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シェルヘン(Hermann Scherchen)|マーラー:交響曲第7番 ホ短調 「夜の歌」
マーラー:交響曲第7番 ホ短調 「夜の歌」
シェルヘン指揮 ウィーン国立歌劇場管弦楽団 1953年7月録音
Mahler:交響曲第7番 ホ短調 「夜の歌」 「第1楽章」
Mahler:交響曲第7番 ホ短調 「夜の歌」 「第2楽章」
Mahler:交響曲第7番 ホ短調 「夜の歌」 「第3楽章」
Mahler:交響曲第7番 ホ短調 「夜の歌」 「第4楽章」
Mahler:交響曲第7番 ホ短調 「夜の歌」 「第5楽章」
マーラー作品の中では最もマイナーな作品です
マーラーの作品は分裂症的だとよく言われます。そういう分裂症的作品の中でもその症状(?)が最も重いのが7番と8番でしょう。そして、その二つを比べてみてより意味不明なのがこの7番です。
この作品は、構成としては真ん中にスケルツォ楽章を配置したシンメントリーな5楽章構成になっています。この構成はマーラーにとってはなじみの深いもので、2番「復活」と5番がこれと同じ構成を持っています。さらに、1番「巨人」も当初は「花の歌」と題された楽章が挟み込まれることでシンメントリーな構成を持っていました。
ところが、2番や5番が持っているある種の「わかりやすさ」、「明快さ」というものを7番は全く持ち合わせていません。それどころか、マーラーの全交響曲の中でも、作品全体の見通しの悪さと論理的一貫性のなさは際だっていて、まるで先の見えない曲がりくねった道をあてもなくさまようような気持ちにさせられます。
では、この作品のそのような「分かりにくさ」の要因はどこにあるのでしょうか。
まず目を付けるべきは、真ん中のスケルツォ楽章の両サイドに配置されている「夜の歌」と題された二つの楽章です。そして、この楽章にただよう雰囲気が作品全体を覆っているように感じられるので、いつの間にか作品のタイトルとしても「夜の歌」と呼ばれるようになってしまったことです。
この事はマーラー自身のあずかり知らぬ事なのですが、いつの間にか「夜の歌」というタイトルは広く世間に流布してしまいました。
問題は、この勝手に作り上げられたイメージが一人歩きをして、そのイメージで作品全体を聴き通すと最終楽章になだれ込んだとたんに何ともいえない違和感を覚えてしまうことです。確かに、先の見えない「あてのなさ」というのはこの作品の中には至るところに存在します。しかし、ここの転換点ほど「とまどい」を覚える場面はありません。
今までの夜の雰囲気が一変して、まるでやけくそのようにティンパニーが連打され、それに導かれるようにこれまたやけくそのようなファンファーレが響き渡ります。それは、陰々滅々と繰り言を繰り返していた男が突然に気がふれたようにはしゃぎだしたような雰囲気です。
しかし、そのような転換がいわゆるベートーベン的な「暗から明への転換」として理解できるのならば「とまどい」はないのですが、この場面における突然の転換はその様なベートーベン的世界とは全く異質のものです。
なぜなら、ベートーベンにしても、その後継者であるブラームスにしても、その様な劇的な転換に至るまでには、その転換が必然的であると感じられるような様々な手練手管をつくすものであって、その様な手段がつくされているからこそ聞き手である私たちはその転換を素直に、さらには感動的に受け入れることができる仕掛けになっているのです。
ところが、この作品の4楽章から最終楽章への転換にはなんの前触れもありません。
それは、まさに突然にやってきます。
ですから、その転換を「暗から明」への、または「苦悩から歓喜」へのベートーベン的転換としてとらえることはできず、喩えてみれば、寝ぼけまなこのパジャマ姿のままで真っ昼間の往来に放り出されたような居心地の悪さを覚えてしまうのです。
ところが、一部にはその様な居心地の悪さに耐えられないのか、第4楽章から最終楽章への転換を「夜(暗)の世界から昼(明)の世界への転換」であると強引に規定してしたうえで、その転換の意味が「理解」出来ないとか、「意味不明」であるとか、果ては「底の浅い出来損ない」であると断罪するムキもあります。
しかし、最初に確認したように、この作品を「夜の歌」と題したのは後世の人の勝手な行いであってマーラー自身にとってはあずかり知らぬ事です。
さらに、マーラーの世界はベートーベンの世界とは全く異質なものです。
それなのに、ベートーベン的な方法論でもってこの作品を勝手に規定して、その観点から底が浅いと批判するのは二重にこの作品を貶めるものだといわなければなりません。
おそらくこの作品は、「交響曲は世界のようでなくてはならい」と語ったマーラーの音楽感が最も顕著な形で具体化されたものだと言えます。
それは、異なった性格を持った二つのテーマを相互に対立させながら展開をしていって、最後の局面でその止揚として一段高いレベルで再現させるというようなベートーベン的方法論とは全く異なる方法論で構築された作品だということです。
では、その異なった方法論とは何か、と聞かれれば残念ながら言葉につまってしまうのですが、あえて言うならば「コラージュ的」方法論だと言えるのかもしれません。お互いにはなんの関係もないような絵や写真を同一平面上に貼り付けていくことで、結果として一つの統一した作品に仕上げていくあのやり方です。
その様にとらえれば、ギターとマンドリンが使われたひっそりとした雰囲気の夜の歌の次に、突然の馬鹿騒ぎが直結したとしてもなんの不都合もありません。重要なのはその様にして貼り付けられた全体が結果としてどのようにおさまるのかと言うことであって、その一つずつのピースの関連性やその関連性の奥に潜むテーマを問うことにはなんの意味もないということになります。
では、マーラーはいったいどのような素材をコラージュの材料として貼り付け、そして結果としてどのような作品をイメージしていたのでしょうか。残念ながらというべきか当然と言うべきか、言葉としては何一つ残されることはありませんでした。
あるのはただスコアだのみです。
ですから、私たちにとっては、音楽とのみ対峙してマーラーが提示した世界読み解いていくしかありません。
そう考えると、私が最初に「まるで先の見えない曲がりくねった道」といったのは適切な比喩ではなかったかもしれません。この作品には、もとからその様な道のようなものは存在せず、マーラーの世界を構築する様々な断面がつぎはぎされたように次から次へと展開していくだけなのかもしれません。その壮大なコラージュ作品を見終わったあとにどのような感想を抱くのかは最終的には一人一人の聞き手にゆだねられていると言うことなのでしょうか。
やはり、どう転んでも「難解」な作品だといわなければなりません。
この録音によって、初めてこの作品を最後まで楽しく聞き通すことができました(^^v
この録音を聞いて、2つの面で「今まで誤解していた俺が悪かった。すまん、すまん」と呟いてしまいました。
まず、一つめの「すまん」なのですが、それは少し前に書き込んだ、
「マーラーがあちこちにイジイジと書き込んだ細かい指示などはほとんど無視して、極めて直線的でメリハリの強い音楽に仕上げています。オケの機能も今と比べれば著しく劣りますから、結果として「それはないだろう」と思うような演奏になっているのですが、それでも最後まで聞き通してみると、不思議なことにマーラー作品に内包されている「狂気」がクッキリ浮かび上がってくるのです。」
と言う部分にたいしてです。
ほめてるのか貶してるのか、よく分からないような物言いだったのですが、この第7番「夜の歌」に関しては申し分なく素晴らしい演奏に仕上がってます。いや、もしかしたら、「申し分なく」どころか、マーラー作品の中では最も理解されにくいこの作品のベストの録音かもしれない!!・・・とすら思えるほどの素晴らしさなのです。
もっと正直に言えば、私自身はこの録音によって、初めてこの作品を最後まで楽しく聞き通すことができたのです。
シェルヘンは1950年にもウィーン交響楽団を使って「夜の歌」を録音しています。
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」 シェルヘン指揮 ウィーン交響楽団 1950年6月22日録音
しかし、その録音に対しては『「アツサ」と「緊張感」が強く感じられ』るものの、オケの機能があまりにも劣るために『あまりにも雑で余裕のない演奏に聞こえることは否めません。』と述べています。
それと比べると、このウェストミンスター・レーベルでの録音はウィーン国立歌劇場の管弦楽団を使っているために、オケの機能に関しては格段の違いがあります。そのために、シェルヘンも己の解釈をストレートに要求することができたのでしょう。極めて真っ当で、ともすれば分裂的になってしまいがちなこの作品を一つの作品としての統一感がもてるように見事にまとめ上げています。
もちろん、こういう解釈と演奏は、もともとが分裂的なマーラー作品の本質をスポイルするものだと言う批判がついて回るであろう事は容易に察しがつきます。しかし、この何とも言えない「まとまり感」は聞き手に優しく、そして理解されがたいこの作品の入り口としては最適な演奏です。
60年代にルガーノで行ったベートーベン演奏を根拠として、シェルヘンを「爆裂型」に分類することの謬りは指摘していました。しかし、分かっていたつもりでも、改めてこういう精緻で整理されきった録音に出会ってみると、私が思っていた以上に彼は「爆裂」の対極にある「理知」的な指揮者であったのだと再認識させられ、一つめの「すまん」になったのです。
二つめの「すまん」はモノラル録音のクオリティに関する「すまん」です。
もともとが、こういう歴史的録音を扱っている人ですから、「モノラルと言うだけで、最初から音が悪いと言って切り捨ててしまうのはあまりにも惜しい」と言うことは主張してきました。しかし、楽器としてのオーケストラを極限にまで使い切り、そのゴージャスで精緻な響きが作品の重要な部分を受け持っているようなマーラー作品だと、さすがにモノラル録音では「苦しい」と思っていました。
ところが、この53年録音の「夜の歌」は、そう言う「苦しさ」は微塵も感じさせない素晴らしさなのです。
結果として、「モノラルでマーラーはきつい」などという認識は全くの思いこみであって、モノラル録音であってもマーラー作品のゴージャスで精緻な響きを再現することはかのなのだと思い知らされました。
これが二つめの「すまん」だったのです。
とは言っても、今やこの録音はほとんど歴史の闇に消え去る寸前です。
改めて、そう言う消してはいけない遺産に光を当てるのも、こういうサイトの重要な役割だと再認識した次第です。
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よせられたコメント
2013-07-15:nakamoto
- 登録完了後の第一弾として、この演奏を選び、その素晴らしさに驚いております。私は演奏や解釈といったものに関心が薄く、どちらかというと、優れた作曲家や作品自体に興味を持ち、発掘することのほうに日々の音楽生活を費やすものですが、この交響曲のような超有名曲に感動できない自分に不甲斐無さをかんじてしまう人間で、今回も新たなるチャレンジとして、この演奏に手が伸びたというわけです。とにかく感謝の一言です。上手く表現する術を知らない私なので、舌足らずになってしまいますが。ウィーンの香りを持ち、20世紀的知的な解釈で、内部を鮮明に浮かび上がらせ、どこまでも楽しい音の連続で、私の理想に完全にマッチした演奏です。これで私もやっとマーラーの第7を語る資格を持てたと感じさせて頂いております。
2015-09-20:Joshua
- 「爆裂」の対極にある「理知」的な指揮者
おっしゃる通りです。シェルヘンは、わたしも晩年ルガーノ放送によるベートーヴェンから入りました。2,4,5,7,9と聴きました。3番、8番を聴きたいと思っていたら、その思いはこのサイトの、ウィーン国立歌劇場で満たされました。8番の終楽章はまさに最速。はてさて、大好きなモーツァルトの29番を聴くと(ウィーン響)、無表情なまでに落ち着いていて遅い。ウィーン響とロイヤルフィルは録音も含めて感銘度が薄いです。国立歌劇場のオケはやはり上手いです。音に厚みがあります。この7番も実に克明な演奏。録音もとてもいい。53年といえば、フルヴェン、ワルター、トスカニーニがやっと聴きやすい音になったころ。シェルヘンは録音にも関わっていたに違いありません。前者3人は録音は技師任せだったんでは、と思います。
冒頭のワグナーチューバ(?)、これ1本で通常吹くと思うんですが、2本(ひょっとして3本)で吹かせてますね。それはそれで違和感ありません。終楽章の遅いこと。クレンペラーの晩年が超スローで話題になりますが、シェルヘンと変わらないですよ。この演奏を知らないと、クレンペラーの唯我独尊と映るわけです。所詮、二人とも前衛音楽を得意とした気鋭の指揮者ですから、似たところがあってもおかしくない。無いものねだりを2つ。1つは、ウィーンフィルのステレオ録音をシェルヘンが残さなかったこと。9番についてはウィーン響でしか録音しなかったこと。後者をいうのは、第1楽章最後にあるホルンソロが癇癪を起したみたいに乱暴な吹き方をしていることです。指揮者の要求だったとしても、もう少し吹き様がある。要するに下手なんです。
マーラーの「夜の歌」、モノラルの名録音で名演奏だったわけですが、今日日曜朝10時に聴いてるパウルファンケンペンもチャイ5を筆頭に名録音でしたね。しかもコンセルトヘボウが、今どきのオケと別次元に上手い!!