向性はまさにハイドシェックの音楽性と見事にマッチしたのでした。
とりわけ、25番のコンチェルトは、まるでベートーベンの初期のコンチェルトを聞いているような錯覚に陥ります。そのダイナミックな音楽の迸りはある意味ではモーツァルトらしくはないのかもしれませんが、聞いてワクワクさせられることは間違いありません。
そして、この一連の録音によってハイドシェックは「モーツァルト弾き」として認識されることになったらしいのですが、彼のピアノは正直言ってモーツァルトが持っている柔らかさよりは、ベートーベン的な直進性が持ち味のように聞こえます。そして、それがヴァンデルノートのの指揮と相まって、1960年に録音されたK.466のニ短調コンチェルトやK.488のイ長調コンチェルトなどは、溢れんばかりの推進力と生命力に溢れています。
こういうハイドシェックのピアノを聞けば、おそらく彼はこの後にベートーベンの世界に踏み込んで行くであろう事は容易に想像がつきますし、現実もその通りになりました。ただし、彼が1967年から開始したベートーベンのソナタ全曲録音は全てパブリック・ドメインとなる前にそこからこぼれ落ちてしまいました。
かえすがえすも残念なことでした。
ちなみに、音楽の方向性はモノラルで1958年に録音されたK.467のハ長調コンチェルトやK.491のハ短調コンチェルトに関しても同じです。
ただし、その二つはモノラルとしても録音のクオリティが良くないのが些か残念です。とりわけ、マスターテープの劣化が原因かと思うのですが、曲の冒頭が実に窮屈な音になってしまっています。しかし、演奏が進むにつれてモノラル最終期に相応しい音質へと回復していきますので、取りあえずは最後までお付き合いしてやってください。
それから、最後になりますが、モーツァルトの最後のピアノ・コンチェルトとなったK.595のコンチェルトはアプローチがそれ以外の5曲とは少し異なっています。
確かに、この簡潔きわまるコンチェルトを今までのようにスッキリと直線的に演奏したのではその透明感に溢れた世界を壊してしまいます。そして、その事はハイドシェックもヴァンデルノートも十分に心得ていたでしょう。そこでは、直線的な推進力は影をひそめ、作品に溢れ津透明感に溢れた悲しみをこの上もなく丁寧にすくい取るように、ニュアンス豊かに歌っていきます。
その意味では、1961年に録音された最後の2曲はそれまでの4曲よりはいろいろな意味で一歩も二歩も踏み込んだ演奏になっているようです。
なお、余談ながら、ヴァンデルノートはこの後にシカゴ交響楽団を指揮してアメリカデビューも果たし、彼のことをクリュイタンスの後継者と見なす人も多くなるのですが、何故かそのすぐ後にベルギー国内のブラバンド管弦楽団というマイナーなオケの首席指揮者に就任して、実質的にドロップ・アウトしてしまいます。おそらく、ペーター・マークと同じように飛行機で飛び回って演奏会場とホテルを行き来するだけの生活に嫌気がさしたのでしょう。
しかし、マークはそう言うマイナーオケで自分の好きな音楽をやりながら、晩年にいたって多くの人を驚嘆させるような音楽を生み出したのですが、ヴァンデルノートはそれほどの音楽を生み出すこともなくフェード・アウトしてしまいました。
そして、ハイドシェックなのですが、彼は2018年にも来日して各地でコンサートを行って多くの人に感銘を与えたようです。(私は実際に聞いていないのであくまでも伝聞です)
そして、亡くなったというニュースにも接していないので今も元気に活動しているのでしょうか。
もしも今も現役だとすれば、84歳ですから、それは不可能なことではありません。
ですから、この偉大なピアニストの業績をパブリック・ドメインで追えるのはごく初期の活動だけとなるのですが、それでも少なくない録音がパブリック・ドメインとなっていたことは有り難い話です。
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