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フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwangler)|ワーグナー:トリスタンとイゾルデ
ワーグナー:トリスタンとイゾルデ
フルトヴェングラー指揮 フィルハーモニア管弦楽団 コヴェントガーデン王立歌劇場合唱団 (S)キルステン・フラグスタート (T)ルートヴィヒ・ズートハウス他 1952年6月10〜21、23日録音
Wagner:トリスタンとイゾルデ 「前奏曲」
Wagner:トリスタンとイゾルデ 第1幕第1場
Wagner:トリスタンとイゾルデ 第1幕第2場
Wagner:トリスタンとイゾルデ 第1幕第3場
Wagner:トリスタンとイゾルデ 第1幕第4場
Wagner:トリスタンとイゾルデ 第1幕第5場
Wagner:トリスタンとイゾルデ 第2幕第1場
Wagner:トリスタンとイゾルデ 第2幕第2場
Wagner:トリスタンとイゾルデ 第2幕第3場
Wagner:トリスタンとイゾルデ 第3幕第1場
Wagner:トリスタンとイゾルデ 第3幕第2場
Wagner:トリスタンとイゾルデ 第3幕第3場
愛と情念のドラマ
ワーグナーが書いた数々のオペラの中で最もワーグナー的なオペラがこの「トリスタンとイゾルデ」でしょう。
このオペラはもともと「ニーベルングの指環」を作曲しているときに、それを中断して書かれた作品でした。理由は簡単、「指環」を一生懸命書いているものの、たとえ完成しても上演の見込みは全くない、これじゃ駄目だ・・・、と言うことで一般受けする軽いオペラを書こうと思い立ったのです。
そこで取り上げたのが「トリスタン伝説」、叔父の花嫁と許されぬ恋におち、悲恋の炎に身を焼かれるように死への道をたどる・・・、うーん、いかにも一般受けしそうです。
ところが、台本書いて、音楽をつけていくうちに、だんだんとふくれあがって来るではないですか。第1幕のスケッチが終わった時点で、到底、一般受けする小振りなオペラにはならないことをワーグナー自身が悟ります。第2幕を書き終えた時点で「私の芸術の最高峰だ!」と叫んだそうです。そして、全曲書き終えたときは「リヒャルト、お前は悪魔の申し子だ!」と叫んだとか。
自惚れと自己顕示欲の塊みたいな男ですから、さもありなんですが、しかし、このオペラに関してだけは、この「叫び」は正当なものでした。
しかし、何とか上演される作品を書こうとしたワーグナーの所期の目的は、この作品があまりにも「偉大」なものになりすぎたが故になかなか上演されないという「不幸」を背負ってしまうことになります。とりわけ、主役の二人、トリスタンとイゾルデを歌える歌手がほとんどいないと言うことは、この作品を上演するときの最大のネックとなっています。特に、トリスタンは最後の第3幕はほとんど一人舞台なので、舞台で息を引き取るときは歌手も息を引き取る寸前になる・・・などと言われるほどです。
それから、この作品を取り上げると、お約束のように、前奏曲の冒頭にあらわれる「トリスタン和音」や、無限旋律のことが語られ、それが20世紀の無調の音楽に道を開いたことが語られます。
私は専門家ではないので、こういう楽典的なことをはよく分からないのですが、ただ、ワーグナー自身は「調性の破壊」などという革命的な意図を持ってこの作品を書いたのではないと言うことだけは指摘しておきましょう。頭でっかちの聴き方でこの作品に接するといろいろな聴き方もできるのでしょうが、ごく自然にこの音楽に耳を傾ければ、愛と死に対する濃厚な人間の情念が滔々たる流れとして描かれていることが納得できるはずであり、その世界は極めて安定した調和のある世界として描かれています。
あのトリスタン和音にしても、そう言う安定した調性の世界の中で響くからこそ一種独特の不思議な響きが引き立つのであって、決して機能和声の枠から外れたその響きが作品全体を構成するキイとはなっていないのです。
ただし、ワーグナーが用いたこの響きの中に、全く新しい音楽の世界を切り開く可能性を見いだし、その上に20世紀の無調の音楽が発展したことも事実です。しかし、それはワーグナーにとっては全く与り知らないことであり、そう言う「前衛性」でこの作品を評価するような声を聞くと、私のような「古い人間」は首をかしげざるを得ません。
<主な登場人物>
* トリスタン(Tristan) (テノール)
* マルケ王(Marke) (バリトン)
* イゾルデ(Isolde) (ソプラノ)
* クルヴェナル(Kurwenal) (バリトン)
* メロート(Melot) (テノール)
* ブランゲーネ(Brangane) (メゾ・ソプラノ)
* 牧人 (テノール)
* 舵手 (バス)
* 若い水夫の声 (テノール)
<話のあらすじ>
第1幕
舞台は船上。
騎士トリスタンは叔父であるマルケ王に嫁ぐ王女イゾルデを迎えにきたところです。しかし、トリスタンとイゾルデの間には深い因縁がありました。
それは、イゾルデは婚約者を殺した仇と知りながらトリスタンを愛してしまった過去があるからであり、トリスタンもまたイゾルデを深く愛していた自分に気づくことになるからです。
しかし、イゾルデは自分を迎えにきた使者がトリスタンであることを知り苛立ちと怒りを募らせます。
おそらく、トリスタンが自分を妻として迎えにきたならば、彼女は躊躇うことなく彼の腕の中に身を投じたでしょう。しかし、叔父の花嫁ととしてトリスタンが自分を迎えにきたことを知ったイゾルデは怒りを爆発させ、彼を責め立てます。そして、ともに毒薬をあおって死ぬことを画策するのですが、侍女のブランゲーネが毒薬を「愛の妙薬」にこっそりと取り替えてしまいます。
死ぬつもりで毒薬をあおった二人は、死ぬどころか許されぬ禁断の愛に陥ってしまいます。
お話はこうなっています。
しかし、ワーグナーの音楽は、「言葉」を超えてそれ以上のものを語ります。二人が「愛の妙薬」をのんだ後に場面が一気に夜の世界に移行し、震えるように下行するチェロの響きとそれに続く前奏曲冒頭部分の再現は、二人の愛は薬によるものではなくて宿命的なものでったことを雄弁に物語ります。
まさに、トーマス・マンが語ったように「このとき彼らは媚薬ではなくて、水を飲んでもよかった・・・。」のです。
第2幕
舞台はマルケ王の城内。
王妃となったイゾルデは、マルケ王が狩りに出かける時を待ってトリスタンとの密会を企てます。ブランゲーネは密告者がいるかもしれないといってイゾルデを窘めますが、トリスタンへの思いに現実を見失っているイゾルデは全く耳を貸そうとしません。
やがて松明の明かりを消すとトリスタンが現れて、二人は激しく抱擁し愛の語らいを始めます。およそ30分にもわたる長大な「愛の二重唱」です。
そして、松明は命の象徴であり、それを消すことは「死」を意味することから、この場面は「愛」と「夜」と「死」が一体のものであることが暗示されます。
二人の二重唱がクライマックスに達したときに、突然ブランゲーネの叫びが響き、それに続くクルヴェナルの言葉が場面を一気に「夜」から「昼」へと転換させます。
二人の裏切りを知ったマルケ王は深い悲しみを歌い、トリスタンは自らメロートの剣に身を投げて深い傷を負います。
第3幕
舞台はトリスタンの居城カレオール。
深傷を負ったトリスタンは朦朧とした意識の中で過去を回想し、イゾルデとの再会を渇望します。クルヴェナルはそんな主人のためにイゾルデを呼び寄せようとします。
牧人の笛にトリスタンのモノローグが重なり、音楽は次第々々に高揚を続け、「昼の光、かくもの苦しみをもたらした呪われた昼」との思いに達すると、いよいよそこから「テノール殺し」と呼ばれた長丁場に突入していきます。
錯乱したトリスタンはイゾルデが乗る船の幻を見て、イゾルデへの憧れを歌い続けます。また、そう言う運命をもたらした愛の薬への呪いを口にするのですが、やがて極限状態の中で美しいイゾルデの姿へとたどり着きます。その瞬間、音楽はホ長調の美しい安定した音楽へと一変します。
そこへ、イゾルデの到着を告げる笛の音が響きます。
しかし、トリスタンの命はまさに消えかける寸前であり、駆けつけたイゾルデの腕の中で息絶えます。
間もなく、笛の音は第二の船の到着を知らせ、マルケ王の一行がやってきます。マルケ王は侍女のブランゲーネから全ての事情を聞かされて二人を許すことを決心してやってきたのですが、すでにトリスタンもクルヴェナルもメロートも息絶えています。
驚き悲しむ王がイゾルデに、「なぜにわしをこういう目に合わせるのだ」と問いかけると、イゾルデが「穏やかに、静かに、彼が微笑み」という言葉で始まる、名高い「イゾルデの愛と死」が始まります。
彼女が歌うのは天に昇るトリスタンの姿であり、やがてイゾルデも恋人の亡骸の上に身を投げて息絶えます。
音楽は次第に静まり、前奏曲冒頭の「憧れの動機」が最後にあらわれて、静かに全曲を閉じます。
この録音で初めてトリスタンを知った
この作品は上演すること自体がかなり困難だったと言うことは、録音するとなるとさらに困難だったと言うことです。
記録を調べてみると、取りあえずは20年代に全曲録音されているようですが、残念ながら大幅なカットがされていて、到底「全曲録音」とは言えない代物だったようです。その意味では50年に発売されたコンヴィチュニーのものが初録音と言うことになるのですが、これも平林直哉氏によると放送録音を転用したもののようで、いわゆるレコードのために本格的に録音されたのはこのフルトヴェングラー盤が実質的には初録音と言えるそうです。
これは考えてみると驚くべき「遅さ」です。
しかし、それ以上に驚くのは、この「初録音」がこの作品の決定的盤とも言うべきポジションを今もって堅持していると言うことです。おそらく、その作品の「初録音」=「決定盤」なんて言うのはこれ以外には存在しないのではないでしょうか?
また、「録音」という行為にどうしても信頼感がもてなかったフルトヴェングラーも、このトリスタンの録音によってその可能性に確信を持ったとも言われています。実際、彼の録音の中ではこれを「ベスト」だと言い切っています。(後、何とか満足できるものとして、シューマンの4番とシューベルトのグレイトをあげていたような記憶があります)
昨今はこの大悲恋物語と濃厚なエロティシズムは「重すぎる」ようで、できる限り「軽く」演奏するのが一般的になっているようです。中には、トリスタンとイゾルデが乗る船がエーゲ海を行くクルーザーになっていて、二人の恋は一夏のアバンチュールになっている演出もあったりします。
しかし、トリスタンとイゾルデと言う物語がそんな「軽い」ものであっては困るのです。そして、フルトヴェングラーによるこの録音を聞くと、やはり「トリスタンとイゾルデ」はこうでなくっちゃいかん!と思うのです。(ただし、これを3幕続けて聞き通すのはかなりの体力と気力が必要です。私は、普通は1幕ずつ聞きます。そうでないと、身が持たない・・・^^+)
誰とは言いませんが、下手な指揮者の手にかかると、何だかダラダラと音楽が流れていって何ともとりとめのない印象しか残らなかったりするのですが、さすがにフルトヴェングラーは凄いです。
音楽は大河のように滔々と流れながら、そこにドロドロの情念のドラマが熱く展開していきます。
フルトヴェングラーは叙事的な物語を整理しながら語っていくのはあまり得意ではないようですが(例えば、「指環」)、こういう情念のドラマとなると何人も追随を許しません。もちろん、クライバーさんも凄いのですが、あちらが青白い情念の炎を燃やした演奏だとすれば、これはロマンティックな熱い炎を燃やした演奏です。
一部では、フラグスタートが第2幕で出なかった高音の部分をシュヴァルツコップの声で代替したとか、トリスタンのズートアウスが弱いとかいってこの録音の価値に疑問を呈する向きもあるようですが、おそらくそんなことを言う人はこの録音を実際に聞いたことがないのだと思います。もしも、この録音を実際に聞いてみてそんなことが気になる人がいるなら、おそらく私の人生と交わることは絶対にない人たちでしょう。
オケがフィルハーモニアではなくてVPOだったらもっとよかったのに・・・とか、モノラルだから聞く気がしないという人たちもこれまた同様です。
おそらく、この録音の価値は永遠に残ることでしょう。
・イゾルデ:キルステン・フラグスタート
・トリスタン:ルートヴィヒ・ズートハウス
・ブランゲーネ:ブランシュ・シーボム
・マルケ王:ヨーゼフ・グラインドル
・クルヴェナール:ディートリヒ・フィッシャー・ディースカウ
・メロート:エドガー・エヴァンス
・牧童:ルドルフ・ショック
・水夫:ルドルフ・ショック
・舵手:ロデリック・デイヴィズ
コヴェントガーデン王立歌劇場合唱団
(合唱指揮:ダグラス・ロビンソン)
フィルハーモニア管弦楽団
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よせられたコメント
2009-06-16:W. Amadeus M.
- 待ちに待った録音です。未だ、この録音を超える「トリスタン」は存在していないでしょう。とりあえず長い楽劇ですが、一回かけ始めると、CD一枚が終わるまで止めることはできません。恐るべき引力です。これぞ、ヴァーグナー、これぞ、フルトヴェングラー、この一枚だけでフルトヴェングラーの名は歴史に留められるでしょう。
前奏曲の「トリスタン和音」をこれほど感動的にならせる指揮者がほかにいるでしょうか? その後の官能的なうねりを、これほど官能的に振れる指揮者がいるでしょうか?
2011-04-16:m
- ユングさんのHPからの録音を知り、この演奏の約50年前のLPと約25年前に初めてCDで発売された時買い求めたCD、そしてユングさんのHPからの録音の聴き比べをしてみました。
LPレコードの解説に高木卓という方が「トリスタンとイゾルデの響きの秘密」として文章を書いていました。
・・・あれほど画期的な作品でありながら、作曲者自身はトリスタンとイゾルデの響きの「新しさ」について実際の演奏まで、はっきりした自覚を持っていず、公開前の演習で驚くべき発見をしたのであった。
その時の印象をマチルダ・ヴィーゼンドンク宛の手紙(1860.1.28)ではこう書いている。
「・・・団員達には不可解な新しさなのでした。
その為私は、音符の一つ一つを、まるで坑内の宝石発見の時さながらに、演奏者たちに教えるほかなかった。」・・・こういった書き出しで始まる解説の文章を中学生の私は実感する事が出来ませんでしたが、最近少し解ってきたような気になっています。
この響きの宝石をもっとも素晴らしい形で留めたのがこの録音なのでしょうね。
今回LP,CD、ユングさんのHPからの再生と聞き比べて少し不思議に思った事があります。
LPの音も決して悪くないのです。
明晰さという点では劣るものの、居心地が良いのです。
我々が実際の劇場で聞く音楽は周囲のノイズの為か明瞭では無く、LPのノイズが却って居心地の良さをもたらしているのかもしれないなどと思ってしまいました。
大叔母がフルトヴェングラーの実演を聞いた印象を話してくれた事が有ります。
独特の響きだったようです。
吉田秀和氏も同様の事を書かれていました。
「他界の音」という言葉を使われていたように記憶しています。余談ですが、数年前NHKが吉田氏の特集番組を放映した時大叔母と一緒に撮影された写真が写しだされ個人的にはびっくりしました。
この他界の音がはっきり残されている録音は、フルトヴェングラーのトリスタンと大戦中のいくつかの録音程度しかないような気がしています。
また音符が読めない私の様な人間にとっては、他界の音を実演で経験するのは奇跡的な事なのかもしれないと最近良く思います。音楽を良くご存じの方々はまた違った見方聴き方が出来るのでしょうが。25年前に聴いたバーンスタイン指揮のマーラーの9番の演奏の響きは私にとっては他界の音でした。
その後あの演奏を超える音楽体験はしていないように思っています。
バイロイトでもザルツブルグでも音楽祭の演奏は実に見事で素晴らしいのですが。見事で素晴らしい商品と言うのは冒涜でしょうか? 音楽がどうしても生きていく為に必要だというような切実さが無い世界は幸せでもあり、一面不幸なのでしょうか?
そんな中にあってユングさんのHPは新しい発見をもたらしてくれます。
音楽のもう一つの側面「味」の様なものを教えてくれます。
ティボー演奏のフランクのソナタ。ビターリのシャコンヌがハイフェッツが弾くと違った音楽になるのは新しい発見でした。ワルターのモーツアルト集も驚かされます。
これらもある面では他界の音の様な気がします。
ユングさんのHPからのトリスタンを聴き比べの最後に聴きながらそんな事を思いました