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カラヤン(Herbert von Karajan)|ベートーベン:交響曲第3番 変ホ長調 作品55「英雄」
ベートーベン:交響曲第3番 変ホ長調 作品55「英雄」
カラヤン指揮 ベルリンフィル 1962年11月11~15日録音
Beethoven:交響曲第3番 変ホ長調 「エロイカ(英雄)」 作品55 「第1楽章」
Beethoven:交響曲第3番 変ホ長調 「エロイカ(英雄)」 作品55 「第2楽章」
Beethoven:交響曲第3番 変ホ長調 「エロイカ(英雄)」 作品55 「第3楽章」
Beethoven:交響曲第3番 変ホ長調 「エロイカ(英雄)」 作品55 「第4楽章」
音楽史における最大の奇跡
今日のコンサートプログラムにおいて「交響曲」というジャンルはそのもっとも重要なポジションを占めています。しかし、この音楽形式が誕生のはじめからそのような地位を占めていたわけではありません。
浅学にして、その歴史を詳細につづる力はありませんが、ハイドンがその様式を確立し、モーツァルトがそれを受け継ぎ、ベートーベンが完成させたといって大きな間違いはないでしょう。
特に重要なのが、この「エロイカ」と呼ばれるベートーベンの第3交響曲です。
ハイリゲンシュタットの遺書とセットになって語られることが多い作品です。人生における危機的状況をくぐり抜けた一人の男が、そこで味わった人生の重みをすべて投げ込んだ音楽となっています。
ハイドンからモーツァルト、そしてベートーベンの1,2番の交響曲を概観してみると、そこには着実な連続性をみることができます。たとえば、ベートーベンの第1交響曲を聞けば、それは疑いもなくモーツァルトのジュピターの後継者であることを誰もが納得できます。
そして第2交響曲は1番をさらに発展させた立派な交響曲であることに異論はないでしょう。
ところが、このエロイカが第2交響曲を継承させ発展させたものかと問われれば躊躇せざるを得ません。それほどまでに、この二つの間には大きな溝が横たわっています。
エロイカにおいては、形式や様式というものは二次的な意味しか与えられていません。優先されているのは、そこで表現されるべき「人間的真実」であり、その目的のためにはいかなる表現方法も辞さないという確固たる姿勢が貫かれています。
たとえば、第2楽章の中間部で鳴り響くトランペットの音は、当時の聴衆には何かの間違いとしか思えなかったようです。第1、第2というすばらしい「傑作」を書き上げたベートーベンが、どうして急にこんな「へんてこりんな音楽」を書いたのかと訝ったという話も伝わっています。
それほどまでに、この作品は時代の常識を突き抜けていました。
しかし、この飛躍によってこそ、交響曲がクラシック音楽における最も重要な音楽形式の一つとなりました。いや、それどことろか、クラシック音楽という芸術そのものを新しい時代へと飛躍させました。
事物というものは着実な積み重ねと前進だけで壁を突破するのではなく、時にこのような劇的な飛躍によって新しい局面が切り開かれるものだという事を改めて確認させてくれます。
その事を思えば、エロイカこそが交響曲というジャンルにおける最高の作品であり、それどころか、クラシック音楽という芸術分野における最高の作品であることをユング君は確信しています。それも、「One of the Best」ではなく、「The Best」であると確信しているユング君です。
驚くべき「推進力」の凄まじさ
50年代にカラヤンはレッグとのコンビでベートーベンの交響曲全集を完成させています。オケはベルリンフィルではなくレッグ子飼いのフィルハーモニア管です。
この録音は既にパブリックドメインとなっていますのでこのサイトでも紹介ずみです。1951年から54年にかけて、足かけ4年の歳月をかけて完成させたこの全集では、ひと言で言えば、本当に真っ当で正統派のベートーベン像が示されています。まさに「ザ・スタンダード」です。
また、1951年から54年と言うことは、カラヤンにとっては40代という、指揮者にとっては「まさにこれから!!」とも言うべき時期に録音したことになります。
そして、この全集の完成がカラヤン快進撃の狼煙となったのか、この後彼はベルリン・フィル、ウィーン国立歌劇場という重要拠点を次々に陥落させていきます。とりわけ、フルトヴェングラーの後任として手中に収めたベルリンフィルでは「終身首席指揮者兼芸術総監督」というポストを手に入れて、まさに自らの手兵として飼い慣らしていくことになります。
しかし、カラヤンという男は実に賢い奴で、ベルリンフィルの「終身首席指揮者兼芸術総監督・・・長い^^;」というポストを手に入れても、己のやり方をすぐに押しつけるようなことはしませんでした。それこそ時間をかけて少しずつ自分好みの色に染めていったという雰囲気が濃厚です。その事は、ベルリンフィルがはじめてベートーベンの交響曲全集の録音に取り組んだときに、音楽監督であるカラヤンではなくてクリュイタンスを選んだことからもうかがえます。
おそらく、カラヤンにとっては「自分がやりたいベートーベン」をベルリンフィルに分かってもらうには時期尚早と判断したのでしょう。
そして、満を持してと言う感じで彼は手兵のベルリンフィルを使ってベートーベンの交響曲の全曲録音に取りかかります。
- ベートーベン:交響曲第1番 ハ長調 作品21・・・1961年12月27~28日録音
- ベートーベン:交響曲第2番 ニ長調 作品36・・・1961年12月30日&1962年1月22日録音
- ベートーベン:交響曲第8番 ヘ長調 作品93・・・1962年1月23日録音
- ベートーベン:交響曲第6番 ヘ長調 作品68「田園・・・1962年2月13日~15日録音
- ベートーベン:交響曲第5番 ハ短調 作品67「運命」・・・1962年3月9日~12日録音
- ベートーベン:交響曲第7番 イ長調 作品92・・・1962年3月13日~14日録音
- ベートーベン:交響曲第4番 変ロ長調 作品60・・・1962年3月14日&11月9日録音
- ベートーベン:交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱」・・・1962年10月8日~9日,12日~13日&11月9日録音
- ベートーベン:交響曲第3番 変ホ長調 作品55「英雄」・・・1962年11月11日~15日録音
まさに一気呵成という雰囲気です。1961年の暮れに仕事に取りかかり、わずか3ヶ月ほどで第9とエロイカ以外の7曲を仕上げています。クリュイタンスが1957年2月から60年4月にかけて、およそ3年2ヶ月をかけて全曲録音したことと比べるとその「推進力」には驚かされます。
そして興味深いのは、11月の9日に9番と2番・4番の録音を仕上げてから(おそらく気になる部分を録り直したのでしょう)、その2日後に5日間をかけてエロイカを録音して全集を仕上げていることです。
おそらくは満を持して取り組んだベートーベンの交響曲全集を締めくくる録音として、それこそ裂帛の気合いをこめてエロイカ演奏したのだろうと思います。
それ故に、このエロイカの演奏にこそ、この全集全体に通底するカラヤンの思いがこめられています。
ネット上のコメントなどを散見すると、このエロイカの演奏のことを「あれよあれよという間に終わってしまい、狐につままれたような気になる」なんてのもあります。生意気を怖れずに言いきれば、しょぼい再生システムでこの録音を再生するとそう言う雰囲気がしなくもありません。実は、私もそんな風に思ったことがありましたから、その言わんとするところはよく分かります。
しかし、これもまた生意気を怖れずに言わせてもらえば、20代の頃から30年以上をかけて再生システムを磨いてきました。目指すところは、心地よく聞けることではなく、演奏家がその演奏と録音にこめた命がけの気合いが過たずに聞き取れることです。
そして、
PCオーディオと出会うことで、ようやくその入り口あたりにはたどり着けたかなとは思っています。
そう言うシステムでこの録音を聞くと、この途方もないエネルギーを内包した男の命がけの気合いがはっきりと伝わってきます。決して、「あれよあれよという間に終わってしまう」ような演奏ではありません。
そして、そのエネルギーによってもたらされるのは「推進力」というものが持つ驚くべき凄まじさです。
そして、そのような推進力を維持せんがために、この全集はかくも短い期間になされたんだなと納得させられた次第です。いかに脂ぎったカラヤンといえども、これほどの高いテンションを維持し続けるのは並大抵のことではなかったはずです。おそらくは、カラヤンを持ってしても、そのハイテンションを維持するのは3ヶ月が限界だったのでしょう。そうして、もう一度仕切り直しをして、最後に最高のコンディションで第9とエロイカという二つの巨峰に挑んだものと思われます。
確かに、この一連の録音では意図的に「歌う」べき部分が犠牲にされている雰囲気があります。4番の第2楽章や6番最終楽章などでは、聞きようによってはあまりにも素っ気ないと思えるかもしれません。しかし、そう言う部分にあっても、カラヤンは音楽が持つ推進力を一切犠牲にしないで驀進させていきます。そして、そうすることによって今まで聞いたことがないようなベートーベンの姿が提示されます。
もちろん、そう言うやり方が私の好みに合っているかと聞かれれば残念ながら「否」と答えるのですが、だからといって、たっぷりと歌わせることを意図的に拒否している演奏をつかまえて、歌っていないから駄目と批判するのはあまりにも愚かですし、了見が狭すぎます。
カラヤンがこの全集に取り組んだのは50代の半ばです。おそらく50代の半ばというのは人としてもっとも意味のある仕事ができる時期です。
その事は経験が何よりもものを言う指揮者の世界にあっても同様です。まさに、頂点に向かって駆け上がっていく時期の仕事ほど魅力的なものはありません。年をとった身にはいささかその勢いは鬱陶しく思えるときもあるかもしれませんが、人がもっとも輝いて見えるのは駆け上がっていく姿です。
そして、疑いもなく、ここにはカラヤンという不世出の指揮者の輝ける姿がはっきりと刻印されています。
そう思えば、彼がベルリンフィルを完全に手中に収め、その美学を隅から隅まで徹底させた60年代後半以降の音楽は、もしかしたら著点を超えた後の下り坂の芸術だったのかもしれません。もちろん、五木寛之の言葉を待つまでもなく、人生には頂点があり、そしてその頂点を超えた後には全て平等に長く続く下り坂が待っています。その下り坂を美しく下る芸術もまた魅力あるものです。
もっとも、70年代以降のカラヤン美学が美しい下り坂だったのかは、もっと聞き込んでからじっくり考えてみたいとは思いますが・・・。
<追記>
「しょぼい再生システムでこの録音を再生するとそう言う雰囲気がしなくもありません。」という下りは、文脈を読み取ってもらえば真意は理解していただけると思うのですが、その部分だけを抜き取ると誤解を招きかねませんので、念のために追記しておきます。
ここで言及している「しょぼいシステム」というのは安物の再生システムのことを言っているわけではありません。とは言え、ラジカセのようなあまりにもチープなシステムは論外です。
いかにデジタル化が進んでも、オーディオの出口はスピーカーの振動板を振動させて空気を動かすというアナログシステムであり、その原理はエジソン以降かわることはありません。そして、アナログ領域で質を追求すれば物量が必要となり、物量はそのままコストに直結します。
演奏家は己の命を削るような思いで音楽を演奏し録音を行っています。ならば、それを受け取る側も、同じように命を削るとまではいきませんが(^^;、それなりの敬意と熱意を持って再生したいというのが私の基本的なスタンスです。
ですから、それなりの音で再生しようと思えば、それなりのコストは投下すべきだとは思っています。
しかし、オーディオが怖いのは、ならばお金を投下すればそれなりの再生音が手にはいるのかと問われれば、それは断じて「否」だと確言できることです。
つい最近も、とある有名なショップで総額500万円をくだらないシステムで音楽を聴かせてもらいました。スピーカーは定番中の定番、B&Wの802-Diamond、アンプとCDPはメーカーの名誉のために伏せますが、国内の高級オーディオメーカーの機器で、プリ・パワー・CDPがそれぞれ100万円以上の機器でした。
ところが、その再生音は驚くほどに大まかで寝そべっているとしか思えないような酷い音でした。私は、B&Wの802-Diamondがどのように鳴るのかはそれなりに知っているつもりなので、その再生音には驚きを禁じ得ませんでした。
オーディオというのはどれほどの高級機を買い込んできても、それを繋いだだけではどうしようもない世界だと言うことは分かっていたつもりですが、その「真実」をこれほどまでに鮮やかに再確認させてもらえたのは得難い経験でした。
オーディオというのは、間違いなくそれを鳴らす人の「志し」がでます。
そう言う意味で、そのような「志し」のないシステムの事を「しょぼいシステム」と表現したのです。ご理解願えれば幸いです。
それでも釈然としないという人で、さらに時間も余っているという方ならば
こちらあたりでもご覧ください。
このあたりの問題は「永遠の課題」みたいなので、この程度の追加では私の言いたいことは伝わらないようです。
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よせられたコメント
2022-10-24:りんごちゃん
- この曲につきましては、ナポレオンに献呈しようと作曲したところ、皇帝に即位したとの話を聞きそれを取りやめたというエピソードが有名ですよね
これが事実であるかはともかくといたしまして、この曲を象徴するようなエピソードであることは間違いないでしょう
ベートーヴェンは、ナポレオンが歩く人権宣言であり、啓蒙主義の勝利を象徴するからこそこの曲を献呈しようとしたのでしょうし、だからこそ皇帝に即位したと聞いてそれを取りやめたように見えます
この曲を聞きましてまず感じるのはその圧倒的な生命力の奔流であり、それが人間性の勝利とでもいったものを歌っているかのようであるところでしょう
この音楽は人間讃歌とでもいったような種類の音楽なのでして、皇帝に即位する前のナポレオンが歩く人権宣言であるなら、この音楽は歌う人権宣言とでもいったようなものなのでしょう
フランス革命を導くに至った啓蒙主義は現代にいたるまで社会の根底を支えているのでして、日本国憲法を読んだことがなくても基本的人権の尊重などといった考え方をわたしたちが当たり前のように受け入れているのは、未だに啓蒙主義がわたしたちを支配しているからなのです
この時代こそが現代の始まりであるといってよいのと同様に、この曲こそが19世紀音楽の開幕を告げるのでして、それが現代に至るまでわたしたちを支配しているからこそ、未だに19世紀の音楽がクラシックの中でも最も好まれているのでしょうね
わたしはと申しますと、ベートーヴェンは嫌いではありませんがやや苦手です
その溢れんばかりの生命力にあてられ、人間性の勝利に少々辟易させられるところがあるのです
ベートーヴェンが嫌いというひとはそういったところが苦手なのかもしれませんね
音楽の歴史がここで大きな転回点を迎えるのは確かなのでして、19世紀の音楽が表現しているものと18世紀までの音楽が表現しているものは全く異なるのです
いささか乱暴に申しますと、19世紀の音楽が人間を描いたものであるように見えることは間違いないように思えますが、そういったことは19世紀になって始まったことなのです
18世紀までの音楽は人間を歌うなどということはいたしませんし、作曲家の個人的な気分ですとか体験ですとかいったものがその音楽に入り込む余地は基本的にないのです
ルネサンス期の音楽を静止画として、バロック以降の音楽を動画として楽しめばよいのと同様に、18世紀までの音楽と19世紀の音楽はその楽しみ方が全く異なるのでして、そのそれぞれの音楽の成し遂げているものを楽しみさえすればそれで良いのです
わたしはカラヤンの62年のこの一連の録音では第3番しか聞いておりませんのでそのお話を致します
カラヤンは非常に器用な指揮者だと思うのですが、わたしがこの人の名前をはじめて意識したのはリパッティのシューマンのピアノ協奏曲の伴奏を聞いたときなのです
リパッティの音楽をよく理解し、それに寄り添った伴奏をこれだけの水準でつけてくるといったことは他の誰もできなかったのでして、それだけでも彼が音楽への理解力の確かさや表現力の高さ、あるいは他人の音楽に合わせられるだけの器用さを併せ持つ稀に見る音楽家であることは一目瞭然です
カラヤンはこの録音では、自分の以前の録音である52年のものというよりは、クリュイタンスの録音を意識しているようにわたしには見えます
クリュイタンスの最大の特徴はその感情移入の巧みなコントロールにあると思うのですが、カラヤンは、クリュイタンスと同じオーケストラを用いて、感情移入に全く依存することのない計算しつくされた演奏をやってのけてみせることを最大の狙いとしているのではないかとわたしは思うのです
例えば音量を見ますと、わたしは楽譜をチェックしているわけではないのですが、第1楽章最後のコーダのところの盛り上がりなどはこの曲で最も大きい音が出される箇所の一つではなかろうかと思われます
そういった箇所を聞きますと、その音は、感情移入などといったもののこれっぽっちも感じられないような、完全にコントロールしつくされ整った響きを出しているのでして、狙った整った響きを出すことができる最大の音量を計算した上で、どの箇所をどの音量で演奏するかをあらかじめ考えそれを全体に配分しているように見えます
無論どの演奏家もある程度はそういったことをすることでしょうが、カラヤンのそれは偶然性が全く関与しない程度までに計算されたものの再現に徹しているように聞こえるのです
この演奏は弱音が非常に小さく柔らかく出されているのが特徴であると思うのですが、他の演奏と比べまして最大音を控えめに出さざるを得ませんので、それに合わせメリハリの付いた表現を計算して行いますと、そこまで小さく繊細な音を出す必要があるのだとでも言っているかのようです
音楽は、盛り上げるべきところを盛り上げ歌い上げるべきところを歌い上げ突っ走るべきところを突っ走るといった表現をメリハリを付けて行うというのが基本中の基本であるわけですが、この演奏ではそういった表現がすべて偶然が作用しないほど計算されたものの再現を徹底して行っているように見えます
その徹底が、あたかもその表現を指揮者もオーケストラも絶対の確信を持って行っているかのように聞こえるのです
確信を持って演奏されていない音というものはあやふやで聞くに値しないものですので、優れた演奏ではどの音も確信を持って演奏されているようには聞こえるものです
この演奏は、その細部に至るまでの周到な作り込みが絶対の確信を持って披露されるところに、ある種の凄みのようなものを感じさせるかのようなものなのです
こういったものを徹底した演奏は得てして偏執狂的なところが感じられるものでして、そこについていけず快適に聞いていられないなどといった結果にもなりかねないのですが、そういったところが微塵も感じられないところなどはたいへん驚くべきものです
もしかしたらこの演奏の最大の美点はそこにあるのかもしれません
一方で、この演奏では感情移入のようなものが全く感じられないのですが、それは多分クリュイタンスの演奏を意識しそれと対極的なものを作り上げることによって、俺はこんな事ができるんだぞとアピールするところがあるのでしょう
その計算された演出に説得力は感じるのですが、計算された演出とそこで生じるべき気分との間に乖離が生じるとき、彼は常に計算された演出の方に沿って演奏してしまうので、その気分に聞き手が乗り切れないところがあるような気がするのです
この演奏が「あれよあれよという間に終わってしまい、狐につままれたような気になる」ように聞こえるとしたら、それは感情移入すべきところでそれがないように聞こえるからなのではないかと思うのです
わたしは実際のところ、クリュイタンスとこれを比べますとクリュイタンスのほうがずっと好ましく感じるのですが、やはり音楽にはそういった感情移入のようなものが必要なところがあるようでして、歌うように演奏するという表現は結局のところそういった気分が感じられるように演奏するということなのでしょう
クリュイタンスの演奏は極端に申しますとそれ以外はややなおざりなところがありまして、音楽の論理構成や個々の細部の特徴などといったものはぼやけた漠然としたものにしか見えませんし、カラヤンのような細部に至るまでの念入りな彫琢などといったものは全く感じられません
録音が一見不鮮明に見えるようなところなども、おそらくそのように意図して行っているのでしょう
彼は細部などに意識を向けてほしくはないのです
彼は感情移入の方を大切にしておりますので、オーケストラも聞き手もそれ以外に意識が向かわないようこういった表現をあえて意図して行っているのだとわたしは思うのですが、そういったところが通人には素人っぽくあるいは洗練の足りない田舎臭いものに見えてしまうところがあるのかもしれません
わたしはこの曲を聞くことはめったにないので、そのようなところがまるで気にならないのでしょうね
カラヤンの演奏は、以前に申しましたハイドンの104番ほどではないものの、基本的にはやはり句読点の切れ目の感じにくいのっぺりとしたものだと思うのですが、そういったスタイルを取ることによって得られるものは、音楽の論理や細部への注目をそらしその音楽に浸ってもらうことでしょう
ところが、その音楽に浸って快いのは感情移入が素直に感じられるクリュイタンスの方なのでして、この曲は人間讃歌なのでなおさらそういったことが感じられないと絵に描いた餅であるかのようにも見えてしまうところがあるのです
クリュイタンスの演奏は細部にはこだわらず気分の流れを堪能してもらうことにのみ集中しているかのようなものですが、句読点の切れ目の感じられないのっぺりとした音楽にふさわしいのはむしろそのような演奏のほうでしょう
カラヤンの62年の演奏の美点は細部まで行き届いた緻密な彫琢であり、彼は頭で考えたそれを見せるためにこの演奏を行っているわけですが、それを実現するためには聞き手の注視点を細部の方にむけなくてはならないのでして、あえて彼本来の句読点の切れ目の感じられないのっぺりとした音楽づくりを曲げてまで、細部の見通しのよさを優先しているところがあるようにも見えます
彼はここでクリュイタンスの補集合を作って見せるだけでこれだけの音楽が作れるのだというところを見せているだけなのですが、クリュイタンスはその狙いが一つの焦点に合わせられているのに、カラヤンのそれは何を狙いとし何を実現しようとしたものであるのかがむしろ不鮮明になってしまっており、彼本来の音楽づくりとも矛盾してしまっているのです
カラヤンのやっていることはその意味で少々ちぐはぐに見えないでもありません
彼は頭の切れる人物であるはずですから、彼の次の録音はこの問題の解決を目指したものときっとなっているのでしょうね
わたしはカラヤンは大変優秀な音楽家だと思うのですが、一方で彼は結局のところ才人なのではないかとも思うのです
どんな音楽にもそれを理解した上できっちり寄り添った演奏を成し遂げることができるだけの器用さを持ちながら、出来上がったものは大変巧みに作られた食品サンプルのようにも見えてしまうのです
彼はその表現を確信を持って行っているように聞こえるのですが、一方でそれは計算しつくされた、頭で考え出されたものです
天才の演奏ではその場にふさわしい表現が常に確信を持って演奏されるのですが、それは計算されたものでも頭で考えられたものでもなく、それが自然で当然であるかのように演奏されるものなのです
わたしのリスニング環境はまぁ問題外と言っても良いようなものですので、再生環境に関するお話などは、そういったお話ができる方におまかせすることに致します
オーマンディの演奏の方にも続けて書き込みますのでよろしければご覧くださいませ
2024-03-03:白玉斎老人
- 「フルトヴェングラーを引き継いでいるのは、カラヤンだけ」。フルトヴェングラーの主著「音と言葉」(新潮文庫)で、翻訳した芳賀檀(まゆみ)氏がそんな趣旨の解説を寄せていて、奇妙に感じた思い出があります。
読んだのは、カラヤンが死去して数年後。ベルリンフィルの元楽団員による二人の対比列伝が好楽家の中でのロングセラーになっていて、カラヤンのCDは無内容で録音美人と断じる人々が珍しくなかった頃でした。
カラヤンの音楽が正当に評価されるようになった一因は、ライブ録音がYouTubeなどでアップされる月日を迎えているからだ、と私は考えています。
舞台人であるカラヤンにとって、聴衆の有無は、フルトヴェングラーでのそれと負けず劣らず、演奏の密度に直結するものではなかったか。不在だったり、70年代に本人が制作した映像のようにサクラであったりした場合には、どこか熱がこもらなかったのではないか。81年のベルリンフィル百周年記念演奏会、あるいは同年の東京文化会館での公演でのエロイカでの、フルトヴェングラーから営々と引き継いできたかのような、剛毅な音響がスピーカーから溢れるたび、そんな感慨を覚えます。
芳賀氏の冒頭の言葉は、氏が戦前にドイツに留学しており、カラヤンをかなり若い頃からライブで聴き、辿り着いた評価だろう、と想像します。今回のこの録音とは直接には関係ないのですが、投稿者さまや他の聞き手へ興を添えたく、書き留めました。