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ショルティ(Georg Solti) |ワーグナー;神々の黄昏 プロローグ(Wagner:Gotterdammerung Prologue )
ワーグナー;神々の黄昏 プロローグ(Wagner:Gotterdammerung Prologue )
ゲオルグ・ショルティ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 (S)ビルギット・ニルソン (T)ヴォルフガング・ヴィントガッセン他 ウィーン国立歌劇場合唱団 1964年5月、6月、10月、11月録音(Georg Solti:The Vienna Philharmonic Orchestra(S)Birgit Nilsson (T)Wolfgang Windgassen April May October November, 1964) Wagner:Gotterdammerung Prologue [1."Welch Licht leuchtet dort?" (3 Nornen)]
Wagner:Gotterdammerung Prologue [2."Treu beratner Vertrage Runen" (Zweite Norn)]
Wagner:Gotterdammerung Prologue [3."Es ragt die Burg, von Riesen gebaut" (3 Nornen)]
Wagner:Gotterdammerung Prologue [4."Zu neuen Taten, teurer Helde" (Brunnhilde, Siegfried)]
Wagner:Gotterdammerung Prologue [5."Willst du mir Minne schenken" (Brunnhilde, Siegfried)]
Wagner:Gotterdammerung Prologue [6."O heilige Gotter! Hehre Geschlechter!" (Brunnhilde, Siegfried)]
Wagner:Gotterdammerung Prologue [7.Siegfried's Rhine Journey]
楽劇「神々の黄昏」のプロローグ
「指輪4部作」を通して聞くというのは大変な精神力と体力が必要です。
もしも、そんなことを1000日間続けることができれば、「千日回峰行」のように「クラシック音楽の阿闍梨」と呼ばれるかもしれません。
その4部作の中で最も長大(4時間20分)にして重厚なのが「神々の黄昏」です。これ一つだけでも通して聞こうと思えばかなりの根性が必要でしょう。
わたしもまた、この楽劇を通して聞いたのは1回だけです。
そして、その一回というのは、若き頃に一念発起して、「指輪4部作を通して聞くという偉業」にチャレンジした時のことだけです。
ただし、「神々の黄昏」にたどり着いたときはすでにロヘロになっていて、果たして「聞いた」と言えるかどうかは自信がありません。
大部分の人は一日に一幕ずつという感じで分けて聞くことになることが多いでしょう。
ということで、「プロローグ」「第1幕」「第2幕」「第3幕」と分けて紹介していきたいと思います。
まずはプロローグです。
プロローグは、物語の核心を象徴する重要な場面です。
大きく分けて「ノルンたちの場面」と「夜明け~ブリュンヒルデとジークフリートの二重唱」の2つの部分で構成されていて、過去・現在・未来を織り交ぜながら物語の破滅的な結末を予感させる内容となっています。
ノルンたちの場面
重厚なオーケストラによる導入で、運命の不穏な雰囲気が描かれます。やがて、運命の女神の三姉妹、ノルンたちの声楽が加わります。
ノルンたちは、世界を巡る運命の糸を紡ぎながら、過去、現在、そして未来の出来事について語り合います。
第一のノルンは地上にある大きなトウヒの木(世界樹)の根元に座り、過去に起こったことを語ります。
第二のノルンは岩山の上に座り、世界樹の幹にロープをかけて、過去の出来事について第一のノルンに問います。
ヴォータンが世界樹のトウヒの木から槍の柄を切り出したことや、世界樹が枯れてしまったことなど、「指環」全体の物語の始まりを振り返ります。
第三のノルンは岩山の頂上に座り、未来の出来事を予言します。
ヴォータンがワルハラを取り囲む世界樹の燃えかすの薪を積み上げ、世界に終末が訪れる日を待っていることを告げます。
運命のロープが突然切れ、ノルンたちは恐怖に駆られて母親のエールダがいる地下へと姿を消します。これは、もはや運命がコントロールできない状態に陥ったことを象徴しています。
夜明け~ブリュンヒルデとジークフリートの二重唱
夜明けを告げる輝かしいオーケストラの響きから始まり、ジークフリートの英雄的な動機が鳴り響きます。
夜明けとともに、ブリュンヒルデとジークフリートは愛を讃えあいます。
ジークフリートは、自分の冒険の旅に出ることをブリュンヒルデに告げ、彼女の父ヴォータンから授かった指環を愛の証としてブリュンヒルデに贈ります。
ブリュンヒルデは、愛するジークフリートの旅立ちを見送るために、愛馬グラーネを彼に託します。
二人は永遠の愛を誓い、ジークフリートは勇壮な「ラインの旅」の音楽に乗って旅立っていきます。しかし、この音楽の中にも、破滅を予感させる不穏な響きが潜んでいます。
プロローグ全体を通して、過去の回想、現在の愛の誓い、そして未来の破滅の予言が複雑に交錯し、物語全体の壮大なスケールと悲劇性を暗示しています。
ブリュンヒルデとジークフリートの愛は輝かしい光を放ちますが、それを打ち砕くかのように、ノルンたちが象徴する運命の歯車が狂い始めていることが示されます。
また、「ラインの黄金」から始まる長い物語の結末を予告するとともに、これまでの登場人物や出来事の動機を再確認させる役割を果たしています。
このプロローグを経て、物語は悲劇的な本編へと突入していきます。
最後に一言。
意を決して「神々の黄昏」をアップしようと決めて久しぶりに聞き直してみました。
聞いてみれば至るところに聴いたことのある旋律、いわゆる「ライトモティーフ(示導動機)」に出くわすので、意外と心安らかに聞き通すことが出来ました。
なるほど「ライトモティーフ」とは大したものだと感心した次第です。
20世紀の録音史に燦然と輝く金字塔
ショルティ指揮 ウィーンフィル 1964年録音
出演者
(S)ブリュンヒルデ:ビルギット・ニルソン
(T)ジークフリート):ヴォルフガング・ヴィントガッセン
(Br)アルベリヒ:グスタフ・ナイトリンガー
(Bs)ハーゲン:ゴットロープ・フリック
(S)グートルーネ:クレア・ワトソン
(Br)グンター:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ
(MS)ヴァルトラウテ:クリスタ・ルートヴィヒ
(S)ヴォークリンデ:ルチア・ポップ
(S)ウェルグンテ:ギネス・ジョーンズ
(A)フロースヒルデ:モーリーン・ガイ
(A)第1のノルン:ヘレン・ワッツ
(MS)第2のノルン:グレース・ホフマン
(S)第3のノルン:アニタ・ヴェルキ
率直に言えば、ワーグナーの楽劇はどうにも取っつきが悪いのです。それが、「ニーベルングの指輪」ともなれば、そのボリュームだけで圧倒されて聞く前からへこたれてしまいます。
自慢ではないですが、この長大な4部作を、とりあえずは最初から最後まで一気に通して聞いたのは、私の人生では「1回」しかありません。それも、ショルティやカラヤン等という名の通った録音ではなくて、グスタフ・クーンが率いるチロル音楽祭でのライブ録音をまとめたものです。
なぜに聞き通せたのかと言えば理由は簡単、速めのテンポで実にすっきりと指輪の世界を描き出していて「胃もたれゼロ」だったからです。
ビジュアルが欠落している「音楽」だけでこのような大作を聞き通すのは並大抵のことではありません。
ですから、世評の高いショルティやカラヤンなどは、その欠落を埋めるためにオケを雄弁に物語らせて、まるで眼前に舞台が見えるかのように演奏してくれます。
しかし、それは「一度は生の舞台を見たことがある人」にとっては有効であっても、そんな機会に恵まれない多くの人にとっては逆に「胃もたれ」を引き起こしかねません。
いや、私は確実にもたれます。
だから、言い訳をするわけではないのですが、このショルティの録音も「一幕だけ」みたいな聴き方をすることが多くて、結局はこの長大な4部作をショルティの録音で一気に聞き通したことは一度もないのです。
その点、クーンの録音は音楽祭の舞台をそのまま切り取ったものなので、変な小細工がないので逆に聞きやすいのです。
さらに言えば、クーンの演奏で指輪を聞き通すと、この4部作からなる楽劇がまるで4楽章構成の巨大なシンフォニーであるかのような統一感に貫かれていることにも気づかされます。そんなような話は「知識」としては頭の中には入っているのですが、それを実感として感じ取らせてくれるクーンの演奏は「ただ者」ではありません。
確かに歌手陣に関しては明らかに力不足を感じる面は多々ありますから、決して理想的な指輪でないことは事実です。しかし、このとてつもなく巨大な作品にはじめて向きあうには好適な録音だと思います。
とは言え、そのあたりを入り口として何とか「指輪」と向きあうことができれば、やはり一度は正面からしっかりと向きあいたいのがショルティの録音です。
このショルティのと言うべきか、カルショーのと言うべきかは迷いますが、まさにこの録音こそはクラシック音楽の録音史に燦然と輝く金字塔です。
そして、「ショルティのと言うべきか、カルショーのと言うべきか」などと言う物言いはいささかショルティに失礼かも知れないのですが、そこにこそ、この録音の持つ大きな意義があります。
よく知られていることですが、この「ニーベルングの指輪」ははじめはクナッパーツブッシュで録音される予定でした。
フルトヴェングラーもクラウスも鬼籍に入ったあとではクナッパーツブッシュこそが最高のワーグナー指揮者でしたから、この記念碑的な録音を任せる指揮者としては当然の選択でした。
しかし、カルショーはデッカの経営陣を説得して、当時46歳の若手指揮者だったショルティにチェンジさせます。
この時カルショーはわずか34歳だったのですから、この大事業を任されるだけでも大変なことでした。
ところが、さらに己の理想を実現するために社長に直談判して、指揮者を偉大なるマエストロから駆け出しの若手にを変更させたのですから驚かされます。
クラシック音楽などと言うものが持つ「芸術的価値」などにはほとんど興味のなかったデッカの経営陣がよく認めたものだと思うのですが、考えようによっては、そう言う「価値」には無頓着であったがゆえにクビを縦に振ったのかも知れません。
そして、当時のレコード会社というものは、昨今のように単年度でチマチマと「これだけの利益は出せ!」なんてな事をやっているなかったのも幸いでした。
カルショーは「クラシック音楽というのもは短期的には大きな利益は生み出さないけれども、一度成功すれば長きにわたって安定した利益を会社にもたらす」と言うことを何度も繰り返し主張し、その主張が通る時代だったのです。
では、なぜにカルショーは指揮者をクナからショルティに変えたのでしょう。
そこには、この時代の指揮者という存在の大きさが重要なファクターとして存在します。
そう、この時代の指揮者というのはとっても偉かったのです。今のように、オケの前に立って「振らせていただきます」みたいな腰の低い指揮者などは存在しなかったのです。それが、トスカニーニやフルトヴェングラーやクナのようなマエストロクラスになると、それはそれは、神のごとき存在だったのです。
若手の指揮者を相手にしたリハーサルでチンタラチンタラ演奏してたベルリンフィルが、突然本番のように気合いを入れて演奏し始めたので、何事が起こったのかと驚いた人がホールを見回すと入り口にフルトヴェングラーが立っていた、というのは有名なエピソードです。
つまりは、それくらい「偉かった」のです。
ですから、もしもカルショーが指揮者としてクナッパーツブッシュを押しつけられたのなら、それは疑いもなくクナッパーツブッシュの指輪になってしまいます。もちろん、それはそれで素晴らしい演奏になったでしょうが(彼には、ワルキューレの一幕だけと言う変則的な録音がありますが、それはそれは素晴らしい演奏でした)、カルショーが理想と考えるワーグナーにならないことは誰が考えても分かります。
カルショーが理想としたワーグナーは、ワーグナーがスコアに書いてあることをもっとも理想的な形で完璧に再現することでした。そこには、劇場的な効果やマエストロの思い入れ、さらに言えば霊感も不要でした。それは、言葉をかえれば、戦後のクラシック音楽界を席巻した新即物主義という思潮の一つの到達点を打ち立てようとするものでした。そして、何よりも、クナッパーツブッシュを指輪の全曲録音を完成させるのに必要な時間だけスタジオで拘束することなどは不可能であり、もしも強引にクナッパーツブッシュで録音を開始したとしても早い時期でその計画は頓挫していたことでしょう。
ですから、カルショーにとって必要だったのは偉大ではあっても我の強い我が儘なマエストロではなく、能力もあって誠実で、かつ忍耐強いパートナーとしての指揮者だったのです。
その点で言えば、彼がショルティに白羽の矢を立てたのは慧眼でした。
ショルティという人は基本的に努力の人でした。
彼は朝早く起き出して自分の手で珈琲を入れ、その二杯目からスコアを広げて勉強するという生活を終生貫き通した人でした。もちろん、彼らは常に関係が良好だったわけではなく、時には激しくぶつかることもあったようですが、それでもショルティは常に誠実であり、粘り強くこの困難な作業に取り組みました。そして、カルショー自身が「時間をかけて、音楽的にも技術的にも懸命に練り上げた」と語ったような「献身」はクナのようなタイプのマエストロには期待できないことでした。
その意味で、この録音は決してカルショーのものだけでなく、ショルティのものでもあったのです。
特に、この国におけるショルティの評価は不当と思えるほどに低く、それ故に、この録音におけるショルティの役割をおとしめる評価も散見するのですが、それは絶対に間違っています。
疑いもなく、この録音はショルティであったからこそ実現し得たものであることを忘れてはいけません。
この録音は、いろいろな意味で画期的なものでした。
そして、数ある功績の中での最大のものは、録音という行為が単なるコンサートの代替物ではなく、コンサートと同じような価値のある新しい芸術のジャンルになりうることを証明したことでした。
このような完璧なポロポーションをもった指輪の演奏を実際の舞台で再現することは絶対に不可能です。
それは、生の舞台がもっている人間くささみたいなものをきれいさっぱり捨象した上に成り立つ人工的な「美」であり、そのような「美」がこの世の中に存在することを誰の目(耳?)にも分かるようにはっきりと示してくれたのです。
おそらく、クラシック音楽の録音の歴史は、この「ニーベルングの指輪」以前と以後に二分されるのだろうと思います。そして、新即物主義という思潮は、まさにこの「録音」と言う行為において、その真の居場所を得たのではないでしょうか。
話は飛躍しますが、グールドがコンサート活動からドロップアウトするのも、このような流れとは無縁ではなかったと思います。
しかし、このコンビによって提供された「美」はある種の絶対性を要求するようになることは容易に察しがつきます。そして、その「絶対性」の要求は、やがては短いパーツの継ぎ合わせによって作り上げられる「整形美人」の横行によって新たな問題に直面するようになるのですが、それは次の話です。
私たちは、このカルショーとショルティのコンビによって、今まで誰も聞いたことがなかった新しいワーグナーの姿を提供されました。それは、偉大なマエストロたちが提供してくれたワーグナーとは全く次元の違う衝撃的なまでに新しいワーグナー像でした。そして、時代はこの新しいワーグナー像をスタンダードなものとして採用するようになり、やがては現実の舞台もこれを模倣するようになっていくのです。
まさに、「20世紀の録音史に燦然と輝く金字塔」という名に恥じない歴史的録音です。
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