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小澤征爾(Ozawa Seiji)|ベルリオーズ:幻想交響曲 作品14
ベルリオーズ:幻想交響曲 作品14
小澤征爾指揮 トロント交響楽団 1966年12月1日&3日録音
Berlioz:Symphonie fantastique in C minor, Op.14 [1.Reveries - Passions. Largo - Allegro agitato e appassionato assai - Religiosamente]
Berlioz:Symphonie fantastique in C minor, Op.14 [2.Un bal. Valse. Allegro non troppo
Berlioz:Symphonie fantastique in C minor, Op.14 [3.Scene aux champs. Adagio]
Berlioz:Symphonie fantastique in C minor, Op.14 [4.Marche au supplice. Allegretto non troppo]
Berlioz:Symphonie fantastique in C minor, Op.14 [5.Songe dune nuit de sabbat. Larghetto - Allegro]
ベートーベンのすぐ後にこんな交響曲が生まれたとは驚きです。
私はこの作品が大好きでした。
「でした。」などと過去形で書くと今はどうなんだと言われそうですが、もちろん今も大好きです。なかでも、この第2楽章「舞踏会」が大のお気に入りです。
よく知られているように、創作のきっかけとなったのは、ある有名な女優(アイルランド出身の女優、ハリエット・スミッソン)に対するかなわぬ恋でした。
相手は、人気絶頂の大女優であり、ベルリオーズは無名の青年音楽家ですから、成就するはずのない恋でした。結果は当然のように失恋で終わり、そしてこの作品が生まれました。
しかし、凄いのはこの後です。
時は流れて、立場が逆転します。
女優は年をとり、昔年の栄光は色あせています。
反対にベルリオーズは時代を代表する偉大な作曲家となっています。
ここに至って、漸くにして彼はこの恋を成就させ、結婚をします。
やはり一流になる人間は違います。私などには想像もできない「しつこさ」です。(^^;
しかし、この結婚はすぐに破綻を迎えます。理由は簡単です。ベルリオーズは、自分が恋したのは女優その人ではなく、彼女が演じた「主人公」だったことにすぐに気づいてしまったのです。
恋愛が幻想だとすると、結婚は現実です。そして、現実というものは妥協の積み重ねで成り立つものですが、それは芸術家ベルリオーズには耐えられないことだったでしょう。「芸術」と「妥協」、これほど共存が不可能なものはありません。
さらに、結婚生活の破綻は精神を疲弊させても、創作の源とはなりがたいもので、この出来事は何の実りももたらしませんでした。
狂おしい恋愛とその破綻が「幻想交響曲」という実りをもたらしたことと比較すれば、その差はあまりにも大きいと言えます。
凡人に必要なもは現実ですが、天才に必要なのは幻想なのでしょうか?それとも、現実の中でしか生きられないから凡人であり、幻想の中においても生きていけるから天才ののでしょうか。
私君も、この舞踏会の幻想の中で考え込んでしまいます。
なお、ベルリオーズはこの作品の冒頭と格楽章の頭の部分に長々と自分なりの標題を記しています。参考までに記しておきます。
感受性に富んだ若い芸術家が、恋の悩みから人生に絶望して服毒自殺を図る。しかし薬の量が足りなかったため死に至らず、重苦しい眠りの中で一連の奇怪な幻想を見る。その中に、恋人は1つの旋律となって現れる…」
第1楽章:夢・情熱
「不安な心理状態にいる若い芸術家は、わけもなく、おぼろな憧れとか苦悩あるいは歓喜の興奮に襲われる。若い芸術家が恋人に逢わない前の不安と憧れである。」
第2楽章:舞踏会
「賑やかな舞踏会のざわめきの中で、若い芸術家はふたたび恋人に巡り会う。」
第3楽章:野の風景
「ある夏の夕べ、若い芸術家は野で交互に牧歌を吹いている2人の羊飼いの笛の音を聞いている。静かな田園風景の中で羊飼いの二重奏を聞いていると、若い芸術家にも心の平和が訪れる。
無限の静寂の中に身を沈めているうちに、再び不安がよぎる。
「もしも、彼女に見捨てれられたら・・・・」
1人のの羊飼いがまた笛を吹く。もう1人は、もはや答えない。
日没。遠雷。孤愁。静寂。」
第4楽章:断頭台への行進
「若い芸術家は夢の中で恋人を殺して死刑を宣告され、断頭台へ引かれていく。その行列に伴う行進曲は、ときに暗くて荒々しいかと思うと、今度は明るく陽気になったりする。激しい発作の後で、行進曲の歩みは陰気さを加え規則的になる。死の恐怖を打ち破る愛の回想ともいうべき”固定観念”が一瞬現れる。」
第5楽章:ワルプルギスの夜の夢
「若い芸術家は魔女の饗宴に参加している幻覚に襲われる。魔女達は様々な恐ろしい化け物を集めて、若い芸術家の埋葬に立ち会っているのだ。奇怪な音、溜め息、ケタケタ笑う声、遠くの呼び声。
”固定観念”の旋律が聞こえてくるが、もはやそれは気品とつつしみを失い、グロテスクな悪魔の旋律に歪められている。地獄の饗宴は最高潮になる。”怒りの日”が鳴り響く。魔女たちの輪舞。そして両者が一緒に奏される・・・・」
小沢にとっては最も初期に位置する録音
そう言えば、Ozawaの若いころの録音はすでにパブリック・ドメインになっているのではないかと言う考えが頭の中をよぎりました。渡邉暁雄のシベリウスの旧全集は何とかして初出年を確定しようとあれほど頑張ったのに、何故かOzawaの録音に関しては全く意識の中にも上がっていないのでした。
普通の日本人であれば、たいていの人は小澤征爾の名前は知っていても、渡邉暁雄の名前を知っているのはよほどのクラシック音楽ファンくらいのものでしょう。にもかかわらず、私の中で渡邉暁雄が大きな位置を占めていてもOzawaに関してはほとんど意識に上がってこなかったのは、それが私の中における二人の占めるポジションを示していたと言うことなのでしょう。
率直に言って若いころの小澤征爾は大好きでした。
朝比奈隆が率いていた時代の大フィルはお世辞にも上手とは言えないオケだったのですが、そんなオケに客演して素晴らしい演奏を聞かせてもらったのもいい思い出です。とりわけ、武満の「弦楽のためのレクイエム」なんかは今もその「響きの記憶」がはっきりと残っています。
ところが、小澤征爾がいつの間にかキャリアを積み上げて「世界のOzawa」になるにつれて、何故か彼のレコードやCDに手が伸びる回数が少なくなり、やがて彼の新譜がリリースされてもスルーすることが増えていき、いつの間にか私の視野からは消えていきました。
それはなにかの強い意志が働いてそうなったのではなくて、知らない間に、気がつけば視野から消えていたのです。
そんなOzawaが再び私の視野に入ってきたのは、彼がサイトウ・キネン・オーケストラの活動をはじめたことが切っ掛けでした。あの取り組みは世間の注目を集め、その演奏の様子はテレビでも取り上げられたので嫌でも視野に入ってきたのです。そして、その演奏を通して久しぶりにOzawaの音楽にふれたのですが、その時に、私がどうして彼から離れていったのかがはっきりと自覚することが出来ました。
彼の指揮技術は優れています。それは間違いありません。
そして、そこに腕利きのメンバーを集めたオケを率いればこの上もなく整ったアンサンブルで実に丁寧に作品をまとめ上げていました。しかし、その結果生み出される音楽は私にはどれもこれもが蒸留水のような、純ではあっても味わいに乏しい音楽としか思えませんでした。
小沢が若いころの音楽には瑞々しさがありました。
その音楽は朝露に濡れた夏の草原や林を思わせるような爽やかで新鮮な味わいに満ちていました。それは、日本人であることを強みとして、西洋音楽の伝統という慣性質量の大きな存在から自由なポジションにを取れることによって生み出されたものでした。しかし、彼がキャリアをボストンからウィーンへと上りつめるにつれて、その瑞々しさは失われていったように感じられます。
おそらく、それほど聞く経験値も乏しかった若い時代の私であっても、その変化がもたらす「つまらなさ」を本能的に感じとっていたのでかもしれません。もちろん、それを「つまらない」と感じたのはあくまでも私の感性であって、あの精緻な響きで手際よくまとめられた音楽に魅力を感じる人がいても、それはそれで決して不思議には思いません。
と、言うことで、思わず小沢の昔話が長くなってしまいました。
さて、このトロント響との幻想交響曲は、小沢にとっては最も初期に位置する録音でしょう。
率直に言ってトロント響と言うのはそれほど上手なオケではないことは明らかです、おそらく、当時の日本のオケと較べてもそれほど大差はなかったのではないでしょうか。小沢はこのすぐ後にシカゴ響とまとまった録音を残していますが、それを聞き比べてみるとその差は悲しいまでに明らかです。
ですから、この録音は小沢の意志がどれほどオーケストラによって反映されているのかは不明です。おそらく、小沢にしてみれば不本意な点も数多くあったと思われるのですが、それでもお互いが全力を出して作品と向かい合っていることは事実です。
そして、小沢もそう言うマイナスポイントを埋め合わせるためか、あれこれと工夫を凝らしてはいるのですが、それが逆に「あざとい」と受け取られかねいない危険性も内包しています。
全体としては、若き時代の小沢らしい「軽い」音楽、よく言えば「軽快な」音楽になっているので、例えばミンシュの幻想などと較べれば全く別世界の幻想になっています。しかし、ミンシュのような「熱い」幻想やクレンペラーのような「頑強な」幻想だけが全てではないのですから、こういう「軽快な」幻想があっても悪いとは思いません。
願わくば、オケの響きにもう少し潤いと華やぎがあればいいのですが、それは無い物ねだりなので仕方のないことなのでしょうね。
なお、余談ながら、最終楽章で鐘の音が響くのですが、一度、二度と響いた後の三度目の鐘の音は左側後方で実にかすかに鳴っています。
この三度目の鐘の音が聞き取れるかどうかは、再生システムの分解能をチェックするには絶好のサンプルといえるかもしれません。
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よせられたコメント
2020-10-30:toshi
- Ozawa評については同感です。
某評論家は「人気は高いが味の薄い〇〇〇(ビール名)のよう」とOzawa氏の演奏を酷評していて物議をかもしたと言ってましたが。
若い頃のOzawa氏は師の斎藤秀雄の影響が強かったのでしょうね。
でも時間が経つと本当の自分が出てきただけという感じがします。
単に正確なだけの音楽、それ以外に何もない音楽というのが私の意見。
オケのリハもつまらない。サイトウキネンのリハの映像を見ましたが、音合わせしているだけで表現の核心には一切迫らない、つまらないリハでした。
Ozawa氏より欠点は多いが、朝比奈隆やクナーパッツブッシュの演奏に惹かれます。それ以上にOzawa氏の師の斎藤秀雄の演奏をもっと評価して欲しいな。
2022-06-18:ジェネシス
- 小沢がラヴィニアからトロント⇒サンフランシスコ時代だったと思います。
アメリカのオーケストラとは?と聞かれて「ハリー.ジェームス楽団の前にストリングスを配したような」と語っていました。蓋し慧眼であり名言でしょうね。
カウント.ベイシーやデューク.エリントンにストリングスを被せようなんて誰も考えない、ハリー.ジェームスである事がキモなんでしょう。父スラトキンが率いていたハリウッドボール管弦楽団のイメージが付いて回る、それを払拭しようと手兵を締め上げて享楽的響きを敢えて拝したのがセルとライナーだったのかなあ?。
そのセルやライナー、パレー、スタインバーク、ゴルシュマン、10年.15年以上レジームを過ごすと皆、アンド.ヒズ.オーケストラと呼ばれていました。
で、30年率いたボストン響がオザワ.アンド.ヒズと呼ばれる機会が少なかったのは何故なんでしょうかね?。