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クルト・レーデル(Kurt Redel)|J.S.バッハ:音楽の捧げもの, BWV 1079(A面)
J.S.バッハ:音楽の捧げもの, BWV 1079(A面)
クルト・レーデル指揮:ミュンヘン・プロ・アルテ室内管弦楽団 (Fl)クルト・レーデル (Vn)ヴォルフガング・.マルシュナー (Cello)ヴィルヘルム.シュネラー (Harpsichord)レナード・ホカンソン 1962年5月録音
Bach:The Musical Offering, BWV 1079 [1.Ricercar A 3 Voix]
Bach:The Musical Offering, BWV 1079 [2.Canon Perpetuel]
Bach:The Musical Offering, BWV 1079 [3.5 Canons Divers]
Bach:The Musical Offering, BWV 1079 [4.Fugue Canonique]
Bach:The Musical Offering, BWV 1079 [5.Canon A 2 Voix]
Bach:The Musical Offering, BWV 1079 [6.Canon A 4 Voix]
バッハの意地
バッハ最晩年の作品であり、「フーガの技法」と並んで特別な地位を占める作品なのがこの「音楽の捧げもの」です。
よく知られているように、この作品はプロイセンの国王であったフリードリヒ2世が示した主題(王の主題)をもとにした作品集です。王の主題は、「3声のリチェルカーレ」の冒頭に提示されています。
見れば(聞けば?)分かるように、非常に「現代的」な感じが漂う主題であり、バッハの時代においてはかなり異様な感じのする旋律だったはずです。当然の事ながら、これを主題として処理していくのは不可能とまでは言わなくても、かなりの困難さがあることは容易に想像がつくような代物です。ですから、本当にフリードリヒ2世自身がこの主題を示したのかは疑問です。
当時、プロイセンの宮廷には息子であるフィリップ・エマヌエル(C.P.bach)が勤めていたのですが、そこへ親父であるバッハが尋ねてきたのです。おそらくは、この宮廷楽団の中でバッハ一族の力が伸びていくのを快く思わなかった一部の音楽家達が、その鼻っ柱をへし折ってやろうという「悪意」に基づいて作り出したものではないかと想像されます。(真実は分かりませんが・・・)
何故ならば、フルート奏者としても名高かったフリードリヒ2世は作曲も行っていて幾つかの作品が残されているのですが、その作風はこの主題とは似てもにつかないギャランとな性格を持っていたからです。
ただ、バッハの高名はプロイセンにも届いていましたから、その実力の程を試してやろうという「悪戯心」は王も共有していたかもしれません。
しかし、王にとっては一場の座興であったとしても、バッハにしてみれば真剣勝負であったはずです。そして、「どう頑張ってもこの主題をもとにフーガに展開などできるはずがない!!」とほくそ笑んでいる反対派の音楽家を前にしてみれば、絶対に失敗などできる場面ではなかったのです。
それ故に、ここではバッハという人類が持ち得た最高の音楽的才能が爆発します。
バッハは王の求めに応じて、即興でこの主題をもとにした3声のフーガを演奏して見せたのです。おそらく、この時の即興演奏が「音楽の捧げもの」の中の「3声のリチェルカーレ」として収録されているはずです。
想像してみてください。
どう頑張ってもフーガに展開などできるはずがない、上手くいかずに醜態をさらすのを今か今かと待ちわびている宮廷音楽家達の前で、彼らの想像をはるかに超えるフーガが即興で展開されていったのです。その驚きたるやいかほどのものだったでしょうか。
しかし、それでは彼らの面目は丸つぶれなので、さらに彼らはこれを6声の主題によるフーガに展開することを求めます。
これも容易に想像がつくことですが、3声を6声に複雑化するのは難易度が2倍になる等という単純な話ではありません。単純な順列組み合わせで考えても、3声ならば組み合わせパターンは6通りですが、6声ならば720通りになってしまいます。フーガがその様な算術的計算で割り切れるようなものでないことは分かっていますが、それでも難易度が飛躍的に上がることは容易に想像がつきます。
さすがのバッハもその求めに即材に応じることはできずに1日の猶予を願い出るのですが、それでもその様な短期間で6声に展開することはできなかったので、バッハは自らの主題に基づいた6声のフーガを演奏してプロイセンを離れます。
結果としてこの勝負は1勝1敗となった訳なのですが、これほど不公平な勝負をドローに持ち込んだだけでも「人間技」をこえています。
しかし、バッハにしてみれば、この1敗が気に入らなかったようです。
彼はプロイセンから帰ってくると、この王の主題に基づいた6声のフーガに取り組み、その成果を13曲からなる「音楽の捧げもの」としてフリードリヒ2世に献呈するのです。なんだか、バッハの「ドヤ顔」が想像されるようなエピソードですが、そのおかげで私たちは人類史上例を見ないほどの精緻なフーガ作品を手にすることができたのです。
この「音楽の捧げもの」は大小あわせて13曲からなるのですが、それをどのような楽器で演奏するのか、さらにはどのような順番で演奏するのかが明確に指定されていません。(楽器については3曲だけが指定されている)
ですから、今日の研究では、これを一つの作品として全曲を通して演奏することは想定されていなかったとされています。しかし、全13曲が以下の3つのグループに分かれることだけは確かなようなのです。
- 第1部:「3声のリチェルカーレ」「6声のリチェルカーレ」
- 第2部:「王の主題に基づくトリオソナタ Largo~Allegro~Andante~Allegro」
- 第3部:「王の主題のカノン的労作 第1グループ(6曲)~第2グループ(4曲)」
なお、この作品群を詳細に紹介する力は私にはないので、そう言う細部に興味ある方は、「
音楽の捧げ物」などを参照してください。
しかしながら、このエピソードには残念な後日談があります。
それは、これほどの作品を献呈されたにも関わらず、さらには、自らが命じた形になっていたにもかかわらず、フリードリヒ2世はこの作品集には何の興味示さなかったらしいのです。ですから、この作品が、その後プロイセンの宮廷で演奏されたという形跡もありませんし、もしかしたらフリードリヒは楽譜に目も通さなかった可能性もあるのです。
バッハのような「知性」を必要とする音楽よりは、陽気で楽しい音楽が持て囃される時代へと移り変わるようになり、フリードリヒの嗜好もその様なものだったのです。
おそらく、時代はバッハを理解しなくなっていたのです。
そして、この残念な後日談は、その後100年近くにわたってバッハが忘却されることを暗示する最初の出来事だったとも言えるのです。
こういう「緩さ」は何とも言えず救いとなる
最近少し気になっているというか、お気に入りになりつつあるのがクルト・レーデルという指揮者です。
しかしながら、今となってはその名前を知る人は非常に少なくなっています。正直言って、私も彼の名前に気づいたの最近はまっている中古レコード屋さん巡りの中でのことでした。
レーデルはもともとはフルート奏者であり、50年代にはそれなりに名の売れたソリストでした。そして、50年代という時代は若手の演奏家たちが中心になってバロック音楽の復興という新しい流れにチャレンジをはじめた時代でもありました。そして、何を思ったのかは不明ですが、すでにソリストとしてのキャリアは十分に積み上げていたにもかかわらず、彼はミュンヘン・プロ・アルテ室内管弦楽団を詩指揮して、そう言う潮流に加わっていったのです。
しかしながら、今の時から振り返ると、レーデルが作り出す音楽は他の若手たちの音楽と較べると保守的なものでした。とりわけ、同じミュンヘンを拠点に活動をはじめたリヒターなどと較べればその差は明らかです。
リヒターの厳しく引き締まったバッハ演奏と較べれば、低声部を厚く鳴らした響きでゆったりと歌い上げるレーデルのバッハは「緩い」と思われても仕方のないものでした。それは同時代のミュンヒンガーと較べても同様で、時代は明らかに「厳しいバッハ」を求めていました。
そして、バッハ以前の作品となれば、イ・ムジチの「四季」に代表されるような「大甘」な演奏が広く受け入れられていて、それらと較べればレーデルの演奏は上品で落ち着きすぎていました。
確かに、リヒターはバッハ演奏の歴史を変えました。
しかし、コロナ禍という今の時代にあって、その厳しい演奏を聞くには辛すぎることがあります。
それに対して、長く忘れられていたレーデルのバッハや、バッハ以前の作曲家の作品を聞くとき、そこには聞くものの心を穏やかにさせてくれるほんわかとした響きと上品な歌い回しがあります。「癒し」などと言う言葉は使いたくないのですが、取り巻く環境が閉塞的なものであればあるほどに、そのレーデルの暖かさと上品さにくるまれた音楽は何とも言えず魅力的に思えてくるのです。
そして、そう言うレーデルの美質がもっとも上手く発揮されているのがこの「音楽の捧げもの」かもしれません。
まず面白いのは、この作品は楽器が指定されていないので、それぞれのパートにどの楽器をあてるのかは演奏家に任されるのですが、レーデルは自分が演奏するフルートに一番いい場所を与えています。つまりは、フルートが音楽全体をグイグイと引っ張っていくのですが、その事によってレーデルの暖かく上品な持ち味が作品全体に自然と伝わっています。
さらに、その事によって、この人間の知性の極限と言えるほどの精緻な作品に、どこか人肌の温かみを与えているのです。
もちろん、その精緻さに焦点をあてて明晰に再現していく演奏も魅力的なのですが、そう言う演奏は時には抽象画を見ているような気分にさせられるときがあります。つまりは、なんだか凄いんだろうが、自分の本当の心は楽しめていないというような感じです。
ただ、みんなが凄いと言うんだから自分もそう言っておかないと知性も教養もない人間と思われるかもしれないという「同調圧力」で凄いと言っているうちに、いつの間にか自分でも「凄い」と思っているような気分になってしまうと言う「あれ」です。
しかし、今という時代にあっては、こういう「緩さ」は何とも言えず救いとなることも事実なのです。そう開き直れば、「音楽の捧げもの」というのは人間の知性の極限に挑戦した小難しい音楽ではなくて、素直に楽しくて美しいと思える素敵な音楽だったんだと納得できるのです。
それから。ファイルの切り方ですが、これは音源のレコードの解説に従って9曲に切り分けました。そして、少しばかりアナログレコードの時代を思い出してA面とB面に分けてみました。
A面が終わるとむっくりと立ち上がってレコードを裏返し、念のためにもう一度裏面をクリーニングして針を落とした時代を思い出してくれればと思います。
A面
- 3声のリチェルカーレ
- 無限カノン
- 王の主題による各種のカノン
- 王の主題による各種のカノン 1 逆行のカノン
- 王の主題による各種のカノン 2 同度のカノン
- 王の主題による各種のカノン 3 反逆のカノン
- 王の主題による各種のカノン 4 反行の拡大カノン
- 王の主題による各種のカノン 5 螺旋のカノン
-
- 上方5度のフーガ・カノニカ
- 2声のカノン
- 4声のカノン
B面
- 6声のリチェルカーレ
- フルート、ヴァイオリンと通奏低音のためのトリオ・ソナタ
- フルート、ヴァイオリンと通奏低音のためのトリオ・ソナタ 1.ラルゴ
- フルート、ヴァイオリンと通奏低音のためのトリオ・ソナタ 2.アレグロ
- フルート、ヴァイオリンと通奏低音のためのトリオ・ソナタ 3.アンダンテ
- フルート、ヴァイオリンと通奏低音のためのトリオ・ソナタ 4.アレグロ
- 無限カノン
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よせられたコメント
2021-10-13:コタロー
- 私がレーデルのレコードに初めて出会ったのは、1972年、エラートの廉価盤LPでバッハの「ブランデンブルク協奏曲」でした。当時の感想をいえば、全体にゆるい演奏という印象で、廉価盤だから仕方がないと思って聴いていました。
それから50年近い歳月が経ち、私自身も初老を迎えてバッハの「音楽の捧げもの」に対峙してみると、若い頃感じた「ゆるさ」が逆にメリットになっているように思いました。時々入るスクラッチ・ノイズもLP時代を思い出して懐かしく感じます。
2021-10-14:むなけん
- 私の愛聴盤を紹介していただきありがとうございます。
とくに「6声のリチェルカーレ」(B面ですが)は中学生の時からお気に入りで、このレーデル版の編曲を耳コピし、大学生のときに内輪の演奏会で演奏しました。
(指揮なしでやったら、途中でストップしちゃいました。)
特に第5,6声部の扱いがお気に入りです。ベースの入りにゾクゾクします。
アップが楽しみですね。