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バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第2番より「シャコンヌ」

(Vn)ヴァーシャ・プシホダ 1949年録音



J.S.Bach:Violin Partita No.2 in D minor, BWV 1004 [5.Chaconne]


ブゾーニのシャコンヌについて


ピアノにおけるヴィルトゥオーゾは1831年にリストがパガニーニを聞いたところから始まるのでしょうね。この時、若きリストは「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだらしいのですが、まさにここからピアノ音楽における「鬼子」とも言うべき超絶技巧曲の系譜が始まりました。
この音楽の特徴は記録の更新を目指すエリートスポーツの世界と似通っています。
陸上競技の選手が100分の1秒の短縮を目指してしのぎを削るように、超絶技巧曲の世界も「それは弾けんやろう!」と思われるような高みを目指してしのぎを削ります。ですから、そこには、クラシック音楽の十八番とも言うべき「精神性」などというものが入り込む余地は全くありません。超絶技巧曲というのは、そう言う「精神性」などと言う不純物は一切排除し、余人には想像も出来ないような超絶技巧の高みを目指して徹底的に純化された作品群なのです。

リストが活躍した19世紀はそのような超絶技巧がもてはやされ、聴衆もその様な名人芸の披露に拍手喝采をおくった時代でした。
ところが、どういう訳か、20世紀に入ると雲行きが怪しくなっていきます。
20世紀のクラシック音楽の世界ではそのようなシンプルな名人芸ではなくて、何だかよく分からない「精神性」が大手を振って闊歩するようになっていくからです。
そうなると19世紀に大量生産された超絶技巧曲達は身の置き所がなくなっていきます。
なにしろ、「精神性」などというものは名人芸を披露する上での不純物だとして、そんなものは徹底的に排除するという方向性の上で成り立っている音楽なのですから、それは困ったことになるでしょう。
やがて彼らは、内容空疎な技巧のためだけの音楽としてB級音楽のレッテルを貼られ、その大部分は歴史の闇の中へと消えていくことになります。


事情はリストの作品においても同様で、19世紀の聴衆をあれほども熱狂させたにもかかわらず、20世紀にはいるとその評価は急激に下がっていきました。
それは録音を見てみればすぐに分かることで、1920年代ぐらいまでは19世紀の生き残りとも言うべきピアニスト達が取り上げていましたが、それ以後は探し出すことすら困難なほどになってしまいます。
私のサイトにリストのピアノ音楽がほとんどアップされていないのを見て、私がショパンを過大評価し、リストを過小評価しすぎていると批判する人がいるのですが、実はどう評価しようと、アップすべき音源が基本的に少ないという事実があるのです。

さて、前振りが長くなってしまいましたが、このブゾーニ編曲のシャコンヌは、その様な19世紀的な超絶技巧曲の系譜に入る音楽です。さらに絞り込めば、編曲系の超絶技巧曲という範疇に入ります。

この編曲系の超絶技巧曲とは、世間でそれなりに人気のある曲をもとに編曲することで、普段よく聞いている音楽がスンゴイ名人芸でこんなにも凄くなるんだ!とぶちかますのです。そして、この時に取り上げられる機会が一番多かったのが有名なオペラのアリアでした。まあ、どう考えても一番の売れ筋です。

ところが、ブゾーニはそんな中で、バッハ作品を取り上げることが多かったという珍しいヴィルトゥオーゾでした。そして、19世紀には数多く生産されたそのような編曲系の超絶技巧曲は20世紀にはいると大部分が闇の中に忘却されていくなかで、不思議なことにブゾーニが編曲したバッハ作品は今でも結構よく取り上げられています。
とりわけ、このシャコンヌは一連の超絶技巧系の編曲ものの中ではもっともよく取り上げられる作品ではないでしょうか。

おそらくその背景にはバッハの壊れにくさがあるのでしょう。
バッハの音楽というのは、どの様にいじられてもバッハであることを止めません。それは、あまりにも壊れやすいモーツァルトの対極にある音楽だと言えます。
ブゾーニの編曲によるシャコンヌも、聞いてみると随分といじくり回しています。何よりも、音符の数が多すぎて、ヴァイオリン一挺で宇宙を描いたと言われる原曲とは随分とテイストが異なります。しかし、そう言う違和感を覚えつつ、さらにはその名人芸に感心しつつ(^^;聴き進んでいくと、やはりバッハの世界が立ち上ってきます。
おそらく、それ故に、この作品は凡百の編曲系超絶技巧曲の中で今も生き残ることができたのでしょう。

シャコンヌについて


シャコンヌとは、「上声は変わっていくのに、バスだけは同じ楽句に固執し執拗に反復するものである」と説明されています。上声部がどんなに変奏を展開しても、低声部で執拗に繰り返される主題が音楽全体の雰囲気を規定します。
しかし、その低声部での主題を聞き手が意識することはほとんどありません。冒頭にその主題が提示されますが、その後は展開される変奏の和声の最低音として姿をくらましてしまうからです。

ところが、姿をくらましても、それが和声進行のパターンを根底で支配するのですから作品全体に与える影響力は絶大であり絶対的です。
聞き手には移り変わっていく上声部のメロディラインしか意識には残らないでしょうが、執拗に繰り返される低声部の主題が音楽の支配権を握っています。

ですから、聞き手にはこの低声部の主題がそれとは明確に意識できない代物であっても、演奏する側はそのことを明確に意識して演奏する必要があります。
つまりは、スコアに書いてある音符をそれなりに音にするだけでは音楽にはならないのです。
そのことは、何もこの作品に限ったことではありませんが、シャコンヌはとりわけ演奏者サイドにその手の難しさを要求するようです。


ただの「芸人」で終わりたくないという思いが強かったのでしょうか

私の手もとにはプシホダが録音したバッハの音源が3つあります。録音年代順に並べると以下の通りになります。

  1. J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第2番より「シャコンヌ」
    (Vn)ヴァーシャ・プシホダ 1949年録音

  2. J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第3番 ハ長調 BWV1005より「アダージョ」「フーガ」
    (Vn)ヴァーシャ・プシホダ 1953年録音

  3. J.S.バッハ:2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調 BWV 1043
    (Vn)ヴァーシャ・プシホダ&フランコ・ノヴェロ:エンニオ・ジェレッリ指揮 RAIトリノ交響楽団 1957年録音


プシホダの芸風を考えれば、どう贔屓目に見ても上手くいくとは思えないのですが、それでも彼はただの「芸人」で終わりたくないという思いが強かったようです。気楽な他人の目から見れば「芸人」の何処が悪いのかと思いますし、自分で自分のことを「アーティスト」などと恥ずかしげもなく言う「芸術家」よりははるかに尊敬に値すると思うのですが、プシホダの胸中には何か渦巻くものがあったのでしょう。

そう言えば、ホロヴィッツという人は最後の最後まで「芸人」でした。それ故に、著名な評論家(ショーンバーグだったでしょうか?)から「猫ほどの知性もない」とこき下ろされても、「蛙の面に小便」とばかりに受け流していました。
しかし、プシホダにはそれが出来なかったのでしょう。
1950年の前後から、ドヴォルザークやチャイコフスキー、パガニーニなどの「周辺部」の音楽(この「周辺部」というのも失礼な言い方ではあるのですが・・・)だけでなく、バッハやモーツァルトの作品も取り上げはじめます。

しかし、その結果として出来上がってくるものは、何と形容していいのか分からないほどに「面白い」ものになってしまっていました。
その典型が、49年に録音したバッハの「シャコンヌ」でした。
バッハは本質的にポリフォニーの人でした。ですから、ピアノのように縦の和音を響かせることに向いた楽器で演奏するのは困難を極めます。ですから、昔はブゾーニのように、横に流れる音楽をもう一度縦に積み直し変えて、まるでロマン派のピアノ小品のように仕立て直してから演奏したものでした。

そして、ここでのプシホダの「シャコンヌ」も、バッハの「シャコンヌ」を演奏したと言うよりは、ブゾーニがピアノ用に編曲したものをもう一度ヴァイオリンで演奏したような雰囲気になっているのです。そこからは、ポリフォニックな音楽の構造を見いだすことはほとんど不可能であり、まるでロマン派小品のようなホモフォニックな響きが前面に出ているのです。
ところが、プシホダらしい「妖艶」な響きでそんな風に演奏されてしまうと、聞き手にとってはそれはそれで実に面白いので困ってしまうです。

しかしながら、時代はますますそう言う「芸人」的な音楽よりは、原典に忠実な即物的な演奏が主流になりつつありました。つまりが、いくらプシホダがバッハの作品を取り上げても、こんな「面白い」演奏をしていたのでは「芸人」から抜け出せなかったのです。
おそらく、そのあたりの「もがき」が、「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第3番」の「アダージョ」と「フーガ」だけという中途半端な録音にもあらわれているのかもしれません。そこでも、「シャコンヌ」ほどにはあからさまではないにしても、ポリフォニックなバッハの姿は見えてきません。
しかし、これもまた聞き手にとっては十分に面白いのです。

そして、問題は1957年に録音した最後の「2つのヴァイオリンのための協奏曲」です。そこでは「芸人」の姿を完全に封印しているが為に、その音楽は完全にひからびてしまっています。それはもう「芸人」ではないのですが、「芸術家」からもほど遠い可哀想な姿しか残っていないのです。
そして、その哀れな姿を、多くの人はそれをプシホダの急激な「衰え」と見て、「そこには生気を失って形骸だけをとどめている老残のプシホダの姿」しかないというのです。
確かに、その昔の潤いに満ちた響きを失ったプシホダの演奏には隠しようもない「衰え」があったことは事実でしょうが、私にはもがきにもがいた末に溺れてしまったようにしか見えないのです。
そして、トスカニーニが若き時代のプシホダの演奏に接して「現在のパガニーニ」と評した背景には、彼は一流の「芸人」にはなれても「芸術家」にはなれないことも見抜いていたように思えてならないのです。

そう考えればホロヴィッツは偉いものだと思うのですが、それでも1953年から1965年まで、10年以上も演奏活動から遠のいたことがあるのです。

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