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エリカ・モリーニ(Erika Morini)|モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第4番 ニ長調 K.218
モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第4番 ニ長調 K.218
(Vn)エリカ・モリーニ:ニコラス・ハーサニー指揮 プリンストン室内管弦楽団団 1965年3月31日&4月1日録音
Mozart:Violin Concerto No.4 in D major, K.218 [1.Allegro]
Mozart:Violin Concerto No.4 in D major, K.218 [2.Andante cantabile]
Mozart:Violin Concerto No.4 in D major, K.218 [3.Rondeau: Andante grazioso]
断絶と飛躍
モーツァルトにとってヴァイオリンはピアノ以上に親しい楽器だったかもしれません。何といっても、父のレオポルドはすぐれたヴァイオリン奏者であり、「ヴァイオリン教程」という教則本を著したすぐれた教師でもありました。
ヴァイオリンという楽器はモーツァルトにとってはピアノと同じように肉体の延長とも言える存在であったはずです。そう考えると、ヴァイオリンによるコンチェルトがわずか5曲しか残されていないことはあまりにも少ない数だと言わざるを得ません。
さらにその5曲も、1775年に集中して創作されており、生涯のそれぞれの時期にわたって創作されて、様式的にもそれに見あった進歩を遂げていったピアノコンチェルトと比べると、その面においても対称的です。
創作時期を整理しておくと以下のようになります。
- 第1番 変ロ長調 K207・・・4月14日
- 第2番 ニ長調 K211・・・6月14日
- 第3番 ト長調 K216・・・9月12日
- 第4番 ニ長調 K218・・・10月(日の記述はなし)
- 第5番 イ長調 K219・・・12月20日
この5つの作品を通して聞いたことがある人なら誰もが感じることでしょうが、2番と3番の間には大きな断絶があります。
1番と2番はどこか習作の域を出ていないかのように感じられるのに、3番になると私たちがモーツァルトの作品に期待するすべての物が内包されていることに気づかされます。
並の作曲家ならば、このような成熟は長い年月をかけてなしとげられるのですが、モーツァルトの場合はわずか3ヶ月です!!
アインシュタインは「第2曲と第3曲の成立のあいだに横たわる3ヶ月の間に何が起こったのだろうか?」と疑問を投げかけて、「モーツァルトの創造に奇跡があるとしたら、このコンチェルトこそそれである」と述べています。
そして、「さらに大きな奇跡は、つづく二つのコンチェルトが・・・同じ高みを保持していることである」と続けています。
これら5つの作品には「名人芸」というものはほとんど必要としません。
時には、ディヴェルティメントの中でヴァイオリンが独奏楽器の役割をはたすときの方が「難しい」くらいです。
ですから、この変化はその様な華やかな効果が盛り込まれたというような性質のものではありません。
そうではなくて、上機嫌ではつらつとしたモーツァルトがいかんなく顔を出す第1楽章や、天井からふりそそぐかのような第2楽章のアダージョや、さらには精神の戯れに満ちたロンド楽章などが、私たちがモーツァルトに対して期待するすべてのものを満たしてくれるレベルに達したという意味における飛躍なのです。
アインシュタインの言葉を借りれば、「コンチェルトの終わりがピアニシモで吐息のように消えていくとき、その目指すところが効果ではなくて精神の感激である」ような意味においての飛躍なのです。
さて、ここからは私の独断による私見です。
このような素晴らしいコンチェルトを書き、さらには自らもすぐれたヴァイオリン奏者であったにも関わらず、なぜにモーツァルトはこの後において新しい作品を残さなかったのでしょう。
おそらくその秘密は2番と3番の間に横たわるこの飛躍にあるように思われます。
最初の二曲は明らかに伝統的な枠にとどまった保守的な作品です。言葉をかえれば、ヴァイオリン弾きが自らの演奏用のために書いた作品のように聞こえます。
もっとも、これらの作品が自らの演奏用にかかれたものなのか、誰かからの依頼でかかれたものなのかは不明ですが・・・。
しかし、3番以降の作品は、明らかに音楽的により高みを目指そうとする「作曲家」による作品のように聞こえます。
父レオポルドはモーツァルトに「作曲家」ではなくて「ヴァイオリン弾き」になることを求めていました。彼はそのことを手紙で何度も息子に諭しています。
「お前がどんなに上手にヴァイオリンが弾けるのか、自分では分かっていない」
しかし、モーツァルトはよく知られているように、貴族の召使いとして一生を終えることを良しとせず、独立した芸術家として生きていくことを目指した人でした。
それが、やがては父との間における深刻な葛藤となり、ついにはザルツブルグの領主との間における葛藤へと発展してウィーンへ旅立っていくことになります。その様な決裂の種子がモーツァルトの胸に芽生えたのが、この75年の夏だったのではないでしょうか?
ですから、モーツァルトにとってこの形式の作品に手を染めると言うことは、彼が決別したレオポルド的な生き方への回帰のように感じられて、それを意図的に避け続けたのではないでしょうか。
注文さえあれば意に染まない楽器編成でも躊躇なく作曲したモーツァルトです。その彼が、肉体の延長とも言うべきこの楽器による作曲を全くしなかったというのは、何か強い意志でもなければ考えがたいことです。
しかし、このように書いたところで、「では、どうして1775年、19歳の夏にモーツァルトの胸にそのような種子が芽生えたのか?」と問われれば、それに答えるべき何のすべも持っていないのですから、結局は何も語っていないのと同じことだといわれても仕方がありません。
つまり、その様な断絶と飛躍があったという事実を確認するだけです。
男前のモーツァルト?
モーツァルトというのは演奏家にとっては恐い存在です。
そんな事を今さら私ごときが言わなくても分かっている話なのですが、このモリーニのモーツァルトを聴いていて、あらためて再認識させられました。
ヴァイオリニストとしてのモリーニの魅力に関しては何の疑問も持っていません。それでいながら、このモーツァルトは結果としてそれほど上手くいっているとは思えないのです。
しかし、考えてみれば、フルトヴェングラーだって、トスカニーニだってそれほどうまくはいっていないのです。
おそらく、モーツァルトの音楽はモーツァルトに添わなければいけないのでしょう。それを、どこか力ずくで自分の流儀に添わせようとすると、音楽は途端に台無しになってしまいます。
その意味で言えば、もっとも壊れにくい音楽がバッハだとするならば、もっとも壊れやすい音楽がモーツァルトです。
そんなモーツァルトの魅力をもっとも見事に表現したのは映画「アマデウス」におけるサリエリの独白でしょう。
音符1つ変えるだけで破綻が生じる
楽句1つで曲全体が壊れる
私は思い知った
大司教の屋敷で聞いた音楽は偶然の産物ではない
それは神の声による響きなのだ
五線紙に閉じ込められた小さな音符の彼方に
私は至上の美を見た
モーツァルトの音楽ほど「音符」の少ない音楽はないでしょう。それはピアノソナタのような音楽だけでなく、交響曲でも協奏曲でも同様です。あのジュピターの終楽章にしても、どうしてこんなに少ない音符であんなに壮麗な音楽が実現するのか理解に苦しむほどです。
そして、これだけの音符で音楽が成り立つのだと教えられた目で、例えばマーラーの楽譜なんかを見たら、それは「冗談」にしか見えなくなってくるのです。
そのシンプルさは、逆から見れば音符一つの重みが半端じゃないことを示すのです。
つまりサリエリの独白は、そのまま演奏家への警告としてはたらくのです。
音符1つ変えるだけで破綻が生じる
楽句1つで曲全体が壊れる
これは恐いです。
ですから、その音符に自分の流儀を押しつけようとすると、サリエリの言葉を借りれば、途端にそこから「神の声」は聞こえなくなってしまうのです。
ブルッフの音楽に「男前」を押しつけると、「男前のブルッフ」はそれはそれなりに魅力的に響きます。
バッハに「男前」を押しつければ、「男前のバッハ」が立ちあらわれて、実に立派なものです。
しかし、モーツァルトに「男前」を押しつけると、なんだか居心地が悪いのです。
何故なら「男前のモーツァルト」というのは存在しないからです。
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