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カザルス(Pablo Casals)|ハイドン:交響曲第45番 嬰ヘ短調 「告別」
ハイドン:交響曲第45番 嬰ヘ短調 「告別」
パブロ・カザルス指揮 プエルト・リコ・カザルス音楽祭管弦楽団 1959年録音
Haydn:Symphony No.45 in F Sharp minor Farewell [1.Allegro assai]
Haydn:Symphony No.45 in F Sharp minor Farewell [2.Adagio]
Haydn:Symphony No.45 in F Sharp minor Farewell [3.Menuet (Allegretto) & Trio]
Haydn:Symphony No.45 in F Sharp minor Farewell [4.Finale: Presto]
帰りたいよー!
ハイドンの初期シンフォニーの中では最も有名な作品です。もちろん、その「有名」さは、「告別」と題されることになるエピソードによるものです。そして、このエピソードについては、知っている人にはウンザリするほど聞かされた代物でしょうが、知らない人は知らないわけであって、こういうサイトの性質上、やはり説明せざるを得ません。
耳タコの人はご容赦あれ。
ハイドンが使えていたエステルハージ候は夏になると、湖を見渡す風光明媚な場所にたてられたエステルハーザ宮で過ごすことが習慣となっていました。この宮殿はフランスのヴェルサイユ宮殿をモデルとしたものだったのですが、建設当初はかなり手狭で、多くの楽員は家族を連れて行くことが出来ず、単身赴任を強いられていました。
通常、一年の半分をこの宮殿で過ごすのが通例だったので、これは多くの楽員にとってかなり不便であると同時に負担でもあったようです。
ところが、1772年の滞在は、どういう訳か、通常の6ヶ月が経過してもエステルハージ候は帰ろうとせず、単身赴任の延長は2ヶ月を超えるようになってしまいました。これには、さすがに多くの楽員から不満の声が起こり、楽長であったハイドンに何としてくれと言う訴えが殺到するようになりました。
しかし、封建制度のもとで、主君である候に面と向かって苦情を訴えることも出来ませんから、それを音楽を通して婉曲に伝えようとして作曲されたのがこの「告別」と題された交響曲でした。
目玉は最終楽章です。
最初はプレストで、何の変哲もない通常の終曲という風情で音楽が始まります。この音楽が属音上で半終止し、その後フェルマータ休止をはさんでアダージョの音楽が始まります。言うまでもないことですが、交響曲の終わりはプレストのまま華やかに終わるのが普通ですから、これは明らかに「異様」です。
きっとエステルハージ候もこれは「普通」じゃないとすぐに気づいたはずです。
しかし、ハイドンの趣向はさらに手がこんでいました。
彼は、この後、譜面台の蝋燭を吹き消して楽員が次々と退場していくように指示したのです。
第1オーボエと第2ホルンから始まって、次々と楽員が去っていきます。そして、最後の14小節は二人の第1ヴァイオリンだけが寂しげに演奏を続け、消えるように音楽が終わると、その二人も蝋燭を吹き消して去っていきます。
まさに「そして、誰もいなくなった」です。
この曲が実際に演奏されると、その意味するところを悟った候は、その翌日に休暇を与えて全員を帰郷させたそうです。
ただし、この「告別」というタイトルはハイドンがつけたものではなく、18世紀のわり頃に後世の人がつけたもののようです。
愚直なまでのスタイル
指揮者「カザルス」をどのように評価するのかと問われれば、その答えはかなり難しいものとなるでしょう。
一般的に、指揮者カザルスが聞き手の視野に入ってくるのは1950年に始められたプラド音楽祭以降です。プラド音楽祭とはよく知られているように、スペインのフランコ政権に抗議してフランスの片田舎プラドの街に隠棲してしまったカザルスのところに世界中の音楽家が集まって始まった音楽祭です。
しかし、彼はチェリストとして活躍しながらも、若い頃から指揮活動にも興味を持っていました。1920年には、生まれ故郷のカタロニアにおいて自らの名を冠した「パウ・カザルス管弦楽団」を組織して本格的な指揮活動を行っています。この管弦楽団は「祖国の音楽活動の普及」が目的だったのですが、残された資料によるとスペインの作曲家以外にも、R.シュトラウス、マーラー、ストラヴィンスキー、バルトーク、シェーンベルク等も取り上げていますから、かなり本格的なものだったようです。
そして、これを踏み台としたのかどうかは分かりませんが、これと時を同じくしてヨーロッパの有名オケにも活動の舞台を広げていきます。
ただし、その客演活動は手ひどいしっぺ返しを喰らうことになります。
- BBC響;「棒がわかりません。ちょっとチェロで見本を演奏してくれませんか。」
- ロンドン響;「彼のテンポは独奏の時には完璧だったが、指揮棒を持つと立往生してしまうようだった。」
- ウィーン・フィル;「彼が何を指揮するつもりか、私は知らないよ。我々は『田園交響曲』を演奏するつもりだがね。」
(「
指揮者としてのパブロ・カザルス」より引用)
要は、チェリストとしては不世出の偉大さを誇っていても、指揮者としては素人の域を出なかったのです。
よく知られている話ですが、彼は指揮技術の未熟さを念入りなリハーサルでフォローするというタイプでした。そして、その「念入り」というのが、棒で伝えられない部分は実際に歌ってみせることで仕上げていくというスタイルだったのです。自らが組織した手兵のオケならば通用した手法でしょうが、プロの有名オケ相手では侮蔑の対象にしかならなかったのです。
そんな訳で、その後は本業のチェロに活動の重点を置くことになるのですが、やがて思わぬ時の巡り合わせで、再び本格的に指揮活動に取り組むようになるのです。
それが先にも少しふれたプラド音楽祭でした。
この音楽祭には、ソリストとしては「(Vn)アイザック・スターン/ヨゼフ・シゲティ、(Cello)ポール・トルトゥリエ、(P)クララ・ハスキル/ミェチスワフ・ホルショフスキ/ルドルフ・ゼルキン」等々と絢爛たるメンバーが参集したのですが、オーケストラのメンバーに関しては、その大半は若手の音楽家で、さらには、その若手音楽家の中にはかなり腕前の怪しい連中も交じっていたのです。
しかし、結果から言えば、その様な未熟なメンバーで構成されたオケだったことが、カザルスにとっては逆に幸運だったようなのです。カザルスは、そう言う怪しい連中にたいしても、まさに「口移し」のようにして彼が信じる音楽の姿を伝えることができたのです。
そして、そう言うカザルスの姿勢に対してオケのメンバーは感動することはあっても、間違っても侮蔑の感情を持つことなどはなかったのです。
彼はここぞという場面ではわずか数小節に30分も1時間も時間をかけて、己が理想とする表現に到達するまで何度も練習を繰り返す事ができました。
重視したフレージングやアクセントの付け方などに関しては実際にうたって見せて自分が理想とする姿を何度でも示すことができたのです。そして、それを納得がいくまで何度でも繰り返すことが可能だったのです。
その意味では、カザルスは指揮者としては最後までアマチュアでした。
プロというのは限られた制約の中で最大限のパフォーマンスを実現することが求められますから、カザルスみたいに「口移し」で音楽を伝えていたのではすぐにお払い箱です。
しかし、ある種の恵まれた環境下では、そう言う愚直なまでのスタイルがプロのトップオケでは到達できない世界を実現してしまうことも事実なのです。
もちろん、だからといって、これを持って至高の演奏などともちあげる気持ちは全くありません。
技術面に限れば、カザルスよりも上手い演奏を探すのはきわめて容易ですし、逆にカザルスより問題の多い演奏を探す方が難しいでしょう。
しかし、そう言うすぐれた演奏というものは、何故か聴き終わった後に感心をさせられることはあっても、このカザルスの演奏のようにしみじみと「いいなぁー・・・。」と思わされる演奏には滅多に出会いません。
何度も同じ言葉を繰り返しているのですが、「音楽とは不思議なもの」です。
そして、幸いなことに、この経験に気をよくしたのか、プラド音楽祭が下火となってからも彼は指揮活動を続けていくことになります。特に、ルドルフ・ゼルキンが中心となって1959年にマールボロ音楽祭が始まると彼は本格的に指揮活動に取り組みます。そして、この音楽祭を活動の中心として、1973年に亡くなるまで指揮活動を続けていくことになるのです。
そんなカザルスの指揮の魅力については「
カザルスの名演奏」というサイトなどで熱く紹介されていますから、私ごときがそれにつけくわえるものなどは一つも持っていません。
ただし、さらに言葉を足せば、そこまでの称賛に同意しかねる部分があることも正直に付け加えておなければなりません。
例えば、ここで紹介しているハイドンは、バッハやモーツァルトと並んでカザルスがよく取り上げた作曲家です。ある意味では、カザルス自身が最もシンパシーを感じた音楽家かもしれないのですが、私には彼のハイドンを聴くたびに、「いささか重い」という違和感を感じざるを得ませんでした。
昨今のピリオド楽器によるハイドンしか知らない人にとっては「冗談」にしか思えないかもしれません。
もちろん、歴史はヘーゲルも言ったよう「阿呆の画廊」ではありませんから、後世の視点と到達点で過去を論ずれば大切なことを見落としてしまいます。しかし、これと同時代の他の演奏と較べてみても、これはかなり異質な演奏であることは間違いありません。
とりわけ、初期シンフォニーでシェルヘンやフリッチャイの録音と較べてみれば、その「重さ」は明らかです。これが、同じ時代に交響曲の全曲録音に挑んだゴバーマン&ウィーン国立歌劇場管弦楽団になると、それはもう全く別世界です。
カザルスの中にある音楽は、同時代の人たちと較べれば明らかに一回り古いことは明らかでしょう。そして、その古さはバッハやモーツァルトにおいても感じるので、彼の中の音楽はより古い時代の音楽に根っこを持っているのでしょう。
もちろん、「古い=劣る」とか「新しい=優れている」というような単純な話ではありません。しかし、カザルスの音楽にはその様な限界があることも視野に入れておく必要はあるのではないでしょうか。
古さゆえに視野から除外するのも愚かですが、古きがゆえにひたすら尊ぶ姿勢にも違和感を感じます。
なお、誤解のないように最後に申し添えておきますが、上で紹介したサイトはその様な「愚」に陥っていないことは言うまでもないことです。読めば分かることですが、念のために付け加えさせていただきます。
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