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ベートーベン:ピアノソナタ第1番 ヘ短調 作品2の1

(P)バックハウス 1963年10月録音

Beethoven:Piano Sonata No.1 in F minor Op.2 No.1 [1.Allegro]

Beethoven:Piano Sonata No.1 in F minor Op.2 No.1 [2.Adagio]

Beethoven:Piano Sonata No.1 in F minor Op.2 No.1 [3.Menuetto. Allegretto]

Beethoven:Piano Sonata No.1 in F minor Op.2 No.1 [4.Prestissimo]


ハイドンに献呈されたピアノソナタ

 ボン時代にベートーベンはハイドンと知り合います。イギリスに招かれての行き帰りの時です。
若きベートーベンの才能を認めたハイドンはウィーンに出てきて自分のもとで学ぶようにすすめます。喜んだベートーベンは選定侯の支援もあって飛ぶようにウィーンに向かいます。
 ハイドンがイギリスからの帰りにベートーベンと出会い、ウィーン行きをすすめたのが1792年の7月です。そのすすめに応じてベートーベンがウィーンに着いたのが同じ年の11月10日です。当時の社会状況や準備に要する時間を考えれば、ベートーベンがどれほどの期待と喜びをもってウィーンのハイドンのもとにおもむいたのかが分かります。

 しかし、実際にウィーンについてハイドンのもとで学びはじめるとその期待は急速にしぼんでいきます。偉大な選手が必ずしも偉大なコーチにならないとのと同じで、偉大な作曲家ハイドンは決して教師に向いた人ではなかったようです。
 おまけにベートーベンの期待があまりにも大きく、そして、ベートーベン自身もすでに時代を越え始めていました。

 ハイドンの偉大さは認めつつも、その存在と教えを無批判に受け入れるというのはベートーベンには不向きなことでした。それよりは、自分が必要と思うものをクールに受け取れる存在の方がよかったようです。
 そこで、ベートーベンはサリエリ(映画アマデウスのおかげで凡庸な作曲家というイメージが定着してしまいました)やアレブレヒツベルガーなどから作曲理論を学ぶようになり、結局は翌年の春にはハイドンのもとを去ることになります。

 この作品番号2としてまとめられている3曲のピアノソナタは、そのような若き時代の意気軒昂たる姿がうかがえて興味深い作品です。そして、世上噂されるハイドンとの不和も、これらの3曲がハイドンに献呈されていることを考えると、決定的なものではなかったようです。

 ちなみに、この3曲が完成したのは1795年と言われているが、作品の着想そのものはボン時代にさかのぼるそうです。それが、イギリスでの大成功をおさめてウィーンに帰ってきたハイドンに謝意を示すために一気に完成されたと言われています。

ピアノソナタ第1番 ヘ短調 作品2の1

第1楽章 アレグロ ヘ短調

冒頭の第1主題を聞いてどこかで聞いたことがあるような気がした人は鋭い!!
この出だしの部分はモーツァルトのト短調シンフォニーの終楽章との類似性がよく指摘されていました。おそらく、偶然ではなくてベートーベン自身も強く意識してのことだったと思われます。

ベートーベンという人は、同時代、もしくは先駆ける時代の作曲家と比べると短調の作品の割合が多いように思われます。この3つのソナタから作品2でも、冒頭の1番にイ短調のソナタを持ってきています。そう言う意味では、音楽に強い劇的な感情を持ち込んだベートーベンの萌芽がこういうところにも垣間見ることが出来そうです。
そして、これもよく指摘されることですが、この後音楽が長調に移っても臨時記号で一貫して短調の雰囲気が保持されています。そして、最後は相違色づけの中で明らかにヘ短調に舞い戻ってそのまま終結を迎えます。

第2楽章 アダージョ ヘ長調

この楽章は18世紀的なオペラ的なアリア様式の音楽になっています。形式としては、アリアの両端、つまりは提示部と再現部だけで真ん中の展開部が欠けたような構造になっています。いわゆる、カヴァティーナ形式と呼ばれるものです。
音楽の最後も主調のヘ長調で完全終始するので、非常に静かに幕を閉じるような印象が残ります。

第3楽章 メヌエットア レグレット ヘ短調

伝統的なABA形式で書かれていますが、トリオの部分には挿入句を入れて少し工夫が為されているようです。

第4楽章 プレスティッシモ ヘ短調

まさにベートーベンの若さが持っている激しさが爆発したような音楽になっています。作品2の3曲のソナタの中では最も独創的で大胆な音楽だという人もいます。(私ならば、第3番のアダージョ楽章を取りたい。)
至る所にフォルティッシモの指定があるのも、後のベートーベンを彷彿とさせる楽章です。


演奏で何を語るのか

「考えなければいけないのは、山田やテンシュテットにはあって、ジンマンや(おそらく)オサワなどにはないものは何なのか?」
こんな書き方をすると、ジンマンやオザワのファンからは怒られそうなのですが、問題は決して彼らだけのものではなく、クラシック音楽の世界を広く覆っている問題です。

「問題です」と言い切っていいのかという躊躇いはあるのですが、まあ、言い切っちゃいましょう。

事の起こりは、録音の媒体がアナログからデジタルに変わったことに端を発します。もちろん、ここで録音のクオリティとしてアナログとデジタルの優劣を論ずるつもりはないのですが、少なくともデジタルになることで、それなりの再生システムでも演奏のディテールが聞き取れるようになったことは確かです。もちろん、そう言うディテールはアナログの時代であっても聞き取る事は可能だったのですが、それを実現するためには少なくない投資と使いこなしの執念が必要でした。
その事をかつて「アナログ再生についての若干の考察」という一文で次のように書いたことがあります。

「アナログには100点と50点と0点しかないのです。そして100点の音は素晴らしいですが、100点を維持するためには、少なくないお金と、莫大な時間と情熱が必要です。その点、CDプレーヤーはしっかりとした台において、ケーブルさえケチらなければ、コンスタントに80点の音は出ます。」
つまりは、デジタル化によって何となくモヤッとした神秘の(?)のベールに包まれていた演奏のベールがはぎ取られてしまったのです。そして、実演であればほとんど気にならないちょっとした瑕疵や響きの混濁が、何度も繰り返し聞くことを前提とした録音においては許されなくなったのです。
ただし、録音がデジタル化されることで切り貼りははるかに容易になりました。何度もテイクを繰り返して満足のいく部分を継ぎ接ぎしても、まるでワンテイクで演奏したかのように切り貼りすることはそれほど困難な仕事ではなくなっていきました。
しかし、見かけ上はワンテイクで録音したように切り貼りを行っても、その様に継ぎ接ぎされた録音は音楽としての生命力を失っています。

90年代にはいると、そう言う表面的に磨かれていても、音楽の熱が失われた録音に嫌気が指した連中がライブ録音を求めるようになっていくのですが、それは当然の帰結でした。

ならば、演奏する側にしてみれば、ほぼワンテイクでその様な些細な瑕疵や響きの混濁もないような「完璧な演奏」を実現せざるを得なくなっていきます。執拗にテイクを繰り返して切り貼りのコラージュのようにして録音を仕上げるのではなくて、まずはワンテイクでほぼ完璧な演奏を実現し、その後でどうしても気になる部分をとりなおす程度というレベルまでにスキルを向上させる必要があったのです。

話をオケに限れば、録音がアナログからデジタルに移行することで演奏スキルは飛躍的に向上しました。もちろんその背景には音楽教育の向上で個々の楽団員の技術が大きく向上したことも原因の一つとしてあげることが出来るでしょう。
先にも書いたように昨今のオケと指揮者は各声部のバランスを完璧に取った上で均等に鳴らすという神業のようなことを平然とやってのけます。結果として、オケの響きは今まで聞いたこともないようなクリスタルな透明感に満ちた、美しくも蠱惑的な世界を実現しています。

おそらく、指揮者は徹底的にスコアに向かい合っているはずです。そして、その向き合いの中でつかみ取った自分なりの響きの姿をオケに要求し、オケもその要求に応えるだけの能力を身につけてきています。そして、聴衆の大部分も、その様な演奏する側の提供する「作品と響き」の姿をじっくりと受け入れるだけの「辛抱」は厭わないように見えます。
一見すれば全てが理想的な方向に向かっているようであり、実際この現状を理想的なものとして受け取っている人も少なくないでしょう。

しかし、それ以上に多くの人たちが、その様な演奏のありように疑問を感じているし、その結果としてクラシック音楽は魅力を失ってきていると考えているのです。
つまり、クラシック音楽のコンサートで「作品」を聞いているのか「演奏」を聞いているのかという問題を投げかけたのですが、その投げかけの最も深刻な問題がここにあるのです。

話があまりにも短絡的にすぎるかもしれないのですが、ここには音楽とは何かという根本的な問題も潜んでいます。

20世紀という時代は、音楽から「物語性」を排除する方向で進んでいきました。そして、その様な排除の結果として、音楽を純粋な(?)音響の運動体をしてとらえようとする人々が登場しました。創作の分野ではシェーンベルグなどの無調の音楽に端を発し、12音技法や戦後の前衛音楽へと引き継がれていきました。
そして、演奏の分野では、過去の作品も含めて、そこから一切の物語性を排して、純粋な音響の運動体として再構築することが必要だと主張します。戦後の演奏史を覆い尽くした新即物主義の行き着く先がこれであり、その即物主義の鬼子ともいうべきピリオド演奏というムーブメントはまさにその様な試みの果てで登場したのです。(当然異論はあるでしょうが・・・)そして、アナログからデジタルへの以降という物的状況の変化が、その様な変化への強力な追い風となったのです。

そして、あのジンマン&チューリッヒ・トーンハレの演奏は、そう言うピリオド演奏というムーブメントの波をくぐり抜けた先で、ブラームスの音楽を物語性の沼から救い出して、そのスコアに込められた音響の運動体としての美しさを提示したものだったのです。
確かに、その美しい響きには感心はしました。

しかし、感心はしても、感動はしない自分がいたこともまた事実なのです。

時代遅れと言われるかもしれませんが、例えばメニューヒンはどこかでこんな事を書いていました。

「ベートーベンはヴァイオリンに対して・・・ピアノと同じように文学的な楽器にほぼ変えてしまった。彼のヴァイオリン書法は深く心を動かす知的論述で、詩というよりは言語であり、純粋に喜びを与えるよりはむしろ、心を高め思想を喚起するものである。」

この言葉に沿うならば、おかしな話ですが、今の多くの指揮者は作品のスコアに真摯に向き合うことで、オケの響きを磨き上げてその美しさで喜びは与えてくれても、心を高め思想を喚起するようなことはどこかに置き忘れているか、おそらくはその様なことを積極的拒否しているように見えるのです。
シュナーベルがピアノソナタの全曲録音に挑戦したのは、作品の姿に真摯向き合うことで、ベートーベンが作品の中に封じ込めた「心を高め思想を喚起するもの」を演奏で表現しようとしたのであり、その様な姿勢を取ることで感覚的な喜びを与えるだけの名人芸だけの演奏を凌駕できると考えたのです。
ところが、なんと不思議なことに、今の多くの演奏家がことあるごとに口に出す「作曲家の意志に忠実」「原点を尊重した」演奏の行き着いた先が、より高いレベルではあっても「名人芸のひけらかし」へと舞い戻っているのです。

蛇が前へ前へと進んでいるうちに、気がつけば自分の尻尾を飲み込み始めたのです。
これを皮肉なパラドックスというべきなのか、ムーブメントやイデオロギーが持たざるを得ない宿命なのかは分かりません。

「辛抱」の出来ない聞き手はエンターテイメント性を放棄した世界には見向きもせず、「辛抱」が出来る聞き手は「蒸留水」のような演奏にうんざりしているのです。
時々は思い出したように新しい録音を聞くのですが、その度にがっかりさせられ(守備範囲が狭いのも事実ですが)、結果として50年代や60年代の録音ばかり聞いている自分を怪しみながら、それでもそれは仕方がないことなのかと開き直る毎日なのです。

鍵盤の獅子王と言われ、その高いテクニックが賞賛されたバックハウスも、今の目から見ればかなりグダグダです。特に、この60年代にステレオで再録音された全集は明らかに衰えが見て取れます。
しかし、彼は自分を客観的に見ることが出来る人だったようです。
彼は最後まで作品106の変ロ長調ソナタを再録音をせず、これだけはモノラル時代の録音が収録されています。この事を残念に思う人も多いのですが、私はきわめて賢明な判断だったと思います。
調べてみると、作品110の変イ長調ソナタも63年に録音しながらリリースされたのは67年でした。おそらく、渋るバックハウスをデッカが何とか口説き落としたのでしょう。

私はピアノは演奏できない人なので技術的なことは詳しくはありませんが、それでも突っ込みどころはたくさんあることは何となく分かります。ピアノの響きにしても、これよりもはるかに透明感に満ちた美しい演奏は数多くあることは知っています。
しかし、そういうあれこれのマイナス点をあげつらえばいくらでも数え上げることが出来るのに、それでもこの演奏は深く心に残ります。そして、そう言う物言いを、日々技術の研鑽に明け暮れている若手の現役演奏家が嫌うことはよく知っています。しかし、やはり心に残ることは事実です。
そして、その理由はメニューヒンが語っていたように、ここには「心を高め思想を喚起するもの」があり、さらにはそう言う文学的な営みが間違いなく「詩」へと飛躍しようとしていることです。
もちろん、こんな言い方が音楽の進歩について行けない遅れた人間、原始人の戯言と切って捨てられればそれまでですが。

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