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バルビローリ((Sir John Barbirolli)|マーラー:交響曲第9番
マーラー:交響曲第9番
サー・ジョン・バルビローリ指揮 ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 1964年1月10,11,14&18日録音
Mahler:Symphony No.9 [1.Andante comodo]
Mahler:Symphony No.9 [2.Im Tempo eines gemachlichen Landlers. Etwas tappisch und sehr derb]
Mahler:Symphony No.9 [3.Rondo-Burleske: Allegro assai. Sehr trotzig]
Mahler:Symphony No.9 [4.Adagio. Sehr langsam und noch zuruckhaltend]
9番の呪い
「9番の呪い」という言葉があるのかどうかは知りませんが、この数字に異常なまでのこだわりを持ったのがマーラーでした。
彼は偉大な先人たちが交響曲を9番まで作曲して亡くなっていることに非常なおそれを抱いていました。ベートーベン、ブルックナー、ドヴォルザーク、そして数え方によって番号は変わりますが、シューベルトも最後の交響曲は第9番と長く称されてきました。(マーラーの時代に「グレイト」が9番と呼ばれていたかどうかはユング君には不明ですが)
そんなわけで、彼は8番を完成させたあと、次の作品には番号をつけずに「大地の歌」として9番目の交響曲を作曲しました。そして、この「大地の歌」を完成させたあと、9番の作曲にとりかかります。
彼は心のなかでは、今作曲しているのは9番という番号はついているが、実は本当の9番は前作は「大地の歌」であり、これは「9番」と番号はついていても、本当は「10番」なんだと自分に言い聞かせながら作曲活動を続けました。
そして、無事に9番を完成させたあと、この「9番の呪い」から完全に逃れるために引き続き「10番」の作曲活動に取りかかります。
しかし、あれほどまでに9番という番号にこだわり続けたにもかかわらず、持病の心臓病が急に悪化してこの世を去ってしまいます。
結局は、マーラーもまた「9番の呪い」を彩る重要メンバーとして、その名を刻むことになったのはこの上もなく皮肉な話です。
しかし、長く伝えられてきたこの「物語り」にユング君はかねてから疑問を持っていました。
理由は簡単です。
死の観念にとりつかれ、悶々としている人間がかくも活発な創造活動を展開できるでしょうか?
ユング君のような凡人にとってはとても創造もできない精神力です。
この第9番の交響曲は、このような逸話もあってか、ながく「死の影」を落とした作品だと考えられ、そのような解釈に基づく演奏が一般的でした。
しかし、「死の影におびえるマーラー」というのが常識の嘘であり、彼の死も、活発に創造活動に取り組んでいる最中での全く予期しない突然のものだったとすれば、この曲の解釈もずいぶんと変わってきます。
果たして、最後の数十小節をかくもピアニシモで演奏をしていいものでしょうか。疑問に感じながらも、常識にしたがったMIDIを作成してしまう、小市民のユング君であります。
マーラー:交響曲第9番を聞き比べてみれば
今から10年以上も前に書いた文章なのでかなり荒っぽい部分もあります。しかし、バルビローリに対する感想は基本的に今も変わっていませんので、そのまま再利用します(^^;。
- レナード・バーンスタイン指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団 85年録音
- クラウス・テンシュテット指揮 ロンドンフィルハーモニー管弦楽団 1979年録音
- サー・ジョン・バルビローリ指揮 ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 1964年録音
- カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 シカゴ交響楽団 1976年録音
- ジョージ・セル指揮 クリーブランド管弦楽団 1969年録音
- ミヒャエル・ギーレン指揮 南西ドイツ放送管弦楽団 1990年録音
とりあえず、6枚のCDを選びましたが、これは2枚ずつの3組に分かれます。バーンスタイン・テンシュテット組、バルビローリ・ジュリーニ組、そしてセル・ギーレン組です。
9番という交響曲は、ある意味では行き止まりです。
交響曲という概念を「第1楽章にソナタ形式をもった、一般的には4楽章構成からなる比較的規模の大きい管弦楽曲」と定義すれば、この交響曲はピッタリとあてはまるのですが、その雰囲気は古典派の交響曲とはまったく異なっています。
とにかく複雑です。それはいろんな意味で複雑です。
たとえば、ソナタ形式というスタイル一つをとりあげても、ここで展開されるソナタ形式は複雑怪奇で難解の極みです。
調性もまたしかりです。
よく言われるように、これは調性を持った音楽の極限まできています。
しかし、この辺の専門的なことは、実は私はよく分からないので、これ以上は書きません。(書けません、だな、正確には)
問題は、その複雑さをいかに指揮者が料理しているかです。
まずは、その複雑さに、人間にとって、最も「不可解」で「不条理」な「死」というもの見いだすタイプ。
指揮者と作曲家の波長が完全にあって、まさに指揮者が我が事のように情念を燃え上がらせ、たたきつける演奏を展開します。言うまでもなく、バーンスタイン組です。
次は、その複雑さを徹底的に分析して、複雑でなくしてしまうタイプ。
どれほど混沌とした現実であっても、そこに科学の光をあてて分析につとめれば、根底に潜む真理は常にシンプルなんだよ、と煙草をくゆらす、セル・ギーレン組。
そして、最後は、とにかく職人技で聞けるように料理しちゃうと言うバルビローリ組。
その料理法でなぜ美味しく食べられるのかはよく分かんないが、とにかく経験的に料理法だけはよく知っている腕利きのシェフ。
こう書くと、なんだかバルビローリやジュリーニを馬鹿にしているように聞こえるかもしれませんが、それはとんでもない誤解であり、間違いです。
昔から、「下手な考え休むに似たり」といいます。体にしみ込んだ芸で、かくも複雑で巨大な交響曲を一流の料理に仕上げてしまうというのは、並大抵の事ではありません。
今の時代に最も欠けているのはこのような優れた芸を持った指揮者です。
今はあまりにも「口ほどでない」人が多すぎます。(閑話休題)
実際、今回この駄文をつづるために、手持ちのCDを聞き直してみた(こう書くと簡単ですが、これを実行するのはかなり大変です。)のですが、10種類程度のCD(この6枚以外に、ワルター、クレンペラー、ガリティーニ、ブーレーズなど)の中で一番気に入ったのはバルビローリ盤でした。
ただ、その理由はよく分かっています。
マーラーの9番を10枚前後も続けて聞くという、普通では考えられない(^^;;、異常な体験の中では、とにかく安心して聞けるという特徴は、ポイントが非常に高くなります。
バーンスタインのような演奏は、こういう状況下では、いささかうんざりさせられるというのも事実です。
優れた美点は感じつつも、あれこれとあらが目立つものはポイントが低くなりがちのようです。
例えば、ワルターの晩年のスタジオ録音は響きが薄すぎますし、クレンペラーの演奏は頑固にすぎてちょっと疳に障ります。ブーレーズの演奏は一部では評価が高いようですが、まるでセルのコピーです。
つまり、長所、美点よりは短所ばかりが目について、いつしか減点法のスタンスになっていることに気づきます。このあたりに、評論という仕事の難しさがあるのかもしれません。
しかし、このようにある程度をまとめて聞いてみる事によって全体像を俯瞰できるというのも事実で、それはそれで、得難い経験ではありました。
そんなわけで、以上のようなバイアス、もしくはフィルターがかかっていると言うことを知っていただいた上で、それぞれのコメントを書いていきたいと思います。
まずは、バーンスタイン盤ですが、情念むき出し派の筆頭格であることは間違いありません。
これほどまでに思いの丈をぶちまけた、痛切極まりない演奏はそうあるものではありません。そのかわりに、音を磨いたり、細部を整えると言うことはほとんどしていません。おそらくバーンスタインはそんなことにはまったく興味もなければ、意味も見いだしていないと思います。
アルバン・ベルクがこの9番の交響曲についてつづった有名な文章があります。
「この楽章全体は(注;第1楽章をさしています)死の予感を根底としています。この予感は絶えずくりかえし、その姿をあらわします。・・・そして、最も深い、しかし、最も苦痛に満ちた生の快楽の真っ最中に、死が最高の力を持って自己の登場を知らせるのです。
身の毛のよだつようなヴァイオリンとヴィオラのソロ、そして騎士的な響き、それは甲冑に身を固めた死なのです。」
この時代がかった大仰な物言いがそのまま音となり音楽となったのが、このバーンスタインの演奏だと思えば間違いがないでしょう。
次にテンシュテットですが、世間的にはあまり評価の高くない演奏です。
彼のマーラー演奏は今や一つの定番となっていますが、9番は評価されることが少ないようです。しかし、今回聞き直してみて、そんなに無視されるほどの駄演とは思いませんでした。
基本的にはバーンスタイン組に入る演奏だとは思うのですが、異なる点は細部への気配りはしっかりとされていることです。それが美点と感じる人はこの演奏に高い点数をつけるでしょうが、そういう細部への気配りが逆に音楽全体の推進力を殺いでいることも事実で、その点がテンシュテットらしくないというのも事実です。
特に後年の一連のライブ録音を聞いた耳からすれば、確かに物足りなさは感じるでしょうが、それは一連のライブ録音が凄すぎるのであって、これだけを単独で聞けば十分に評価に値する優れた演奏です。
ただ、録音のバランスが変なのが残念です。
いわゆる中音域の下の方(オーディオ初心者が重低音と間違う帯域)が妙に膨らんでいてボンボンと変な音がします。ラジカセあたりで聞けばちょうどバランスがとれるような録音で、EMIのプロデューサーを識見を疑うような出来です。
ついでながら言っておくと、このあたりのEMIの録音は殆ど変です。もごもごと中央部に音が固まった冴えない音質のCDが目に付きます。テンシュテットの録音で言うと、ナイジェル・ケネディといれた一連のコンチェルトの録音が典型で、まったく持ってひどいものです。
この二人組と対極にあるのが、セルとギーレンの演奏です。
ただ、セルの録音は、クリーブランド管弦楽団がセルの生誕100年を記念して作成した自主制作盤なので、今後入手するのは殆ど不可能だと思います。(この手のCDが中古市場にでることは滅多にない、いや絶対にないと言っていいほどの確率です。)
ただ、昨年海賊盤で、別テイクと思われる9番のCDが発売されました。これなら入手可能かもしれません。このコーナーでは、そういう入手困難なCDは避けるようにしているのですが、まあセルを心から敬愛している私なので、その辺はご容赦ください。
まずは、ギーレン盤です。一言で言えば、極限まで力感を押さえて、響きの純度を追求した演奏だといえます。こういうオケの鳴らし方はどこかで聞いたような気がするな、と記憶をたどれば、「チェリビダッケ」。
私の記憶では、シューマンの4番やブルックナーの8番で、このような力感を排したガラス細工のような繊細な音の鳴らし方をしていたような気がします。この両者、考えてみればご近所同士ですから、以外と地下水脈がつながっているのかもしれません。
とにかくオケをパワフルに鳴らして情念をぶつけまくるバーンスタインの演奏とは驚くほどに正反対の演奏です。これ以上鳴らすと音が濁り、割れると言う限界のところでストップをかけています。
そして、そのような自制の中で作りされる純粋で繊細きわまりない音色を駆使して、マーラーがスコアに書き込んだ微妙なニュアンスを表現し尽くしています。
そして、そこに展開する世界は、まさに白昼夢です。
これと比べれば、セルの演奏はもう少し実体感があります。誰かがセルの演奏を評して「白昼夢」と語っていましたが、ギーレンの演奏を聴いてしまうと、はるかにボディー感があります。
陽炎のようなギーレン盤と比べれば、ある種のしっかりした手触りを感じ取ることができます。
言葉は悪いですが、「いかがわしさ」ではギーレンの演奏は群をぬいています。
そして、これら両組と比べれば、バルビローリやジュリーニの演奏は、なんと安心感の漂う演奏でしょう。
もちろん、こういう言い方は反面で否定的な側面を持つことも事実ですが、決して安全運転の無難な演奏で終わっているわけではありません。実に曖昧な言い方で申し訳ないのですが、押さえるべき所はきっちりと押さえているので、誰が食してもそんなに不満もでず、十分以上に満足を与えてくれる演奏であることは事実です。
しかし、万人に受け入れられると言うことは、それに入れ込む人もいないと言うことの裏返しではありますが、それがスタンダードというものの宿命でしょう。そして、今日のマーラー演奏の傾向を見てみると、大勢は分析派で、一部に情念ぶっちゃけ派が存在しますが、こういう偉大なマイスターが姿を消しつつあるのはとても残念なことです。
昨年、イギリスのグラモフォン誌が、20世紀を様々な形で総括していましたが、その中に、20世紀を代表する指揮者というのがありました。そこでは、なんとバルビローリが、フルトベングラーやトスカニーニ、そしてクレンペラーなども押しのけて、堂々の2位に君臨していました。
確かにこのようなイギリスの国粋主義も大したものですが、このマーラーの演奏を聞くと、日本での彼の評価はあまりにも低すぎるのかもしれません。
まあ、そんなところですが、私は一枚だけ残せと言われれば、おそらくはバルビローリの一枚を残します。
まあ、お友達になるなら、ほとんどの人がバルビローリ・ジュリーニ組を選ぶでしょうね。後の二組はいろんな意味で怖すぎます。
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