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ショルティ(Georg Solti) |モーツァルト:交響曲第25番 ト短調 K. 183
モーツァルト:交響曲第25番 ト短調 K. 183
ゲオルク・ショルティ指揮 ロンドン交響楽団 1954年4月21日~22日録音
Mozart:Symphony No. 25 in G Minor, K. 183 [1.Allegro con brio]
Mozart:Symphony No. 25 in G Minor, K. 183 [2.Andante]
Mozart:Symphony No. 25 in G Minor, K. 183 [3.Menuetto - Trio]
Mozart:Symphony No. 25 in G Minor, K. 183 [4.Allegro]
ザルツブルグにおける宮仕え時代の作品・・・ザルツブルグ交響曲
ミラノでのオペラの大成功を受けて意気揚々と引き上げてきたモーツァルトに思いもよらぬ事態が起こります。
それは、宮廷の仕事をほったらかしにしてヨーロッパ中を演奏旅行するモーツァルト父子に好意的だった大司教のシュラッテンバッハが亡くなったのです。そして、それに変わってこの地の領主におさまったのがコロレードでした。
コロレードは音楽には全く関心のない男であり、この変化は後のモーツァルトの人生を大きな影響を与えることになることは誰もがご存知のことでしょう。
それでも、コロレードは最初の頃はモーツァルト一家のその様な派手な振る舞いには露骨な干渉を加えなかったようで、72年10月には3回目のイタリア旅行、さらには翌年の7月から9月にはウィーン旅行に旅立っています。
そして、この第2回と第3回のイタリア旅行のはざまで現在知られている範囲では8曲に上る交響曲を書き、さらに、イタリア旅行とウィーン旅行の間に4曲、さらにはウィーンから帰って5曲が書かれています。これら計17曲をザルツブルグ交響曲という呼び方でひとまとめにすることにそれほどの異論はないと思われます。
<ザルツブルク(1772年)>
交響曲第14番 イ長調 K.114
交響曲第15番 ト長調 K.124
交響曲第16番 ハ長調 K.128
交響曲第18番 ヘ長調 K.130
交響曲第17番 ト長調 K.129
交響曲第19番 変ホ長調 K.132
交響曲第20番 ニ長調 K.133
交響曲第21番 イ長調 K.134
K128?~K130は5月にまとめて書かれ、さらにはKK132とK133Kは7月に書かれ、その翌月には134が書かれています。
これらの6曲が短期間に集中して書かれたのは、新しい領主となったコロレードへのアピールであったとか、セット物として出版することを目的としたのではないかなど、様々な説が出されています。他にも、すでに予定済みであった3期目のイタリア旅行にそなえて、新しい交響曲を求められたときにすぐに提出できるようにとの準備のためだったという説も有力です。
ただし、本当のところは誰も分かりません。
この一連の交響曲は基本的にはハイドンスタイルなのですが、所々に先祖返りのような保守的な作風が顔を出したと思えば(K129の第1楽章が典型)、時には「first great symphony」と呼ばれるK130の交響曲のようにフルート2本とホルン4本を用いて、今までにないような規模の大きな作品を仕上げるというような飛躍が見られたりしています。
アインシュタインはこの時期のモーツァルトを「年とともに増大するのは深化の徴候、楽器の役割がより大きな自由と個性に向かって変化していくという徴候、装飾的なものからカンタービレなものへの変化の徴候、いっそう洗練された模倣技術の徴候である」と述べています。
<ザルツブルク(1773年~1774年)>
交響曲第22番 ハ長調 K.162
交響曲第23番 ニ長調 K.181
交響曲第24番 変ロ長調 K.182
交響曲第25番 ト短調 K.183
交響曲第27番 ト長調 K.199
交響曲第26番 変ホ長調 K.184
交響曲第28番 ハ長調 K.200
交響曲第29番 イ長調 K.201
交響曲第30番 ニ長調 K.202
アインシュタインは「1773年に大転回がおこる」と述べています。
1773年に書かれた交響曲はナンバーで言えば23番から29番にいたる7曲です。
このうち、23・24・27番、さらには26番は明らかにオペラを意識した「序曲」であり、以前のイタリア風の雰囲気を色濃く残したものとなっています。
しかし、残りの3曲は、「それらは、---初期の段階において、狭い枠の中のものであるが---、1788年の最後の三大シンフォニーと同等の完成度を示す」とアインシュタインは言い切っています。
K200のハ長調シンフォニーに関しては「緩徐楽章は持続的であってすでにアダージョへの途上にあり、・・・メヌエットはもはや間奏曲や挿入物ではない」と評しています。
そして、K183とK201の2つの交響曲については「両シンフォニーの大小の奇跡は、近代になってやっと正しく評価されるようになった。」と述べています。
そして、「イタリア風シンフォニーから、なんと無限に遠く隔たってしまったことか!」と絶賛しています。
この絶賛に異議を唱える人は誰もいないでしょう。
時におこるモーツァルトの「飛躍」がシンフォニーの領域でもおこったのです。
そして、モーツァルトの「天才」とは、9才で交響曲を書いたという「早熟」の中ではなく、この「飛躍」の中にこそ存在するのです。
54年の4月に集中的に録音されたモーツァルトの2曲とハイドンの1曲には揺り返しのようなものが感じられます
この頃のショルティの交響曲録音などと言うものは殆ど話題にもならないし、そして、その事に問題があるとは思わないのですが、それでも時代を追って聞いていくといろいろと興味深い事実に突き当たります。
ショルティの50年代前半までの交響曲録音をピックアップすると以下のようになります。
ハイドン:交響曲第103番 変ホ長調「太鼓連打」:ゲオルク・ショルティ指揮 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団 1949年8月録音
ベートーベン:交響曲第4番 変ロ長調 作品60:ゲオルク・ショルティ指揮 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団 1950年11月録音
ハイドン:交響曲第102番 変ロ長調:ゲオルク・ショルティ指揮 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団 1951年11月録音
メンデルスゾーン:交響曲 第3番 イ短調 作品56「スコットランド」:ゲオルク・ショルティ指揮 ロンドン交響楽団 1952年11月録音
モーツァルト:交響曲第38番 ニ長調 「プラハ」 K. 504:ゲオルク・ショルティ指揮 ロンドン交響楽団 1954年4月21日~22日録音
モーツァルト:交響曲第25番 ト短調 K. 183:ゲオルク・ショルティ指揮 ロンドン交響楽団 1954年4月21日~22日録音
ハイドン:交響曲第100番 ト長調「軍隊」:ゲオルク・ショルティ指揮 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団 1954年4月録音
こういうデータというものは無味乾燥なものではあるのですが、それでも、ショルティの望みはベートーベンの交響曲全集を録音することだったという事実を思い出せば、そのデータの裏からショルティの苛立ちのようなものが感じ取れます。
見れば分かるように地味なラインナップであり、おそらくはDeccaにしてみればカタログの欠落を埋め合わせることが目的だったのだろうと推測されます。
それと同時に、ショルティという指揮者の力量を見定めるとともに、来るべき時を見すえてお互いの関係を深めていきたいという思いもあったのでしょう。
カルショーがショルティという指揮者を「発見」したのはミュンヘンでのオペラ公演でした。その時の「ワルキューレ」をクナパーツブッシュの壮大な壮大な音楽感に匹敵しうる、数少ない例外だったと述べているのです。
ただし、Deccaの大立て者であるオロフは指揮者としてのショルティの能力を全く認めようとはしなかったので、カルショーは常に自分がショルティを見いだしたのだと自負していたのです。
ですから、カルショーにしてみればこういう管弦楽曲で場数を踏ませ、録音という行為に対する適応力を高めようという思いがあったことは間違いありません。そして、彼がショルティに対して期待していたのはオペラの録音だったのです。
このあたりが実際に音楽をやる人と、音楽をプロデュースする人の違いなのでしょう。
この食い違いが、指輪の録音と同時並行でベートーベンの交響曲を録音したいというショルティの「我が儘」になって現れるのですが、その音楽家が今何をすべきかと言うことに関してはカルショーの方がよく分かっていたと言うことは間違いないようです。
そして、カルショーにしてみればショルティのそれくらいの「我が儘」などは、その他の獰猛な野獣のような音楽家たちと較べれば可愛いものだったのです。
そして、ショルティはいったん納得すれば、録音という行為の中でどれほどの困難が発生しても文句も言わず、誰よりも過酷なハードワークに耐えたのです。
この54年の4月に集中的に録音されたモーツァルトの2曲とハイドンの1曲には揺り返しのようなものが感じられます。
ベートーベンの4番(50年録音)からメンデルスゾーンの3番(52年)では、作品が内包する感情のうねりなどは一切無視をして、無慈悲なまでの直線で造形することを指向していました。しかし、ここでは直線的に造形する姿勢はベースとして保持しているのですが、そこにモーツァルト的なドラマも描き出そうという思いも感じ取れるのです。
しかしながら、結果としてみれば、そう言うドラマなどと言うものに足下が掬われずにすむ25番の小ト短調の方がショルティらしい持ち味が発揮されているように感じられるのです。
もちろん、38番のプラハでも弾むようなリズム感は健在ですし、キリッとオケを引き締めることによってオケが安易に歌出すことを戒めているのですが、それでも、メンデルスゾーンの時ほど無慈悲にはなりきれていないのです。
そして、世間一般はそれをバランスが取れたというのですが、それはまた「悪名は無名に勝る」という事を思い出させてしまうのです。
なるほど、聞き手というものは何処まで行っても勝手で我が儘な存在であり、それ故に指揮者というのは大変な稼業だと言うことなのでしょう。
それから、最後に気づいたのですが、この54年に録音された一連の交響曲のプロデューサーはカルショーではなくて、全てジェームス・ウォーカー(James Walker)が担当していました。
ちなみに、51年に録音されたハイドンの102番もジェームス・ウォーカーが担当しています。
カルショーは特別な事情がない限りはショルティの録音は全て担当したと述べていましたから、こういう交響曲の録音は何らかの事情で他の人に任さざるを得なくなってもそれほど惜しいとは思わない録音だったのでしょう。ここにも、音楽をやる人とプロデュースする人の違いが如実に表れていたのです。
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