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ミトロプーロス(Dimitris Mitropoulos)|プロコフィエフ:「キージェ中尉」 組曲, Op.60(Prokofiev:Lieutenant Kije suite, Op.60)
プロコフィエフ:「キージェ中尉」 組曲, Op.60(Prokofiev:Lieutenant Kije suite, Op.60)
ディミトリ・ミトロプーロス指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック 1956年2月27日録音(Dimitris Mitropoulos:New York Philharmonic Recorded on February 27, 1956)
Prokofiev:Lieutenant Kije suite, Op.60 [1.Birth of Kije]
Prokofiev:Lieutenant Kije suite, Op.60 [2.Romance]
Prokofiev:Lieutenant Kije suite, Op.60 [3.Kije"s Wedding]
Prokofiev:Lieutenant Kije suite, Op.60 [4.Troika]
Prokofiev:Lieutenant Kije suite, Op.60 [5.Kije"s Funeral]
転換点の最初に位置する作品
ロシア革命で故郷を離れたプロコフィエフですが、結局はロシアという故郷を捨てては創造的意欲がわかないと言うことで、1932年にソ連に帰国することになります。
そして、プロコフィエフはそれを切っ掛けにして作風をガラッと変えてしまいます。一言で言ってしまえば、当時のソ連が強く主張していた「社会主義リアリズム」に添った「分かりやすい音楽」を書くようになるのです。
そして、その転換点の最初に位置するのがこの「キージェ中尉」です。
これは、映画の音楽として作曲され、映画「キージェ中尉」は1934年に封切られています。そして、プロコフィエフはそれと同時に、映画音楽の中から以下の5曲を選び出して交響組曲「キージェ中尉」を完成させます。初演は映画の封切りに合わせて1934年にモスクワで行われました。
- キージェの誕生
- ロマンス
- キージェの結婚
- トロイカ
- キージェの葬送
ただし、この組曲は映画音楽から単純に抜粋しただけでなく、主題やオーケストレーションも含めて大幅に手が加えられていて、作曲家としてのプロコフィエフの腕の冴えが遺憾なく発揮された音楽になっています。
お話しは、昼寝をしていた皇帝が女官の叫び声で目覚め、それに癇癪を起こして警備責任者を問い糾したことから始まります。侍従が調べてみると、名簿には「中尉」としか書かれておらず、「中尉・・・ですが(ポルーチキ・ジュ)」という言葉を皇帝は「キージェ中尉(ポルーチキ・キージュ)」と聞き間違えてしまうのです。
怒った皇帝はこの存在しない「キージェ中尉」をシベリア送りにしてしまいます。
しかし、もとから神経衰弱だった皇帝は、ある時キージェ中尉はわざと女官に叫び声を出させて自分を暗殺者から守った忠義者だと思うようになっていきます。
そこで、急遽、皇帝はキージェ中尉をすぐにシベリアから呼び戻し、さらには美しい女官と結婚させることにします。
侍従たちは皇帝の意志には逆らえず、存在もしないキージェ中尉のために盛大な結婚式を挙げることになります。そして、その後もこの存在しないキージェ中尉によって様々な事件が巻き起こされることになり、ついに皇帝のまわりの者たちはキージェ中尉は亡くなったことにしてしまいます。
すると、忠義者のキージェ中尉の死を悼んだ皇帝は厳かな葬式を催すように命じます。そして、実在もしないキージェ中尉の葬列に皇帝は涙して彼の冥福を祈るのです。
言うまでもなく、そこにあるのはロシアの貴族階級や皇帝の無知無能ぶりを風刺したお話しですが、それこそが当時のソ連の「社会主義リアリズム」が求めたものであり、それに添って作曲されたのがこの作品でした。
しかし、驚くべきは、そう言う制約の中でも十分に聞くに値する音楽に仕上げてしまっているプロコフィエフの名人芸です。
例えば、第4曲のトロイカはシベリアの大雪原を疾走する姿を思い描かせる音楽なのですが、使われている主題はロシアの「戯れ唄」が使われています。「女心は居酒屋のようだ・・・誰でも怖がらないで私のところにおいで」みたいな歌なのですが、そう言う「戯れ唄」を使ってこの勇壮な音楽に仕上げているのです。
そして、こうして組曲になってみれば、これがもとは映画音楽であったとは思えないほどに立派な交響組曲になってしまっているのです。
ソ連に帰ってからのプロコフィエフの作品はあまり評価されず、彼への評価の大部分は若い時代の尖った作品によるところが大きいのですが、つまらぬイデオロギーなどは無視して聞いてみれば、その親しみやすさの奥にある名人芸は注目するに値するのではないでしょうか。
不完全性への寛容
昨今は右を見ても左を見てもAI絡みの話題があふれています。
すでに、AIの進歩は勝ち負けがはっきりするゲームにおいては人間の領域をはるかに凌駕してしまいました。さらに、生成AIは文章や画像などをまるで人間が作ったかのように作り出します。
おそらく、近いうちに生成AIはやがては、まるで人間が演奏したかのような音楽を生み出すことになるでしょう。
さらに言えば、例えば数学の世界で未だ未解決の課題がAIによって見事に証明されたり、物理の世界で今までの常識を覆すような理論が生み出されてしまうような事が起こるかもしれません。
そうなれば、人間というものの存在意義が疑念に去らされるような事態になるかもしれません。
しかし、すでに人間の領域をはるかに凌駕している将棋のような世界でも、人間同士による対局に意味がなくなる事はありませんでした。どれほど、AIがそれぞれの局面で最善手を示しても、人間同士の対局にはそれだけでない魅力が詰まっていることに私たちは気づかされたのでした。
おそらく、そう言う人間が持つ不完全性というものが、人間という存在というものが持つ意義を支えてくれるという、おかしなパラドックスが生じるのかもしれません。
おそらく、作曲家の楽譜に従って正確に演奏することだけが理想とするならばすでに人間はAIにかなわない領域が存在します。
おそらく、AIはそう言う完璧さだけでなくでなく、人間くさい演奏解釈などと言うものも身につけていくかもしれません。
今さら言うまでもないことですが、楽譜というものは絶対的なもののように見えて、その実は極めて曖昧な存在で、作曲家が伝えたいものを完璧に伝えきれるような存在ではありません。
その「伝えきれない」部分に関して「解釈」というものが入り込む必然性があります。
演奏家は楽譜を前にしたときにそこに己の解釈に基づいた何らかの確信の様なものをつかみ取る必要があります。
しかし、その事もいつかAIは身につけていくでしょう。
そうなれば、人間による音楽演奏というものはどうなるのかという危惧が芽生えてきます。
しかし、そう言う時代になっても人間による演奏が意味を失うことはないと私は信じています。
それは、人間が持つ不完全性が人間の存在意義を担保すると信じるからです。
例えばオーケストラ演奏を例にとってみれば、指揮者の作品に対する解釈とその解釈に対する確信がいかに確固たるものであっても、そこに不完全な人間による合奏で音楽は作りあげざるを得ないという不完全性が消えることはないからです。
それは、どれほど執拗にリハーサルを重ね、鬼のようにオケを締め上げてもその不完全性が消え去ることはありません。
そして、その不完全性こそがAIには不可能な人間だけが持つ魅力を担保するのです。
それは、将棋などにおける、間違いだらけの人間同士の対局が持つ面白さとどこか通じるものがあるのかもしれません。
前振りがあまりにも長くなりすぎました。(^^;
何故、急にこんな事をいいだしたのかと言えば、ミトロプーロスが残した録音を次々と聞いていくと、彼が持つ不完全性への寛容さに気づかざるを得なかったからです。
彼の音楽は常に己への強い確信に貫かれています。しかし、それを現実の音に変えてくれる個々のオーケストラプレーヤーの不完全性に対しては実に寛容でした。
彼はオケに対して声を荒げるようなことは絶対になかったそうです。これはトスカニーニを筆頭に強面系の指揮者が普通だった当時のアメリカでは異例の存在でした。
そして、さらに驚くのはその様な寛容性の中で、それでも最後には見事に彼ならではの音楽に仕上げてしまうのです。その嘘のような統率力には驚嘆するしかありません。
そして、ミトロプーロスが持つオーケストラへの寛容性は結果的には音楽をすることの喜びのようなものをあふれ出させます。
おそらくそう言う人間が宿命的に持たざるを得ない不完全性を受け入れる彼の音楽は、AIによる「完璧」な演奏とは異なる魅力を持ち続けることでしょう。
決して彼の残した録音の多くは名盤とよばれるようなことはないのでしょうが、こういう熱さと喜びに満ちた音楽というものもまた聞くものにとっては大いに魅力的です。
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