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オーマンディ(Eugene Ormandy)|セルゲイ・プロコフィエフ 交響曲第7番 嬰ハ短調 作品131
セルゲイ・プロコフィエフ 交響曲第7番 嬰ハ短調 作品131
ユージン・オーマンディ指揮 フィラデルフィア管弦楽団 1953年4月26日録音
Prokofiev:SymphonyNo.7 in C Sharp minor, Op.131 [1.Moderato]
Prokofiev:SymphonyNo.7 in C Sharp minor, Op.131 [2.Allegretto]
Prokofiev:SymphonyNo.7 in C Sharp minor, Op.131 [3.Andante espressivo]
Prokofiev:SymphonyNo.7 in C Sharp minor, Op.131 [4.Vivace]
聴衆を喜ばせる音楽
プロコフィエフというのは不思議な作曲家で、時代の最先端を突っ走るような音楽を持ち味としながら、その傍らで子供にでも親しむことができるような、または大衆的な人気を博するような映画音楽なんかも得意にしていました。
ですから、プロコフィエフと言えば「ピーターと狼」であったり「ロメオとジュリエット」の作曲家として認識されたりしています。
私はここに、20世紀という時代に「クラシック音楽」などというものを作曲し続ける難しさがあるように思います。
プロコフィエフという人はとんでもない早熟の天才であったことはよく知られています。
彼はわずか13歳でサンクトペテルブルグ音楽院の入試試験を受けたのですが、試験官だったリムスキー=コルサコフは「わたしが心から願っていた生徒だ!」と叫んだというエピソードが残っています。
しかし、音楽院に入学してからのプロコフィエフは問題児であり続けました。そして、「わたしが心から願っていた生徒だ!」と叫んだリムスキー=コルサコフも彼のことを「才能はあるが未熟」だと言わざるを得なくなるのです。
今という時代から振り返ってみれば、理由は簡単に分かります。
音楽院で求められる課題などは、今さらそこで学ばなくともプロコフィエフは既に全てを身につけていたのです。そして、己の貴重な時間をそんな愚かな作業で潰される事は我慢できなかったのです。音楽院に長く住み着いた黴の生えたような教師から学ぶことなどは何もなかったのです。
つまりは、彼は既にそう言う教師連中を喜ばせ、保守的な聴衆を喜ばせることのできる音楽を書く能力は身につけていたのです。
さらに言葉と付け足せば、彼ほどの能力を持たない学生たちが泣きたくなるような努力の末に身につけるであろう知識とスキルを、既に13歳にして身につけてしまっていたのです。
そこで、彼は新しい道へと踏み込んでいくのです。
ところが、その道は音楽院の教師にとっても、ましてや保守的な聴衆にとっても理解できるものではなかったのです。
彼が自信を持って発表したピアノ協奏曲は「ペテルブルグの学生らしき若者があらわれてピアノの前に座り、鍵盤のほこりを払っているのか、もしくは鋭くドライなタッチでめちゃめちゃに叩いている」と地元新聞で揶揄の対象とされたのです。
しかし、そう言う音楽を書く一方で、実に分かりやすく美しい音楽を書くことができたのがプロコフィエフという人だったのです。
この第7番の交響曲はジダーノフ批判を受けた第6番交響曲のあとに発表されました。
この交響曲はソヴィエトの青年に捧げる交響曲と言うことで「青春交響曲」と呼ばれます。今からみれば、気恥ずかしくなるくらいのベタなネーミングなのですが、そこにはジダーノフ批判を受けて仕方なしに当局の意向に添わざるを得なかったプロコフィエフの姿が浮かび上がってきます。しかしながら、結果として、難解で晦渋であり、ペシミスティックな色に染め上げられていた第6番の交響曲とは全く異なる音楽に仕上がっています。
第6番の初演ではどのように反応していいのか分からず戸惑った聴衆も、この「青春交響曲」には拍手大喝采を送ります。
それはそうでしょう、第1楽章の美しいメロディはまさに青春そのものであり、音楽は第6番のような危うい場面は一つもな大団円を迎えるのですから。
さらに、だめ押しとして、当初は静かにピチカートで終わるはずだった最終楽章に20小節ほど付け加えて華々しく終わる別ヴァージョンも用意したのです。
これで、受けないはずはありません。
前衛音楽という尖った時代の洗礼を受けた後から聞いても、ショスタの5番や7番と同じように、この青春交響曲も魅力的なのです。さすがに、この作品を「革命」や「レニングラード」の横に並べようとは思いませんが、それでもその音楽は今もなお美しく心にしみ入るのです。
時代の先頭を走った音楽家たちは、とりわけ20世紀の作曲家たちは、今は理解されなくてもやがて時代は追いついてくると信じて音楽を書き続けていきました。しかし、21世紀を迎えても時代は追いついていませんし、聴衆は拒否し続けています。
ならば、そろそろ道を誤ったと判断するのが妥当だと思うのですが、それでも肝心の作曲家たちは今もなお考えをあらためようとはしません。
できれば、このプロコフィエフみたいに2つの顔を使い分けて、たまには「美しい音楽」を書いてみてもいいと思うのですが、やはり難しいのでしょうか?
ゴーストライターでもいいので、「交響曲第1番」(HIROSHIMA)みたいな「聴衆を喜ばせる音楽」を書いてみようという人はいないのでしょうか。
それで何の問題があるのでしょうか
オーマンディという男は本当に奇をてらわない奴です。
彼が最も配慮するのはオケの響きであって、あとは作品の基本的な形をオーソドックスに造形することに徹しています。これだけ魅力的な響きで、作品のあるがままの姿を提示すれば何の問題があるのでしょうか、と言う呟きが聞こえてきそうです。
シュトラウスの交響詩をまるでミュージカルのように演奏していたスタイルなんかはその典型でしょうか。
そう言う呟きに、全くおっしゃるとおり、何の問題もありませんというスタンスを取れば、彼の演奏のどれをとってもそれほど大きな不満は感じないはずです。
それほどに、彼の演奏と録音の完成度は高いのです。
しかし、そう言う演奏を聴いている狭間に、例えば第二次大戦中のフルトヴェングラーの録音を聞いてしまったりすると、そう言う枠組みの部分だけをキッチリしつらえるだけでは何かが足りないのよね、と思ってしまう人もいるのです。
おそらく両方ともに正しいのだと思います。
そう言えば、シュナーベルが始めてアメリカを訪れて演奏ツアーを行ったときに興行主とトラブルになった話は有名です。
興行主から「あなたは路上で見かける素人、疲れ切った勤め人を楽しませるようなことができないのか」と言われても、「24ある前奏曲の中から適当に8つだけ選んで演奏するなど不可能です」と応じたのは有名なエピソードです。
その結果として、興業は失敗に終わり、興行主から「あなたには状況を理解する能力に欠けている。今後二度と協力することはできない」と言われてしまいます。
24ある前奏曲は確かにそれを最初から最後まで聞き通すのが「芸術」としては正しい姿なのかもしれませんが、時にはその中から幾つかを選んで素敵な時間を提供してほしいと思うのも当然です。疑いもなく、そうやって聞き手に喜びを与えるのもまた芸のうちなのです。
ピアニストでこの芸に徹したのがホロヴィッツでした。猫ほどの知性もないと酷評されても、結果として残った録音を聞けば、そのどれもが光り輝いているのです。
ただ、オーマンディは残念ながら、ホロヴィッツの領域にまで達するこことができなかったようです。(あくまでも私見です。)
おそらく、猫ほどの知性もないという批判を涼しい顔で受け流すのは難しかったのでしょう。(これも、あくまでも私見です。・・・^^;)
この、トレンディドラマで使われてすっかり有名となったラフマニノフの交響曲(第2番)を聞いていて、ふとそんな考えがよぎりました。
もしも、彼がホロヴィッツほどの根性があれば、こんなにも取り澄ましたラフマニノフにはならなかったはずです。プロコフィエフの3つの交響曲もまた同じです。
もっと灰汁の強い表現を追求していれば、その時に何を言われようが、結果として彼の音楽はもっと面白いものになったはずです。
ホロヴィッツが1945年に録音した
プロコフィエフの「戦争ソナタ」を聞けば、この両者の開き直りのレベルが全く違うことがはっきり分かります。
結果として、こういう灰汁の強い部分のある作品に対しては意外なほどに相性が悪いのがオーマンディなんだなと思うようになってきました。その灰汁の部分をシュトラウスのように小綺麗にエンターテイメント化できるときはいいのですが、それができないと驚くほど薄味の音楽になってしまいます。
ただし、聴きやすいことは聞きやすくて、それなりに美しいことには事実ですから、「それで何の問題があるのでしょうか?」と言う呟きは聞こえてきそうです。
<追記>
こうは書いたのですが、しかし、例えばラフマニノフの3番やプロコフィエフの6番のように、音楽そのものが最初からビターなものだと、オーマンディのようにすっきり仕上げてくれるアプローチは悪くはないという感じがします。
ただし、その聞きやすさは元々苦みのある音楽に砂糖を振りかけて口当たりをよくするというのではなくて、すっきりとした苦みに仕立て上げてくれるという性質のものです。いわば、音楽に内在する晦渋さという灰汁をすっきりとした苦みに仕立ててくれているようです。とりわけ、プロコの6番は、始めて最後まで楽しく聞けたような気がします。
そして、その事はこの「古典交響曲」にもあてはまります。元々が「すっきり」としたプロポーションを持っていて、元々がそう言う音楽なのですから、それをすっきりと聞かせてくれて何の問題もないという気にはなります。
意外な感じがするのですが、オーマンディという人は外見とは正反対で、外連味溢れる作品とは帰って相性が悪いのかもしれません。
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