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レナード・ペナリオ(Leonard Pennario)|リヒャルト・シュトラウス:ブルレスケ ニ短調
リヒャルト・シュトラウス:ブルレスケ ニ短調
(P)レナード・ペナリオ:小澤征爾指揮 ロンドン交響楽団 1965年8月9日~10日録音
Richard Strauss:Burleske in D Minor
最後まで「無意味な作品」と判断されていたとは驚かされます
リヒャルト・シュトラウスは1885年にマイニンゲンの管弦楽団にビューローの補助指揮者として就任し、その後すぐにビューローがマイニンゲンを去ってしまったので、翌年の4月まで首席指揮者をつとめることになります。しかし、それは指揮者であることよりも作曲家であることを目指していたシュトラウスにとってはそれほど有り難い話ではなかったようです。
マイニンゲンの首席指揮者というのはかなり多忙な仕事のようで作曲のための時間がほとんど取れなかったようです。そのために、その間に彼が完成させた作品はこの「ブルレスケ」だけでした。
「ブルレスケ」とはユーモアと辛辣さを兼ね備えた剽軽でおどけた性格をもった楽曲のスタイルを表す言葉で、シュトラウスは最初はこの作品に「スケルツォ」というタイトルを与えていました。「スケルツォ」はもとは「メヌエット」に変わって用いられるようになった音楽のスタイルで、皮肉と諧謔性をもった音楽です。
雰囲気としては「スケルツォ」の方が「ブルレスケ」よりもより皮肉が辛らつと言う感じがあるでしょうか。
しかしながら、この「ブルレスケ」は彼が首席指揮者をつとめていたマイニンゲンの管弦楽団でシュトラウス自身のピアノで試演されたのですが、結果はは思わしくなく、シュトラウス自身も「無意味な作品」と判断したようです。ただし、その理由はピアノだけでなくオーケストラにとっても演奏至難な部分が多くて「難しすぎる」と楽団員から苦情もでて、作品の真価が十分に発揮されなかったことも大きな要因となったようです。
そして、当初この作品を献呈されたビューローも「演奏至難」としてその献呈を断り演奏も拒否された事も大きく影響を与えたようです。
実際、ビューローはその生涯においてこの作品をピアニストとして演奏することは一度もなかったようです。(指揮はしたことがあるようです)
しかし、風向きが変わるのはシュトラウスがワイマールの歌劇場に拠点を移し、そこでピアノの巨匠と称されていたダルベールと出会ったことでした。シュトラウスから「ブルレスケ」の楽譜を見せられたダルベールは「すぐにこの作品を解放してあげるべきだ」と主張しなす。
そして、その熱意に押されてシュトラウスはダルベールの協力も得て1890年6月にアイゼナハの市立歌劇場で初演を行います。
その初演は残念ながら「大成功」とは行かず、かといって不評を買うこともなく、聴衆の反応は可もなく不可もなくだった様ようです。ところが、何故か大手の出版社から楽譜の出版の申し入れがあり、かなり高額な金額が提示されます。ところが、シュトラウスにしては珍しく、その高額な金銭の提供に未練を残しながらも、最終的には「やはり出版に値しない無意味な作品」と判断してその申し入れを断ってしまいます。
しかし、その後、何があったのかは分かりませんが、その数年後に、別の小さな出版社から楽譜を出版させます。
つまりは、シュトラウス自身もこの作品の「価値」に関して随分と揺れ動くものがあったようなのです。
シュトラウスはリストやワーグナーからの影響を受け、その後は新古典主義的な作品にも力を傾注していくのですが、もともとはビューローからの影響や、マイニンゲンで実際にブラームスと出会ったこともあって、作曲家としての出発点はブラームス的なものでした。
ブラームスと言えば繊細なピアニズムとダイナミズムが同居するような人なのですが、その影響を受けて書かれた最後の作品とも言えるのがこの「ブルレスケ」だったと言えます。
もしかしたら、そう言う「ブラームス的」な側面が強いと言うことが、シュトラウスのこの作品に対する判断に影を落としたのかもしれません。つまりは、ブラームス的な性格を持った作品としては十分に評価に値するものの、シュトラウス自身はその世界から離れつつあったのです。
ただし、ピアニストとしても抜群の腕前を持っていたにもかかわらず、いわゆる「ピアノ協奏曲」と言えるような作品は実質的にこれ一曲です。さらに、後の「ティル・オイレンシュピーゲルの悪戯」を思わせるようなオーケストラの動きも垣間見ることが出来て十分に魅力的です。
結果的に、シュトラウスはこの作品に「作品番号」を与えなかったのですが、それでも十分に聞くに値する魅力を持った作品だと言えます。
もっと聞かれてもいピアニスト
小澤征爾は1965年8月と12月にピアニストの「レナード・ペナリオ」、ヴァイオリニストの「エリック・フリードマン」の伴奏者としてロンドン響を指揮して録音する機会を得ています。その直前の6月にはシカゴ響を指揮して、同世代のピアニストである「ピーター・ゼルキン」とバルトークの協奏曲を録音しています。
おそらく、小沢にとってはメジャーレーベルにおいて、世界的レベルのオケを指揮して録音した一番最初の経験でしょう。
ピーター・ゼルキンについてはまた別の機会に詳しく述べたいと思います。
フリードマンに続いて紹介したいのがレナード・ペナリオとの共演による録音です。
フリードマンについては随分と辛口な事を書いてしまったのですが、レナード・ペナリオはフリードマンとは真逆で、その実力のわりには知名度が低すぎるように思われます。それは、協奏曲ではそれなりに自己主張はするのですが、室内楽になると共演者のことを思いやって基本的には引き気味になる事が原因となっているのかも知れません。つまりは、万事、どこか控えめな面があったようなのです。
おかしなたとえですが、たとえば室内楽を「100メートル×4」の4継リレーに例えれば、第3走者のような存在と言っていいのかもしれません。4継リレーというのは第2走者と第4走者にエース級を持ってくるのが基本です。第2走者で差がつきすぎとレースは終わってしまいますし、第4走者はそこで決着がつくのですから、そこにチームで一番総力のある走者を持ってくるのです。
しかし、その両者をつなぐ第3走者というのは、そのエースからバトンを受け取ってもう一人のエースであるアンカーにつなぐという非常に困難で重要な役割を担います。
もちろん、リレーといえども個々の総力が基本ですが、バトンリレーで詰まったり流れたりすれば大きなロスになりますし、時にはバトンそのものを落としてしまうことにもなりかねません。さらに、それぞれの走者の走りはその日の調子によって大きく変わります。
あらかじめ決めたスタートポイントは基本にはなるのでしょうが、第2走者の調子によって瞬時にスタートするポイントを変更する決断が求められるのが第3走者ですし、何が何でもアンカーに引き継ぐのが第3走者の役割です。
そう言う難しいことを、自分よりも基本的に総力のある走者との間でやらなければいけない第3走者こそは、ある意味ではリレーのスペシャリストと言える存在なのです。
そういう風に複数の走者と奏者が有機的につながって成り立つのがリレーと室内楽だと思うのですが、それはエーズだけでは成り立たず、第3走者のような存在が極めて重要なのです。そして、そう言う役割をいつも淡々と確実にミスなくこなしていく能力を持っていたのがレナード・ペナリオなのです。
ですから、協奏曲においてもソリストにありがちな我が儘な面はほとんどない人だと言えます。
それは、伴奏指揮者が駆け出しの若手であっても同様だったようで、そういうペナリオに対して小沢はピッタリと伴奏をつけています。もちろん、ロンドン響もよく鳴っています。
また、リヒャルト・シュトラウスの「ブルレスケ」ではオケは伴奏に徹しているだけでは駄目で、要所要所でピアノとの掛け合いが求められますが、その辺の気配りも出来るのがペナリオというピアニストですし、小沢もそれに応えてしっかりとロンドン響をコントロールしています。
また、この作品の最後のところでとんでもなく難しいカデンツァ(この作品を献呈されたハンス・フォン・ビューローが演奏困難として演奏を拒否した)が登場するのですが、それもまた見事にペナリオは弾ききっています。
おそらく、もっと聞かれてもいピアニストと言っていいでしょう。
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よせられたコメント
2020-11-22:コタロー
- この作品は、最初のテーマが4台のティンパニのみで演奏されるという奇抜なアイデアが取り入れられています。私はこの曲を聴くたびに、ブラームスのピアノ協奏曲第2番の第2楽章を思い浮かべてしまいます(調性も同じニ短調です!)。もしかして、この曲を下敷きにして作曲されたのではないかと思うこともままあります。ちなみに私がCDで持っているのは、ゼルキンのピアノのものです(伴奏指揮はオーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団)。
それに比べると、ペナリオの演奏は中庸の美を感じさせるもので、小澤征爾とも相性がよく、無難にまとめています。もともと録音の多くない作品なので、この演奏はそれなりに貴重といえるでしょう。