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シベリウス:交響曲第7番 ハ長調 Op.105

オーマンディ指揮 フィラデルフィア管弦楽団 1960年5月1日録音


交響曲には内的な動機を結びつける深遠な論理が大切

マーラーとシベリウスは交響曲という形式の最後を飾る両極端な作曲家だと言えます。片方は、まさに後期ロマン派を象徴するような異常なまでに肥大化した音楽を生み出し、他方はこれまた異常なまでに凝縮した音楽を生み出しました。
この二人が出会ったときに話は交響曲という形式のそもそも論にいたり、マーラーは「交響曲は世界のようでなくてはならない」と語り、シベリウスはそれに対して「交響曲には内的な動機を結びつける深遠な論理が大切」だと語ったそうです。
なるほど、マーラーのように何でもかんでも取り込んで肥大化していくことに何の疑問も感じなければ、音楽を生み出すという行為はそれほどの苦痛を生み出さないのかもしれません。しかし、シベリウスのような立場に立つのならば、これは実にしんどい行為だろうなと同情を禁じ得ません。もちろん、マーラーの音楽を単純な足し算だと貶めるつもりはありませんが、しかしシベリウスの音楽には徹底した彫琢が必要だったことは納得がいくでしょう。
そして、こういう方向性の行き着くところは、結局はシェーンベルクやウェーベルンのような新ウィーン楽派のような音楽に向かっていくだろう事は容易に察しがつきます。とりわけ、この第7番の交響曲などはもうこれ以上「凝縮」しようがないほどに凝縮しています。
同じ事は、第4番の交響曲にも言えるかもしれません。とにかく音楽は内へ内へと向かっていき、緊張感の高まりとともに聴くものを息苦しくさえしていきます。形式的には通常の4楽章構成を持ったスタンダードな顔はしているのですが、その凝縮ぶりは7番以上かもしれません。

しかし、シベリウスにとって音楽からメロディやハーモニーが消え去るというのは到底受け入れられない事だったのでしょう。シベリウスという人の本質はフィンランドという土地に根付いた民族性にあることは間違いありませんが、それと同じほどにベートーベンやモーツァルトなどの古典的な均衡に満ちた音楽のあり方も彼にとっては本能のようなものとして存在していたはずです。
例えば、1番、2番で彼の民族性が大きく前面に出たあとには、先祖帰りのようなコンパクトな3番を生み出していますし、それと同じ事が5番と6番においても指摘できます。(そして、その先祖帰りが3番よりは6番の方が上手くいっていることは誰しもが認めるところでしょう)
そんな男にとって、無調の無機的な音楽が受け入れられるはずがありません。

しかし、彼が7番の交響曲を生み出した1920年代という時代は、まさにその様な無調の音楽が一気に広まった時代でもありました。
シェーンベルクの生み出した12音技法の最大の問題点は、そのルールに則っていれば、それほど才能のない人間でも時代の最先端を行く現代的な音楽が「書けてしまう」ところにあったんだと思います。そして、その「利点」に真っ先に気づいたのは、おそらくは才能に恵まれていない若き「作曲家」たちだったのではないでしょうか。問題の核心は「飯が食えるか否か」というせっぱ詰まったものだけに、おそらくはシェーンベルク自身も驚くほどの勢いでこの動きが作曲界全体を蔽ってしまいました。そして、その様な動きをフィンランドの片田舎から絶望的な思いで眺めていたのではないでしょうか。

この第7番の調性は「ハ長調」です!!もちろん、音楽は光と影が燦めき交錯するように様々な調を自由に行き来します。しかし、土台に据えられた礎石のようにハ長調の響きは全曲をしっかりと貫いています。
やはり、シベリウスにとってここが行き着いた先だったのでしょうか。


豊かさと美しさに貫かれたシベリス

オーマンディに対する評価が低い原因の一つは吉田大明神の御託宣が影響しているかもしれません。曰く、セルが録音したエロイカと比較されて、そこに文化のクリエーターとキーパーの違いが如実に表れている・・・と、切って捨てられたのです。
この国のクラシック音楽界における大明神の神通力たるや絶大なものがありますから、この一言は大きな影響力を与えたものと思われます。

しかし、その反面、オーマンディとシベリウスの結びつきに関しては多くの逸話が残っていて、シベリウス自身もオーマンディとフィラデルフィア管による演奏には満足の意を表していたと伝えられています。そして、シベリウスの神通力は世界標準で言えば大明神を凌ぎますから、このシベリウス推薦というブランドはシベリウス存命中は大きなブランド力となったことは事実でしょう。
しかしながら、そのシベリウスもこの世を去ると同時にブランド力が低下しましたから、それと平行して「シベリス推薦」のブランド力も低下せざるを得ませんでした。そこへ、この国では大明神による文化の保守者にしか過ぎないというご託宣があったのですから、たまったものではありません。
さらに言えば、このコンビは4度も来日しているのですが、どういう訳か評論家筋の評価はよくなかったのです。今でも、「音が大きいのだけには驚いた」と皮肉まじりに語られたりしています。

ただ、そう言う辛口の評論家達もこの世を去り、大明神もまた大明神に相応しい世界へと去って逝かれました。
もうぼちぼち、あれこれの言葉に惑わされることなく、虚心坦懐にオーマンディの音楽に耳を傾けてもいい時代かもしれません。

そして、そうやって彼の音楽に耳を傾ければ、彼が求めた音楽の方向性は一点の揺るぎもなく確立していたことに気づかされます。
確かに、長きにわたってこの国でクラシック音楽と言えば、それはドイツ・オーストリア系の価値観に塗り込められたものでした。その中で、誰もが仰ぎ見る存在の象徴がフルトヴェングラーであり、そのベクトルが価値判断の重要な基準となっていたことは事実です。
そして、そんな物差しをオーマンディにあてはめれば、それこそ中味の何もない浅はか極まる音楽としか聞こえなかったことは確かです。

しかし、オーマンディの録音を虚心に聞いてみれば、彼はそんなドイツ・オーストリア系の価値観などは求めていなかったことはすぐに分かるはずです。そこにあるのは、ホロヴィッツがピアノで、そしてハイフェッツがヴァイオリンで求めようとしたものと全く同じ世界であることは容易に聞き取れたはずです。

ホロヴィッツの演奏を「猫ほどの知性もない」と貶して、彼の指は常にユートピアであり続けました。
ハイフェッツの演奏を「奴は13才の頃から少しも進歩していない」と嫌みを言おうが、その音のサーカスは批判のすべtを沈黙させました。

そして、オーマンディが求めたものも明らかにオケによるユートピアであり、ハイフェッツにも匹敵するような音のサーカスであったことは明らかです。

確かに、彼のシベリウスには「ヒンヤリ感」はありません。普通に演奏すれば、シベリウスの音楽というのは響きが薄くなってどこかヒンヤリするものです。
しかし、そのヒンヤリ感はシベリスにとってはそれほどお気に召したものではなかったのかもしれません。
彼は、オーマンディ&フィラデルフィア管が実現してくれたような豊かな響きこそが、本当は望みだったのかもしれません。そう思ってみると、シベリウス推薦のブランドは外向的な社交辞令ではなくて意外と本音だったのかもしれません。

おそらく、これほどオケが豊かに鳴り響き、メロディラインを美しく描き出した演奏はカラヤン盤と双璧かもしれません。しかし、晩年のカラヤン盤にはレガートカラヤンのドーピングが効きすぎていて好きになれない部分があります。それと比べれば、このオーマンディ&フィラデルフィア管の豊かな響きには人間的な暖かみがあります。
とりわけ、シベリウス最後の交響曲となった第7番がこれほど豊かに、そして美しく鳴り響くのを聞いたことはありませんでした。
4番と5番も録音が少し古くてモノラルなのですが、そのどちらもが同じような豊かさと美しさに貫かれています。もしかしたら、これこそがシベリウスが求めた響きだったのかもしれません。

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