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ショルティ(Georg Solti) |メンデルスゾーン:交響曲第3番 イ短調 作品56 「スコットランド」
メンデルスゾーン:交響曲第3番 イ短調 作品56 「スコットランド」
ゲオルク・ショルティ指揮 ロンドン交響楽団 1952年11月録音
Mendelssohn:Symphony No.3 in A minor, "The Scotch" Op. 56 [1.Introduction. Andante con moto - Allegro un poco agitato - Assai animato - Andante come I]
Mendelssohn:Symphony No.3 in A minor, "The Scotch" Op. 56 [2.Scherzo. Vivace non troppo]
Mendelssohn:Symphony No.3 in A minor, "The Scotch" Op. 56 [3.Adagio cantabile]
Mendelssohn:Symphony No.3 in A minor, "The Scotch" Op. 56 [4.Finale guerriero. Allegro vivacissimo ? Allegro maestoso assai]
標題をつけるが好きだったみたいです(^^)
3番には「スコットランド」、4番には「イタリア」と副題がついています。
あまりポピュラーではありませんが、5番には「宗教改革」、2番にも「賛歌」と言う副題がついています。
そして、絶対音楽の象徴みたいに言われるシンフォニーですが、何故か副題がついている方が人気がでます。
もちろん、シンフォニーでなくても、副題がついている方がうんと人気がでます。もっとも、その副題も作曲者自身がつけたものもあれば、あとの時代で別人が勝手につけたものもあります。
中には、人気曲なのに名無しでは可哀想だと思ったのか、全く訳の分からない副題がついているものもあります。
あまりひどいものは次第に使われなくなって消えていくようですが、それなりに的を射ているものは結構通用しています。
そう言えば、すてきなメロディーを耳にしたときに、「この曲なんて言うの?」なんて聞かれることがよくあります。(よくあるわけないよな(^^;、時々あるほどでもないけれど、でも、たまーにこういう状況があることはあります。)
そんなときに知ったかぶりをして、「あーっ、これはね『ロッシーニの弦楽のためのソナタ』第1番から第2楽章ですよ、いい曲でしょう!」等と答えようものなら、せっかくの和んだ空気が一瞬にして硬直していくのが分かります。
ああ、つまらぬ事を言うんじゃなかったと思っても、後の祭りです。
でも、そんなときでも、その作品にしゃれた副題がついていると状況は一変します。
「あーっ、これはねショパンの革命ですよ。祖国を失った悲しみと怒りをピアノにたたきつけたんですね、ふふふっ!」と言えば、実にかっこいいのです。
ところが、全く同じ事を言っているのに、「あーっ、これはねショパンのエチュードから第12番ハ短調、作品番号10の12です、祖国を失った悲しみと怒りをピアノにたたきつけたんですね、ふふふっ!」と答えれば、これは馬鹿でなのです。
クラシック愛好家がこのような現実をいかに理不尽であると怒っても、それは受け入れざるを得ない現実です。
流行歌の世界でも、「ウタダの待望の新作「作品番号12の3変ホ長調!」なんていった日には売れるものも売れなくなります。
もっともっと素敵な標題をみんなでつけましょう(^^)
そして、クラシック音楽にいささかいかがわしい副題がついていても目くじらをたてるのはやめましょう。
なかには、そう言うことは音楽の絶対性を損なうといって「僕は許せない!」と言うピューリタン的禁欲主義者のかたもおられるでしょうが、そう言う方は「クラシック音楽修道院」にでも入って世俗との交流を絶たれればすむ話です。
いや、私たちは逆にどんどんすてきな副題をつけるべきかもしれません。
だって、今流れているこの音楽にしても、メンデルスゾーンの「交響曲第3番イ短調作品番号56」、と言うよりは、メンデルスゾーンの「スコットランド」と言う方がずっと素敵だと思いませんか。
それにしても、メンデルスゾーンは偉い、1番をのぞけば全て副題をつけています。有名なヴァイオリンコンチェルトも今では「メンコン」で通じますから大したもです。(うーん、でもこれが通じるのは一部の人間だけか、それに付け方があまりにも安直だ、チャイコン、ブラコンあたりまでは許せても、ベトコンとなると誤解が生じる。)
ピアノ曲集「無言歌」のネーミングなんかも立派なものです。
「夢」「別れ」「エレジー」あたりは月並みですが、「眠れぬ夜に」「安らぎもなく」、「失われた幸福」と「失われた幻影」に「眠れぬままに」「朝の歌」と来れば、立派なものだと思いませんか。
「抽斗の狭さ」みたいな欠点には目を瞑って、ショルティならでは「切迫感と緊張感」に磨きをかけたのかもしれません
ショルティの初期録音に関していささか混乱した情報を提供してしまいました。
色々な資料をつき合わせてみると、以下のように把握するのが正しいようです。
まずは、ショルティとDeccaの間につながりがうまれたのはピアニストとしてでした。
これはすでにふれていることなのですが、ショルティがリヒテクというテノールの伴奏ピアニストをつとめていて、そのリヒテクの紹介でDeccaとのつながりが出来たからでした。
ですから、ショルティのDeccaでの初録音はヴァイオリニストのクーレンカンプと組んだブラームスのヴァイオリン・ソナタ3曲、ベートーベンのクロイツェルとモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ1曲、そしてシューベルトの小品2曲でした。
そして、この録音を担当したのがヴィクター・オロフだったのです。
しかし、ショルティの望みはピアニストではなくてあくまでも指揮者であり、ピアニストとしての録音をこなしながらも指揮者としての録音を強くDeccaに売り込むのです。
そして、その売り込みが功を奏したのか、1947年にベートーベンの「エグモント序曲」とコダーイの「ハーリ・ヤーノシュ組曲」を録音します。
ただし、この一連の録音を誰が担当したのかはよく分かっていません。おそらくは、かなりのやっつけ仕事ではなかったのかと思われます。
そして、カルショーの回想録によると、1949年の6月に、ミュンヘンの歌劇場でカルショーはショルティが指揮をする「薔薇の騎士」を聞いて、その幕間に挨拶に行っているのです。
しかしながら、自己紹介する必要がなかったので以前にもどこかで会っているようだと書いているのですが、それがいつだったのかは思い出せなかったようです。
そして、「彼とはそれから何年か後に、親しく仕事をすることになる」と記しているのですが、実際はその2ヶ月後にハイドンの交響曲を録音しているのです。
回想録でも、薔薇の騎士の幕間に挨拶に行ったと記したすぐ後のところで「8月29日、ゲオルグ・ショルティがイギリスのオーケストラと始めて録音を行った」と書いているのです。
おまけに、その録音に関しては「それまでに経験したどんなオーケストラよりも私に多くの喜びを与えた」と書いているのです。
回想録というものは往々にして本人の思いこみや記憶間違いもありますから仕方のないことなのですが、こういう整合性の取れない記述はこのカルショーの回想録にもたくさんあるようです。
そして、このハイドンの録音に続けて、カルショーはベートーベンの4番(1950年11月録音)やスッペの序曲集(1951年4月録音)、バルトークの「舞踏組曲」(1952年11月録音)、コダーイの「ガランタ舞曲」(1952年11月録音)、メンデルスゾーンの3番(1952年11月録音)を担当していく事になります。
面白いのは、こうして順を追って聞いていくと、ショルティのトレードマークとも言うべき、強引にオケをドライブするスタイルが確立していく様子がよく分かるのです。
とりわけ、最後のメンデルスゾーンの3番などは「無慈悲」という言葉が相応しいと思えるほどの造形になっています。
カルショーはショルティとの初録音となったハイドン演奏に対して「ショルティは指揮者としては未熟なところもあったが(彼は始めはピアニストだった)、演奏には切迫感と緊張感があった。それらはハイドンには相応しくないものだったかも知れないが、注目すべき将来性を予感させた。」と記しています。
これはなかなかに意味深長で興味をひかれる記述であって、オケを強引にドライブしていくことによって生まれる「切迫感と緊張感」はすでにショルティの持ち味であり、その持ち味をカルショーもまた大いに評価していた事が分かるのです。
しかし、その反面として、それは「ハイドンには相応しくないかもしれない」として、ショルティの「抽斗の狭さ」も指摘しているのです。
しかし、その後の両者の仕事ぶりを見ていると、取りあえずはそう言う「抽斗の狭さ」みたいな欠点には目を瞑って、ショルティならでは「切迫感と緊張感」に磨きをかけることに力を注いだことがよく分かります。
それは、ベートーベンの4番やメンデルスゾーンの3番などを聞けばよく分かります。
正直言って、今の耳からしてもかなりえげつない演奏です。
ここまでザッハリヒカイトに徹した演奏を聞けば「それはないだろう」という気がするはずです。
カルショーの言葉を借りれば「相応しくないかもしれない」演奏と言うことになるのでしょうが、それは同時にショルティならではの強烈な個性が刻印された演奏でもあったのです。
悪名は無名に勝ると言います。
知名度のない若手を世に売り出すためには、たとえ悪名であっても、他にはない個性を刻印することで無名から脱出する必要があると考えたのかもしれません。
ただし、残念なことにカルショーはこの二つの録音については回想録の中では一切ふれていません。
さすがに「悪名」が過ぎたと思ったのかもしれません。
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よせられたコメント 2018-09-19:ナルサス 個人的な今年一番の“掘り出しもの”はショルティ指揮の「スコットランド」でした。手兵シカゴ交響楽団を指揮した1985年の録音(デッカ)です。
最近までの私は、ショルティを目の敵の如く嫌う人たちに賛意を覚えることはなかった一方、積極的に聞く気にもなれませんでした。ごく一部の気に入った録音を繰り返し聞くだけでした。
「あの」ショルティが振る「スコットランド」はどれほどの奇演なのか。あまりにもイメージし難かったその演奏は、冒頭から終結部まで情感に溢れた実に見事な演奏でした。殊に弦楽セクションの繊細なニュアンスには驚きました。
ショルティはこんな演奏もできたのか、と目から鱗でした。
今回紹介されている若きショルティの演奏は、後のステレオタイプのショルティのイメージに直結する演奏と言え、この曲の中では「奇演」の部類だと思いました。
後年の録音との対比を思い、実に興味深く聞きました。