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カール・ライスター(Karl Leister)|ブラームス:クラリネット五重奏曲 ロ短調 Op. 115
ブラームス:クラリネット五重奏曲 ロ短調 Op. 115
(Clarinet)カール・ライスター:アマデウス弦楽四重奏団 1967年3月録音
Brahms:Clarinet Quintet in B Minor, Op.115 [1.Allegro]
Brahms:Clarinet Quintet in B Minor, Op.115 [2.Adagio - Piu lento]
Brahms:Clarinet Quintet in B Minor, Op.115 [3.Andantino - Presto non assai, ma con sentimento]
Brahms:Clarinet Quintet in B Minor, Op.115 [4.Con moto]
残り火をかき立てて
ブラームスの晩年は表面的には名声につつまれたものでしたが、本音の部分では時代遅れの作曲家だと思われていました。丁重な扱いの後ろに見え隠れするその様な批判に対して、ブラームスらしい皮肉を込めて発表されたのが交響曲の第4番でした。
終楽章にパッサカリアという、バッハの時代においてさえ古くさいと言われていた形式をあえて採用することで、音楽に重要なのは流行を追い求めて衣装を取っ替え引っ替えする事ではなくて、あくまでもその内容こそが重要であることを静かに主張したのでした。
しかし、老境を迎えつつあったブラームスは確実に己の創作力が衰えてきていることを感じ取っていました。とりわけ、弦楽五重奏曲第2番を書き上げるために必要とした大変な苦労は、それをもって創作活動のピリオドにしようと決心させるに十分なだけの消耗をブラームスに強いました。
ブラームスは気がかりないくつかの作品の改訂や、身の回りの整理などを行って晩年を全うしようと決心したのでした。
ところが、その様なブラームスの消えかけた創作への炎をもう一度かき立てる男が出現します。それが、マイニンゲン宮廷楽団のクラリネット奏者であったミュールフェルトです。
ミュールフェルトはもとはヴァイオリン奏者だったのですが、やがてクラリネットの美しい音に出会うとその魅力の虜となり、クラリネットの演奏にヴァイオリンがもっている多様な表情と表現を持ち込もうとしたのです。
彼は、音域によって音色が様々に変化するというクラリネットの特徴を音楽表現のための手段として活用するテクニックを完璧な形にまで完成させ、クラリネット演奏に革命的な進歩をもたらした人物でした。
そのほの暗く甘美なクラリネットの音色は、最晩年の諦観の中にあったブラームスの心をとらえてはなしませんでした。
創作のための筆を折ろうと決めていた心はミュールフェルトの演奏を聴くことで揺らぎ、ついには最後の残り火をかき立てるようにクラリネットのための珠玉のような作品を4つも生み出すことになるのです。
- 1891年:クラリネット三重奏曲
- 1891年:クラリネット五重奏曲
- 1894年:二つのクラリネットソナタ
ブラームスの友人たちは、この4つの作品の中では形式も簡潔で色彩的にも明るさのある3重奏曲がもっともポピュラーなものになるだろうと予想したというエピソードが残っています。この友人たちというのは、ビューローであったり、ヴェルナーであったりするのですが、そういうお歴々であったとしても事の本質を言い当てるのがいかに難しいかという「当たり前のこと」を、改めて私たちのような愚才にも再確認させてくれるエピソードではあります。
現在では、三重奏曲はこの中ではもっとも演奏される機会が少ない作品です。
クラリネットソナタも同じように演奏機会は多くないのですが、ヴィオラ用に編曲されたものがヴィオラ奏者にとってはこの上もなく貴重なレパートリーとなっています。
しかし、何といってもポピュラーなのは五重奏曲です。
このジャンルの作品としてはモーツァルトの神がかった作品に唯一肩を並べることができるものとして、ブラームスの全作品の中でも、いや、ロマン派の全作品の中においても燦然たる輝きを放っています。
ブラームスの最晩年に生み出されたこれらのクラリネット作品は、その当時の彼の心境を反映するかのように深い諦念とほの暗い情熱があふれています。この深い憂愁の味が多くの人に愛好されてきました。
ところが、友人たちがもっともポピュラーな作品になるだろうと予想した三重奏曲は、諦念と言うよりは疲れ切った気怠さのようなものを感じてしまいます。
それは老人の心と体の中に深く食い込んだ疲労のようなものです。そして、おそらくはこの疲労がブラームスに創作活動を断念させようとしたものの正体なのでしょう。
ところが、わずかな期間を経てその後に創作された五重奏曲にはその疲労のようなものは姿を消しています。
なるほど、人は恋をすることによってのみ、命を枯渇させる疲労から抜け出すことができるのだと教えられます。もちろん言うまでもないことですが、恋の相手はクラリネットでした。
そして、三重奏曲の創作の時には心身に未だに疲労が深く食い込んでいたのに、五重奏曲に取り組んだときにはそれらは払拭されていました。
もちろん、それでブラームスが青年時代や壮年時代の活力を取り戻したというわけではありません。それは、人生に対する深い諦念を疲労の食い込んだ愚痴としてではなく、きちんとした言葉で語り始めたと言うことです。
そして、最後の最後の残り火をかき立てるようにして、人生の苦さを淡々と語ったのが二つのクラリネットソナタでした。
彼の親しい人たちが次々と先立っていく悲しみの中で、その悲しみを素直に吐露すると同時に、その様な人生の悲劇に立ち向かっていこうとする激しさも垣間見ることの出来る作品です。
晩年のブラームスが夏を過ごす場所としてお気に入りだったバート・イシェルにおいて流れるようにして書き下ろされたと伝えられる作品ですが、それ故にというべきか、彼の全生涯を通して身につけた作曲技法を駆使することによって、この上もなく洗練された音楽に仕上がっています。
あまりにも有名な五重奏曲と比べても遜色のない作品だと思えるだけに、もっと聞かれてもいいのではないかと思います
若い頃に魅了された室内楽作品
若いころはどうにも室内楽というものが苦手でした。その頃と言えば、何よりもゴージャスな響きと雄大な旋律に溢れた管弦楽曲が大好きでした。
それ故に、響きは地味で退屈なだけの室内楽なんてものに対して、「こんな音楽の何が楽しくてみんな聞いているんだろう」と不思議に思ったものです。
ところが、年を重ねるにつれてその好みが180度変わってしまうのですから不思議なものです。
いつの頃からか、管弦楽のゴージャスな響きはただただ五月蝿く感じられるようになり、逆に地味で退屈なだけの室内楽がしみじみと心にしみるようになってきました。それはまあ言葉をかえればパワーが落ちていると言うことでもあるのですが、それでも多少は物事の価値が少しは分かってきたと言うことはいえるのかもしれません。
ただし、若い頃は「室内楽は退屈」といいながらも、それでも片っ端から未遭遇の作品を聞きまくっている中で、「へえ、室内楽にもいい物が有るじゃない!と思えるような作品と出会うこともありました。実は、ここで紹介しているアマデウス弦楽四重奏団によるブラームスの作品は、私が初めて「いい物が有るじゃない!」と思った録音でした。
ただし、その時そう思えたのはこの「弦楽六重奏曲第1番」と「クラリネット五重奏曲」の2曲だけではありましたが・・・。
今から思えば、そんな3枚セットのCDをどうして買おうと思ったのかは不明ですが、それでも一枚目のCDをセットして「弦楽六重奏曲第1番」の第1楽章が流れはじめたときに、「あれっ、これって意外といい感じ」と思い、続く第2楽章のあまりにもロマンティックな旋律と濃厚な響きに、「いやぁ、室内楽にもこんな素晴らしいものがあるんだ!!」とすっかり魅せられてしまったものでした。
今から振り返れば、よくぞ恥ずかしげもなくこんなメロディが書けたものだと思わないのでもないのですが、若い頃はこういうロマンティックな旋律こそがこの上もなく魅力的に思えたのでした。さらに言えば、「弦楽六重奏」という構成が「室内楽」の枠からはみ出した「管弦楽」的な響きに近いことも魅せられた要因だったのかもしれません。
しかしながら、その3枚セットに収録されていた他の作品、弦楽五重奏やピアノ五重奏、それに同じ弦楽六重奏でも第2番の方はあまり好きにはなれませんでした。しかしながら、3枚目に収録されていた「クラリネット五重奏曲」はすぐに好きになり、その流れでモーツァルトの「クラリネット五重奏曲」と出会い、さらにはドヴォルザークの「アメリカ」やシューベルトの「死と乙女」、フランクの「ヴァイオリン・ソナタ」など、「室内楽もいいものだ」と思えるような作品と出会う糸口を作ってくれました。
つまりは旋律ラインの美しい、それも出来る限りロマンティックな感情に溢れた作品がお好みだったのです。
そして、そこから、例えばバルトークの弦楽四重奏曲をしみじみといいなと思えるようになるまでは長い時間がかかったのですが、それが果たして音楽の価値を聞き取る力が少しは身についたのか、ただ単にパワーが落ちてきただけの話なのかは分かりません。
ただし、そう言う「室内楽もいいな」と思えた思えた背景として、アマデウス弦楽四重奏団の果たしてくれた役割は無視できません。
このカルテットも最後は仲間内のごたごたがあったようで(演奏会が終わった後にリーダーのノーバート・ブレイニンが一人で後片付けをしていた姿をよく見かけたようです)、演奏も次第にさえないものとなっていたのですが、この60年代こそは彼らの絶頂期でした。
その重厚な響きと思いっきりルパートをかけてたっぷりと旋律を歌わせる芸風は若いの頃の私にはピッタリの演奏でした。
さらに言えば、クラリネットのカール・ライスターは数え切れないほど(・・・は、言い過ぎか^^;)この作品を録音していると思うのですが、おそらくこのアマデウス弦楽四重奏団との録音が彼にとってのこの作品の初録音ではなかったかと思います。
彼は基本的にはひたすら正確さを追い求める傾向があったと思うのですが、この時の録音では溌剌とした若さが溢れていて、その若さがアマデウス弦楽四重奏団の重厚でロマンティックな音楽と上手く解け合っているように思えるのです。それもまた、若い頃の私にはピッタリだったんだなと思う次第です。
そして、有り難いことに、若い時代に私が魅了されたこの2作品だけが1967年初出で、残りの作品は全て1968年初出であることに気づきました。
もちろん、残りの作品も全て魅力的な録音と演奏なのですが、パブリック・ドメインの世界からはこぼれ落ちてしまったことは残念ではあります。
しかし、若い頃の私を魅了したこの2作品の録音だけがギリギリのところでパブリック・ドメインの世界にすくい上げられたのは、まさに神のはからいとしか言いようがありません。
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