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オーマンディ(Eugene Ormandy)|チャイコフスキー:交響曲第4番 ヘ短調 作品36
チャイコフスキー:交響曲第4番 ヘ短調 作品36
オーマンディ指揮 フィラデルフィア管弦楽団 1957年4月14日録音
Tchaikovsky:Symphony No.4 in F minor, Op.36 [1.Andante sostenuto - Moderato con anima]
Tchaikovsky:Symphony No.4 in F minor, Op.36 [2.Andantino in modo di Canzone]
Tchaikovsky:Symphony No.4 in F minor, Op.36 [3.Scherzo. Pizzicato ostinato.]
Tchaikovsky:Symphony No.4 in F minor, Op.36 [4.]Finale. Allegro con fuoco
絶望と希望の間で揺れ動く切なさ
今さら言うまでもないことですが、チャイコフスキーの交響曲は基本的には私小説です。それ故に、彼の人生における最大のターニングポイントとも言うべき時期に作曲されたこの作品は大きな意味を持っています。
まず一つ目のターニングポイントは、フォン・メック夫人との出会いです。
もう一つは、アントニーナ・イヴァノヴナ・ミリュコーヴァなる女性との不幸きわまる結婚です。
両方ともあまりにも有名なエピソードですから詳しくはふれませんが、この二つの出来事はチャイコフスキーの人生における大きな転換点だったことは注意しておいていいでしょう。
そして、その様なごたごたの中で作曲されたのがこの第4番の交響曲です。(この時期に作曲されたもう一つの大作が「エフゲニー・オネーギン」です)
チャイコフスキーの特徴を一言で言えば、絶望と希望の間で揺れ動く切なさとでも言えましょうか。
この傾向は晩年になるにつれて色濃くなりますが、そのような特徴がはっきりとあらわれてくるのが、このターニングポイントの時期です。初期の作品がどちらかと言えば古典的な形式感を追求する方向が強かったのに対して、この転換点の時期を前後してスラブ的な憂愁が前面にでてくるようになります。そしてその変化が、印象の薄かった初期作品の限界をうち破って、チャイコフスキーらしい独自の世界を生み出していくことにつながります。
チャイコフスキーはいわゆる「五人組」に対して「西欧派」と呼ばれることがあって、両者は対立関係にあったように言われます。しかし、この転換点以降の作品を聞いてみれば、両者は驚くほど共通する点を持っていることに気づかされます。
例えば、第1楽章を特徴づける「運命の動機」は、明らかに合理主義だけでは解決できない、ロシアならではなの響きです。それ故に、これを「宿命の動機」と呼ぶ人もいます。西欧の「運命」は、ロシアでは「宿命」となるのです。
第2楽章のいびつな舞曲、いらだちと焦燥に満ちた第3楽章、そして終末楽章における馬鹿騒ぎ!!
これを同時期のブラームスの交響曲と比べてみれば、チャイコフスキーのたっている地点はブラームスよりは「五人組」の方に近いことは誰でも納得するでしょう。
それから、これはあまりふれられませんが、チャイコフスキーの作品にはロシアの社会状況も色濃く反映しているのではと私は思っています。
1861年の農奴解放令によって西欧化が進むかに思えたロシアは、その後一転して反動化していきます。解放された農奴が都市に流入して労働者へと変わっていく中で、社会主義運動が高まっていったのが反動化の引き金となったようです。
80年代はその様なロシア的不条理が前面に躍り出て、一部の進歩的知識人の幻想を木っ端微塵にうち砕いた時代です。
私がチャイコフスキーの作品から一貫して感じ取る「切なさ」は、その様なロシアと言う民族と国家の有り様を反映しているのではないでしょうか。
残酷な現実
それにしても、オーマンディに対するこの国における評価の低さには驚いてしまいます。
先日も何気に我が町の図書館に行き、そこでいささか暇をもてあましていたので、そこで「クラシック音楽大全」という凄い名前の付いたシリーズものを手に取ってみました。
中味を見てみると、交響曲とか協奏曲とか、それぞれのジャンルごとに一冊ずつをあてがって全7冊、さらには「20世紀を感動させた21世紀への遺産800タイトル」と銘打った「まとめ」みたいなものも含めると全8冊のシリーズです。つまりは、「それぞれのジャンル毎にそのジャンルを代表する作品の名録音を全部を網羅しました!「どうだ、参ったか!!」というシリーズなのです。
さらに、凄いのは、それぞれの録音を選んだ評論家先生の簡単なコメントが全ての録音毎に掲載されているのですが、字数制限もあって仕方がない面はあるかと思うのですが、どれを読んでも似たり寄ったりの言葉が並ぶのです。
「ピアノは深々とした響きで、語り口は穏やか」とか、「個性を明確にした表現で味わいの深さでは他を圧倒している」とか、「スケールの大きな表現とビロードのような肌ざわり」とか、「円熟した表現で、強靱な精神力が感じられる演奏」なんてな感じです。ちなみに、これは1ページ分に収められたリスト作品の録音に対するコメントの締めの部分からピックアップしたものです。
ちなみに、これがシューマンの作品になると「その深く澄んだ低音はまるで鋼のように響き」とか「唯一無二と言えるような存在感を与えている」とか「憧憬溢れる叙情の表出が素晴らしい」とか「緊張感の中に展開する叙情を変幻自在の音色で綴っていく」となるのです。
上手いこと言い換えるものだと感心してしまいますが、私もまた気をつけなければいけません。
閑話休題。
言いたいのはそれではありません。
何気に交響曲の1冊を眺めていると、全くオーマンディの名前が出てこないことに気づいたのです。いくら評価が低いといっても皆無と言うことはないだろう!と思ってどんどんページを繰っていったのですが、何処まで行ってもオーマンディの名前は出てきません。そして、全てのページも終わろうかという最後近くになってやっとシベリウスの2番のところで始めて名前が登場し、さらに最後の最後、チャイコフスキーの5番のところでもう一度名前が登場しました。
まさに、驚くべき認知度の低さです。
ただ、最近になって彼の録音をまとめて聞いてみると、何となく分かるような部分もあります。
確かに、オーマンディを文化の「保守者(キーパー)}と断じた吉田大明神の影響はこの国では大きいでしょう。しかし、オーマンディを愛するがゆえに、「吉田秀和みたいな音楽の分からない奴が・・・」みたいな言い方は全く正しくありません。
吉田秀和を向こうに回して「俺と較べればあいつなんか音楽のことは何も分かっちゃいない」と言えるような人はまずはいないのです。他者の業績はきちんと認知する必要があります。
確かに、オーマンディとフィラデルフィア管が作り出す音楽の平均点は決して低くはないと思います。おまけに、このコンビのレパートリーは非常に広いので、たまには違う音楽を演奏しろよ!と言いたくなるクライバーさんなんかとは真逆の存在です。
これほどの多様性に満ちた音楽をこれほどのクオリティで、外れ無しに演奏できるというのは凄いことです。
しかし、オーマンディがこの世を去り、フィラデルフィア管も凋落の一途を辿ってしまった「今」という時代から彼の業績を振り返れば、どうしてもこのコンビでなければ!とか、是非ともこのコンビでの録音で聞いてみたい!と言えるような録音はほとんど見あたらない事にも気づかされます。
では詰まらないのか?と言えばそうではなくて、今ここで聞いてもらっているであろう一連のチャイコフスキーのように、どれを聞いても美しく鳴り響いているのです。
しかし、基本的にそこでの造形はきわめて真っ当でありスタンダードなのです。
当然の事ながら、スタンダードに徹してここまで聞かせるというのは、例えばアバドなんかもそう言う側面があったのですが、結構大変なことなのです。(何もしていないように見えて、聞き進んでいくうちに胸が熱くなってくる。)
しかし、それはまた、スタンダードなだけでは「時間」という審判をくぐり抜けて生き残っていくのは難しいという「残酷な現実」も見せつけられることになるのです。
そして、それこそがこの世界の一番怖い面でもあるのです。同じ時代に、同じように独裁政治体制を敷いてオケに君臨したオーマンディとセルを較べてみれば、「時間」という審判者をねじ伏せてしまうのに必要なものは何なのかが、透けて見えてくるような気がします。
オーマンディの録音を聞きながら、彼にはなくてセルにあったものは何だろうと言う思いが頭から離れません。そして、その思いを持って吉田秀和の言葉を噛みしめてみれば、それは意外なほどに正鵠を得ていたのかもしれません。注意しなければいけないのは、その言葉はオーマンディに対する一方的な非難の言葉ではなかったと言うことです。
それは、守るべき基本すらも満足に守れない昨今の体たらくを眺めてみれば分かるはずです。
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