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カラヤン(Herbert von Karajan)|スメタナ:組曲「我が祖国」より「モルダウ」
スメタナ:組曲「我が祖国」より「モルダウ」
カラヤン指揮 ベルリンフィル 1958年5月録音
Smetana:Ma vlast
「我が祖国」=「モルダウ」+「その他大勢」・・・?
スメタナの全作品の中では飛び抜けたポピュラリティを持っているだけでなく、クラシック音楽全体の中でも指折りの有名曲だといえます。ただし、その知名度は言うまでもなく第2曲の「モルダウ」に負うところが大きくて、それ以外の作品となると「聞いたことがない」という方も多いのではないでしょうか。
言ってみれば、「我が祖国」=「モルダウ」+「その他大勢」と言う数式が成り立ってしまうのがちょっと悲しい現実と言わざるをえません。でも、全曲を一度じっくりと耳を傾けてもらえれば、モルダウ以外の作品も「その他大勢」と片づけてしまうわけにはいかないことを誰しもが納得していただけると思います。
組曲「我が祖国」は以下の6曲から成り立っています。しかし、「組曲」と言っても、全曲は冒頭にハープで演奏される「高い城」のテーマが何度も繰り返されて、それが緩やかに全体を統一しています。
ですから、この冒頭のテーマをしっかりと耳に刻み込んでおいて、それがどのようにして再現されるのかに耳を傾けてみるのも面白いかもしれません。
第1曲「高い城」
「高い城」とは普通名詞ではなくて「固有名詞」です。(^^;これはチェコの人なら誰しもが知っている「年代記」に登場する「王妃リブシェの予言」というものに登場し、言ってみればチェコの「聖地」とも言うべき場所になっています。ですから、このテーマが全曲を統一する核となっているのも当然と言えば当然だと言えます。
第2曲「モルダウ」
クラシック音楽なんぞに全く興味がない人でもそのメロディは知っていると言うほどの超有名曲です。水源地の小さな水の滴りが大きな流れとなり、やがてその流れは聖地「高い城」の下を流れ去っていくという、極めて分かりやすい構成とその美しいメロディが人気の原因でしょう。
第3曲「シャールカ」
これまたチェコの年代記にある女傑シャールカの物語をテーマにしています。シャールカが盗賊の一味を罠にかけてとらえるまでの顛末をドラマティックに描いているそうです。
第4曲「ボヘミアの森と草原より」
ユング君はこの曲が大好きです。スメタナ自身も当初はこの曲で「我が祖国」の締めにしようと考えていたそうですが、それは十分に納得の出来る話です。牧歌的なメロディを様々にアレンジしながら美しいボヘミアの森と草原を表現したこの作品は、聞きようによっては編み目の粗い情緒だけの音楽のように聞こえなくもありませんが、その美しさには抗しがたい魅力があります。
第5曲「ターボル」
これは歴史上有名な「フス戦争」をテーマにしたもので、「汝ら神の戦士たち」というコラールが素材として用いられています。このコラールはフス派の戦士たちがテーマソングとしたもので、今のチェコ人にとっても涙を禁じ得ない音楽だそうです。(これはあくまでも人からの受け売り。チェコに行ったこともないしチェコ人の友人もいないので真偽のほどは確かめたことはありません。)スメタナはこのコラールを部分的に素材として使いながら、最後にそれらを統合して壮大なクライマックスを作りあげています。
第6曲「ブラニーク」
ブラニークとは、チェコ中央に聳える聖なる山の名前で、この山には「聖ヴァーツラフとその騎士たちが眠り、そして祖国の危機に際して再び立ち上がる」という伝承があるそうです。全体を締めくくるこの作品では前曲のコラールと高い城のテーマが効果的に使われて全体との統一感を保持しています。そして最後に「高い城」のテーマがかえってきて壮大なフィナーレを形作っていくのですが、それがあまりにも「見え見えでクサイ」と思っても、実際に耳にすると感動を禁じ得ないのは、スメタナの職人技のなせる事だと言わざるをえません。
精神性に頼らない指揮芸術
カラヤンという人はどういう作品であっても聞きやすくゴージャスに仕上げる才能を持った人でした。しかし、そのことは何を聞いてもカラヤン風にお化粧されると言うことなので、中には作品そのものがもっている素直な良さをスポイルしてしまうことも否定できませんでした。
それから、なんと言っても、誰からも評価されてて「帝王」などと言う尊称を奉られていると、それを意識的に否定することで自分の「偉さ」を誇示したいと思う人も生み出しました。それを全て「アンチ・カラヤン」とは断定しませんが、それでもそう言うスノッブな動機でカラヤンを否定していた人も少なくありませんでした。
そして、そう言う「アンチ・カラヤン」な人々がひそかに心待ちにしていたのは「カラヤンの死」でした。
美術の世界などでは顕著なのですが、存命中は高く評価されていても、その作家が亡くなると一気に評価が下がります。(号あたりの単価が50%オフになるのが常識とか・・・)
音楽の世界も同じで、存命中にどれほど高い評価を得ていても、亡くなると同時に忘れ去られていくという人も少なくありません。
ですから、アンチ・カラヤンな人々は、カラヤンの評価なんて彼の政治力の賜物にしかすぎず、死んでしまえばその政治力も発揮できないのであっという間に忘れ去られてしまうだろうと期待したのです。
そして、その願望は1989年に叶えられることになりました。
おそらく、アンチ・カラヤンな人たちは、カラヤンの凋落がいつ始まるのかと、心ワクワクさせながらそのときを待ったはずです。
ところが、1年たっても、2年たっても、さすがに新譜は出てこなくなりましたが(^^;、カラヤンに対する評価はそれほど大きな変化はおこりませんでした。「おかしいな、○ー○なんかはあっという間に忘れ去られたのに、これはどういう訳だ?」と訝しく思ったのですが、その後5年たっても10年たっても、カラヤンはいまだに存命中であるかのように、彼の録音は再発され続けました。
そして15年たち、20年たっても状況に大きな変化はないと言うことになると、多少は心に素直さをもっているアンチ・カラヤンな人は「これは、いくら何でもおかしいぞ」と思うようになるわけです。
はい、この「アンチ・カラヤンな人」とは私のことです。(*_ _)人ゴメンナサイ
もう、ここまできたのですから、思い切って言い切っちゃいます。
カラヤンという指揮者は、同じ業界人の中で比べれば、フルトヴェングラーやトスカニーニ、さらにはワルターなどと肩を並べうる存在だったのかもしれないのです。(だった。・・・と言い切るにはまだ時間不足)
芸術という分野においては「時間」」こそが最も公正で厳格な審判です。評価に値しないものは時間の経過とともに消え去っていきます。
逆に価値あるものとは何かと言えば、時間の流れの中でも古びることもなく残されたもののことです。
この事実を素直に受け入れるならば、時間が残したものについては謙虚に評価して向き合うべきです。ですから、この数年はかなり意欲的にカラヤンの録音を集め聞き込んできました。
かつては、「カラヤンの余りよい聞き手ではない」と言ってきたのですが、最近はそこまで謙遜する必要がないレベルまで聞き込んできた自信はあります。
その聞き込んできた中でつくづくと感じたのは、カラヤンが偉大だったのは、20世紀の前半でフルトヴェングラーやトスカニーニが築き上げた指揮芸術というものに、まだ違うアプローチがあることをかぎ取り、そのかぎ取った世界をものの見事なまでに現実化したことにある、と言うことです。
ホロヴィッツのピアノに精神性を求める人はいません。もちろん、そのことをもって「奴には猫ほどの知性もない」と批判した評論家もいましたが、クラシック音楽という世界は「精神性」だけで成り立っているわけではないという当たり前の事実をものの見事に腕一本(いや、二本か?)で証明して見せました。事情はハイフェッツにおいても同様です。
ピアノやヴァイオリンみたいな器楽奏者の世界では、片方にバックハウスやケンプが存在し、他方にホロヴィッツがいても何の不思議もなく受け入れられてきました。
しかし、どういう訳か指揮芸術においては21世紀を迎えてもまずは「精神性」が求められ続けました。
ホロヴィッツは「猫ほどの知性もない」と酷評されても気にもとめませんでしたが、指揮者が「猫ほどの知性もない」と言われれば残念ながらいまだに致命傷です。
でも、そんなつまらぬ知性などはどこかに放り出して、鬼のようなトレーナーと化してオケを鍛え上げ、究極のシンセサイザーとして超絶的にゴージャスにして美麗なる音楽を聴かせてくれる指揮者が存在すれば素敵だとは思いませんか?
もちろん、カラヤンは人に負けないほどの知性を持っていましたが、しかし、彼が本当に求めていたのは、そう言うホロヴィッツ的な指揮者だったのではないかと思うようになってきました。
カラヤンが亡くなってから、クラシック音楽の世界にはカリスマがなくなったと言われます。
もしかしたら、その一番の原因は、誰もがお高くとまりすぎて、本当の意味でカラヤンみたいに馬鹿になりきれていないからではないでしょうか。
8月に入ってから、落ち穂拾いみたいにアップし切れていなかったカラヤンのパブリックドメインの音源を追加しています。
「帝王」カラヤンの地位を不動のものにし、そこから自分の信じた指揮芸術を形あるものに仕上げようとする入り口にあたる録音ばかりです。同じ時期に、彼は愛人であるウィーンフィルともまとまった録音を残していますが、やはり本妻であるベルリンフィルとの録音の方にこそ、そう言う彼の方向性が透けて見えるような気がします。
ただ、こうしてカラヤンの録音をまとめて追加しはじめると、必ず決まって「カラヤンみたいなつまらぬ指揮者の録音をアップする暇があるなら、他に紹介すべき録音がたくさんあるだろう!」みたいなネチネチしたメールをいただきます。
でも、私は改心したので(見方を変えれば「裏切り者?」)、これからも頑張ってカラヤンの録音はフォローしていくつもりです。
いまだにアンチカラヤンで頑張っている人も、いい加減「改心」されてはいかがでしょうか?
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よせられたコメント
2014-08-16:Guinness
- カラヤンのモルダウ、本当は全部で何種あるのかは自信がありませんが、この1958年録音は初めて耳にしました。
まず驚いたのが響きの良さです。おそらくグリューネヴァルト教会の録音と思いますが、イエス・キリスト教会やフィルハーモニアとはまた違った明るい感じを受けました。
演奏も決して後年の録音に引けを取らない、ある意味再録音の必要性を感じさせない完成された録音だと感じました。