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エリック・ハイドシェック(Eric Heidsieck)|モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番イ長調 , K.488
モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番イ長調 , K.488
(P)エリック・ハイドシェック:アンドレ・ヴァンデルノート パリ音楽院管弦楽団 1960年6月3日&8日録音
Mozart:Concerto No.23 In A Major For Piano And Orchestra, K.488 [1.Allegro]
Mozart:Concerto No.23 In A Major For Piano And Orchestra, K.488 [2.Adagio]
Mozart:Concerto No.23 In A Major For Piano And Orchestra, K.488 [3.Allegro Assai]
憂愁を含んだ旋律が情熱的なドラマへと発展していく
モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番イ長調 , K.488
モーツァルトの数ある協奏曲の中でも極めて人気の高い作品の一つです。しかし、この作品のオーケストラ編成は前作の22番と較べればはるかにこぢんまりとしています。オーケストラはフルート1本に、クラリネットファゴット、ホルンがそれぞれ2本だけです。
しかし、イ長調で書かれた第1楽章の輝かしい響きはモーツァルトの優れた管弦楽法の手腕の典型であり、さらに、嬰ヘ短調で書かれた第2楽章は通常の「Andante」ではなくて「Adagio」が指定されていて、その憂愁を含んだ旋律が情熱的なドラマへと発展していくのはこの上もなく魅力的です。そして、最終楽章では独奏ピアノとオーケストラが一体となって陽気な音楽を心ゆくまで展開するのは、中間楽章の毒消しを行う必要があることをモーツァルトが忘れてはいなかったと言うことです。
この作品は前作の22番と、このあとの24番とあわせて1786年の四旬節(復活祭の46日前の水曜日から復活祭の前日までの期間)の時期に行うコンサートのために書かれたものと思われます。しかし、そのコンサートでこの作品が演奏される機会があったのかどうかは不明です。
逆に、モーツァルトはこの作品(K.488)とK.451,K.453,K.456,K.459の合計5曲の協奏曲に筆写譜をパトロンであったフェステンベルク侯に売り込んでいるのです。その時に、モーツァルトはそれらの作品を「自分のために、あるいは愛好家や小さなサークルのため」に書いたものだと述べ、そのサークルのメンバーにも「外に漏らさないことを約束させた」と保障しているのです。
それ故に、それらの作品はウィーンでさえ知られていないことを請け負っているのです。
この言葉を信じるならば、そして、その言葉を信じてその筆写譜をフェステンベルク侯が買い込んだという事実からしても、この作品は公開の演奏会では披露されなかったと考えられます。
そして、モーツァルトの未亡人から彼の作品を購入したアントン・アンドレーなる人物が1800年に出版することによって初めて広く世に知られるようになったのです。
コンスタンツェは「悪妻」の典型のように言われるのですが、モーツァルトが亡くなった後に借金を整理し、彼が残した作品をしっかりと管理したという功績を私たちは忘れてはいけないでしょう。
ウィーン時代後半のピアノコンチェルト
- 第20番 ニ短調 K.466:1785年2月10日完成
- 第21番 ハ長調 K.467:1785年3月9日完成
- 第22番 変ホ長調 K.482:1785年12月16日完成
- 第23番 イ長調 K.488:1786年3月2日完成
- 第24番 ハ短調 K.491:1786年3月24日完成
- 第25番 ハ長調 K.503:1786年12月4日完成
9番「ジュノーム」で一瞬顔をのぞかせた「断絶」がはっきりと姿を現し、それが拡大していきます。それが20番以降のいわゆる「ウィーン時代後半」のコンチェルトの特徴です。
そして、その拡大は24番のハ短調のコンチェルトで行き着くところまで行き着きます。
そして、このような断絶が当時の軽佻浮薄なウィーンの聴衆に受け入れられずモーツァルトの人生は転落していったのだと解説されてきました。
しかし、事実は少し違うようです。
たとえば、有名なニ短調の協奏曲が初演された演奏会には、たまたまウィーンを訪れていた父のレオポルドも参加しています。そして娘のナンネルにその演奏会がいかに素晴らしく成功したものだったかを手紙で伝えています。
これに続く21番のハ長調協奏曲が初演された演奏会でも客は大入り満員であり、その一夜で普通の人の一年分の年収に当たるお金を稼ぎ出していることもレオポルドは手紙の中に驚きを持ってしたためています。
この状況は1786年においても大きな違いはないようなのです。
ですから、ニ短調協奏曲以後の世界にウィーンの聴衆がついてこれなかったというのは事実に照らしてみれば少し異なるといわざるをえません。
ただし、作品の方は14番から19番の世界とはがらりと変わります。
それは、おそらくは23番、25番というおそらくは85年に着手されたと思われる作品でも、それがこの時代に完成されることによって前者の作品群とはがらりと風貌を異にしていることでも分かります。
それが、この時代に着手されこの時代に完成された作品であるならば、その違いは一目瞭然です。
とりわけ24番のハ短調協奏曲は第1楽章の主題は12音のすべてがつかわれているという異形のスタイルであり、「12音技法の先駆け」といわれるほどの前衛性を持っています。
また、第3楽章の巨大な変奏曲形式も聞くものの心に深く刻み込まれる偉大さを持っています。
それ以外にも、一瞬地獄のそこをのぞき込むようなニ短調協奏曲の出だしのシンコペーションといい、21番のハ長調協奏曲第2楽章の天国的な美しさといい、どれをとっても他に比べるもののない独自性を誇っています。
これ以後、ベートーベンを初めとして多くの作曲家がこのジャンルの作品に挑戦をしてきますが、本質的な部分においてこのモーツァルトの作品をこえていないようにさえ見えます。
二人の音楽性が見事に一致したモーツァルト
ハイドシェックの名前が世間に知られるようになったのはこのモーツァルトのコンチェルトの録音によってでしょう。
この録音はハイドシェックのピアノも素晴らしいのですが、それと同じくらいヴァンデルノートの指揮が素晴らしいのです。後の世代から俯瞰してみれば、ヴァンデルノートの才能は1957年にパリ音楽院管弦楽団を指揮して録音したモーツァルトの交響曲によってすでに明らかでした。
しかし、その録音は世の中がすでにステレオ録音へと移行しつつある中でモノラルによって録音されたものだったので、それほど多くのの人の目に触れることがなかったようです。
そして、このコンチェルトの録音に関しても、1958年に録音された21番と24番の2曲もまた、信じがたいことにモノラルでしか録音されていませんでした。しかし、さすがに60年以降に録音された残りの4曲はステレオによって録音されていたので、それらは一躍世間の注目を集めるようになりました。そして、その事をきっかっけにしてヴァンデルノートの交響曲録音も一部の好事家から注目されるようになりました。
そのヴァンデルノートの録音に関してはすでに紹介してあるのですが、そこで感じたのは「これは30歳の若者にしか作れなかった音楽だな」という感想でした。
その録音は、ボンヤリと聞いていると一見何もしていないように聞こえなくもありません。しかし、その何もしていないように見えながらも、そこからは若者でしか為しえない、ほとばしるうな生命観に満ちあふれている事に気づかされたものでした。
演奏の基本的なスタンスは、この時代を席巻していたザッハリヒカイトな音楽作りといえるのでしょうが、その音楽からはザッハリヒカイトという言葉から連想される素っ気なさや硬直した雰囲気などは微塵も存在しません。
石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも
そんな万葉の歌が思い起こされるような音楽でした。
そして、そう言う音楽の方向性はまさにハイドシェックの音楽性と見事にマッチしたのでした。
とりわけ、25番のコンチェルトは、まるでベートーベンの初期のコンチェルトを聞いているような錯覚に陥ります。そのダイナミックな音楽の迸りはある意味ではモーツァルトらしくはないのかもしれませんが、聞いてワクワクさせられることは間違いありません。
そして、この一連の録音によってハイドシェックは「モーツァルト弾き」として認識されることになったらしいのですが、彼のピアノは正直言ってモーツァルトが持っている柔らかさよりは、ベートーベン的な直進性が持ち味のように聞こえます。そして、それがヴァンデルノートのの指揮と相まって、1960年に録音されたK.466のニ短調コンチェルトやK.488のイ長調コンチェルトなどは、溢れんばかりの推進力と生命力に溢れています。
こういうハイドシェックのピアノを聞けば、おそらく彼はこの後にベートーベンの世界に踏み込んで行くであろう事は容易に想像がつきますし、現実もその通りになりました。ただし、彼が1967年から開始したベートーベンのソナタ全曲録音は全てパブリック・ドメインとなる前にそこからこぼれ落ちてしまいました。
かえすがえすも残念なことでした。
ちなみに、音楽の方向性はモノラルで1958年に録音されたK.467のハ長調コンチェルトやK.491のハ短調コンチェルトに関しても同じです。
ただし、その二つはモノラルとしても録音のクオリティが良くないのが些か残念です。とりわけ、マスターテープの劣化が原因かと思うのですが、曲の冒頭が実に窮屈な音になってしまっています。しかし、演奏が進むにつれてモノラル最終期に相応しい音質へと回復していきますので、取りあえずは最後までお付き合いしてやってください。
それから、最後になりますが、モーツァルトの最後のピアノ・コンチェルトとなったK.595のコンチェルトはアプローチがそれ以外の5曲とは少し異なっています。
確かに、この簡潔きわまるコンチェルトを今までのようにスッキリと直線的に演奏したのではその透明感に溢れた世界を壊してしまいます。そして、その事はハイドシェックもヴァンデルノートも十分に心得ていたでしょう。そこでは、直線的な推進力は影をひそめ、作品に溢れ津透明感に溢れた悲しみをこの上もなく丁寧にすくい取るように、ニュアンス豊かに歌っていきます。
その意味では、1961年に録音された最後の2曲はそれまでの4曲よりはいろいろな意味で一歩も二歩も踏み込んだ演奏になっているようです。
なお、余談ながら、ヴァンデルノートはこの後にシカゴ交響楽団を指揮してアメリカデビューも果たし、彼のことをクリュイタンスの後継者と見なす人も多くなるのですが、何故かそのすぐ後にベルギー国内のブラバンド管弦楽団というマイナーなオケの首席指揮者に就任して、実質的にドロップ・アウトしてしまいます。おそらく、ペーター・マークと同じように飛行機で飛び回って演奏会場とホテルを行き来するだけの生活に嫌気がさしたのでしょう。
しかし、マークはそう言うマイナーオケで自分の好きな音楽をやりながら、晩年にいたって多くの人を驚嘆させるような音楽を生み出したのですが、ヴァンデルノートはそれほどの音楽を生み出すこともなくフェード・アウトしてしまいました。
そして、ハイドシェックなのですが、彼は2018年にも来日して各地でコンサートを行って多くの人に感銘を与えたようです。(私は実際に聞いていないのであくまでも伝聞です)
そして、亡くなったというニュースにも接していないので今も元気に活動しているのでしょうか。
もしも今も現役だとすれば、84歳ですから、それは不可能なことではありません。
ですから、この偉大なピアニストの業績をパブリック・ドメインで追えるのはごく初期の活動だけとなるのですが、それでも少なくない録音がパブリック・ドメインとなっていたことは有り難い話です。
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よせられたコメント
2021-01-09:コタロー
- この演奏は、私淑する某音楽評論家が絶賛したものですね。アップしていただき、ありがとうございました。
ハイドシェックの演奏は、何ものにもとらわれず、生き生きとした自由闊達なもので、大変魅力的です。とりわけ、詩情あふれる第2楽章と、得も言われぬ愉悦を感じさせる第3楽章が素晴らしいです。
それにしても、ハイドシェックを発掘して紹介したこの音楽評論家は慧眼の持ち主ですね。
なお、彼の父親は、昭和を代表する漫談家の牧野周一氏であることをご存知でしたか?