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ブラームス:ドイツ・レクイエム 作品45

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 (S)グンドゥラ・ヤノヴィッツ・(Br)エーベルハルト・ヴェヒター ウィーン楽友協会合唱団 1964年5月録音

Brahms:Ein deutsches Requiem Op.45 [1.Chor: "Selig sind, die da Leid tragen"]

Brahms:Ein deutsches Requiem Op.45 [2.Chor: "Denn alles Fleisch, es ist wie Gras"]

Brahms:Ein deutsches Requiem Op.45 [3.Solo (Bariton) und Chor: "Herr, lehre doch mich"]

Brahms:Ein deutsches Requiem Op.45 [4.Chor: "Wie lieblich sind deine Wohnungen, Herr Zebaoth!"]

Brahms:Ein deutsches Requiem Op.45 [5.Solo (Sopran) und Chor: "Ihr habt nun Traurigkeit"]

Brahms:Ein deutsches Requiem Op.45 [6.Solo (Bariton) und Chor: "Denn wir haben hie keine bleibende Statt"]

Brahms:Ein deutsches Requiem Op.45 [7.Chor: "Selig sind die Toten, die in dem Herrn sterben"]


「人間の死」という問題を正面からとらえた作品

この作品が構想されたのは早くて、1857年頃から執筆されたと言われています。もちろん、そのきっかけとなったのは彼の師であり、世に出すために尽力してくれたシューマンの死がきっかけでした。
しかし、筆はなかなか進まなかったようで、それはいわゆる教会の典礼用の音楽としてではなく、完全に演奏会用の音楽として構想したことがその原因となったようです。
テキストはいわゆるレクイエムで用いられる典型的なラテン語による祈祷文ではなく、ルターによってドイツ語に翻訳されたテキストが用いられています。またその選択もブラームス自身が行い、彼自身も「キリストの復活に関わる部分は注意深く除いた」と語っています。そのため、ある種の約束事の枠の中にはめ込まれる一般的なレクイエムと比べると、その内容が似通ったものであったとしても、人間の死を悼む痛切な感情がより深くにじみ出すような音楽となっています。

「幸いなるかな、悲しみを抱くものは、かれらは慰められんゆえに。」という歌い出しを聞くたびに、若き日にあれやこれやと悩み苦しんでいたユング君は深く癒され勇気づけられたものです。

なお、この作品がブラームスの老母の死によって一気に完成に向かったという話は、半分は真実であり、半分はそれほど正確な話とは言い難いようです。確かに、追いたる母の死はブラームスにこのレクイエムの完成を急がせたことは事実ですが、構想は10年にわたって練り上げられており、決してこの作品に母の死が色濃く反映しているような作品にはなっていないからです。
この作品はそのような個人的なきっかけよりは、明らかに「人間の問題」を正面に据えたロマン派の音楽の中にあって、「人間の死」という問題を正面からとらえた作品と見るべきでしょう。


音楽の蒸留水化

聞き手の「辛抱」について書いたのですが、それでも辛抱ができるなら、聞き手は辛抱して作品と向き合った方がいいことは言うまでもありません。ただし、辛抱できる自分を大切にするあまり、辛抱できない聞き手へのサービスを忘れない演奏に対して拒否的な態度をとることは、あまりにも愚かです。
その愚かさは、辛抱できない聞き手が真摯に作品に向き合った演奏に拒否的な態度を取るのと同じくらい愚かです。

ですから、カラヤンの演奏なんて「ひたすらゴージャスな響きだけを求めた精神性の乏しい演奏」として、その入り口でシャットアウトしてしまうのは本当に勿体ない話なのです。
と言うことで、これでやっと一つめの問題の片が付きました。しかし、より深刻なのは二つめの問題です。

それは、「作品」と「演奏」が二択の関係ではなくて、分かちがたく結びついていることは理屈としてはおそらく100%正しくても、何故か現実の中においてみると、真摯に「作品」に向き合った演奏の大部分が面白くないという「事実」に突き当たるのです。
そして、この「面白くない」というのは、演奏を聴いている最中に腹が立ってきて席を立ちたくなると言うレベルの話ではないという事が、この問題をより深刻なものにしています。
それどころか、聞いている最中は作品と真摯に向き合った姿勢に感心もし、その解釈を現実のものにするための献身的な努力にも敬意を感じるのです。つまりは、一見すれば最も高いレベルで真摯に作品と向き合った演奏なのです。
しかし、演奏会から帰ってきて数日もすればその演奏会で聴いた音楽の印象が何故か希薄になっていくのです。
そして、怖いことに、一ヶ月もすれば聴いた音楽の印象は完全に蒸発し、聞いた作品名だけがデータとして記憶に残るだけなのです。

私はこれを「音楽の蒸留水化」と呼んでいます。

例えば、昨年デイビッド・ジンマンが率いて来日したチューリッヒ・トーンハレのコンサートは、私の中では典型的な蒸留水化した演奏でした。

かつて、カイルベルトとバンベルク響にふれたときに、こんな風に書いたことがありました。

「聞いていて一番印象に残るのは、何とも言えずまろやかで伸びやかなホルンの響きでしょう。こういう響きはなかなか聞けないですね。
オケ全体の響きも「自然素材の風合い」を感じさせてくれます。
こういう響きを聞かされると、今と昔ではオケの鳴らし方が根本的に変わったことを教えられます。

カイルベルトのやり方は、おそらくは主たる旋律のラインをくっきりと描き出した上で、その他の声部のバランスを取るというやり方をしているのでしょう。
基本はメロディラインが優先です。
一番印象に残ったホルンの伸びやかな響きは、そう言うやり方の「功徳」でしょう。

それに対して、昨今のオケと指揮者は各声部のバランスを完璧に取った上で均等に鳴らすという神業のようなことを平然とやってのけます。結果として、オケの響きは「自然素材の風合い」ではなくて、「クリスタルな透明感」が支配的となります。
そして、そう言う響きはこの上もなく美しく、蠱惑的です。」

チューリッヒ・トーンハレの響きが、ここで書いた、昨今のオケの代表ともいうべき「この上もなく美しく、蠱惑的」なものであったことは事実です。
何というか、いろいろな楽器の響きが実に精緻に何層にも重ねられていて、それらがコンサートホールいっぱいに均等に広がっていくのですから、それはもうケチをつけるところなどは何もないはずなのです。しかし、文句をつけるところは何もないはずなのに、「あー、これはまさに蒸留水みたいなブラームスやな!」と醒めていってる自分がいたことも事実なのです。

そして、こんなブラームスってどこかで聞いたことがあるなぁ、などと過去インデックスの検索が始まり、思いついたのが小沢と斉藤記念オケによるブラームスでした。
ただし、小沢の演奏に関しては録音でのみ聞いたのですから、実際のコンサートホールではまた違ったのかもしれません。
しかし、ブラームスに限らず、年を取ってからの小沢の演奏は、どれもこれもが蒸留水化していったことは否定できないような気がします。

残念ながら、ソリストにクレーメルがついてきていたのでチケット代は安からぬものだったのですが、このコンサートで最後に残ったのはブラームスの1番とベートーベンのヴァイオリンコンチェルトを聴いたというデータだけでした。
それに対して、同じブラームスでも強烈な印象を残してくれたコンサートが二つあります。

山田一雄と大フィルによるブラームスの2番と、テンシュテット&ロンドンフィルによるブラームスの1番です。詳しくはリンク先を辿ってください。
少なくとも、ジンマン&チューリッヒ・トーンハレの演奏を思い出してこのような文章を綴ることは不可能です。

スコア片手に演奏をチェックすれば、間違いなく「ジンマン&チューリッヒ・トーンハレ」の演奏が最も作品に忠実になはずです。オケのアンサンブルという点でいえば、ゴミ満載の山田一雄&大フィルとでは雲泥の差です。テンシュテット&ロンドンフィルにしてもジンマンのような精緻な響きへの拘泥はありませんでした。
しかし、聞き手にとって見れば、幸せな思い出として記憶に残っているのはジンマンではなくて山田一雄であり、テンシュテットなのです。

そうであるならば、考えなければいけないのは、山田やテンシュテットにはあって、ジンマンや(おそらく)オサワなどにはないものは何なのか?という命題です。

カラヤンはこの作品がよほど好きだったようで、60年代(1964年:BPO)、70年代(1976年:BPO)、80年代(1983年:VPO)と彼の「芸風」が変わるたびに録音を行っています。それと、若い時代(47年)にウィーンフィルを使って録音していますから、計4回も録音しています。
これに、1978年(VPO映像)と1985年(VPO映像)の映像盤を加えると総計は6回という事になります。この回数はチャイコフスキーの「悲愴」に次ぐ多さではないでしょうか。

この64年盤には、明らかにゴージャスな響きを追い求めるカラヤンの姿が立ち現れています。
4年前の大震災の時に、私はケンペ&ベルリン・フィルによる54年盤をサイトにアップしました。そうすると被災地の方から「昨日電気が復旧してすぐに、このサイトをチェックしました。そして、ケンペのドイツ・レクイエムがあがっていて感激しました。これこそが、私が聴きたかった音楽です。ケンペの人間味ある素朴な演奏はどれも大好きです。本当に心から感動します。」というコメントをいただきました。

もしも、その時にこのカラヤンの録音がパブリック・ドメインとなっていても、私はこの録音をサイトには上げなかったでしょう。このカラヤンの演奏はそう言うときに聴く演奏としては相応しくないように思うからです。
しかし、その事を持ってこの演奏と録音の価値を貶めてはいけません。。
何故ならば、人は鎮魂のためだけに音楽を聴くのではないという当たり前のことに思いを致せば、その理由は簡単に了解できるはずです。

芸術には、咲き誇る大輪の花が絶対に必要です。そして、カラヤンには間違いなくその「花」がありました。
その「花」の値打ちを素直に、そして真っ当に評価する人が少ないことこそが、今のクラシック音楽をつまらなくしているのです。

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