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クレンペラー(Otto Klemperer)|ハイドン:交響曲第104番ニ長調「ロンドン」
ハイドン:交響曲第104番ニ長調「ロンドン」
オットー・クレンペラー指揮 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団 1964年10月録音
Haydn:Symphony No.104 in D major, Hob.I:104 [1.Adagio-Allegro]
Haydn:Symphony No.104 in D major, Hob.I:104 [2.Andante]
Haydn:Symphony No.104 in D major, Hob.I:104 [3.Menuet e Trio(Allegro)]
Haydn:Symphony No.104 in D major, Hob.I:104 [4.Finale(Spiritoso)]
フィナーレをどうするか?
交響曲と言えばクラシック音楽における王道です。お金を儲けようとすればオペラなんでしょうが、後世に名を残そうと思えば交響曲で評価されないといけません。ところが、この交響曲というのは最初からそんなにも凄いスタンスを持って生まれてきたのではありません。もとはオペラの序曲から発展したものとも言われますが、いろんな紆余曲折を経てハイドンやモーツァルトによって基本的には以下のような構成をもったジャンルとして定着していきます。
- 第1楽章 - ソナタ形式
- 第2楽章 - 緩徐楽章〔変奏曲または複合三部形式〕
- 第3楽章 - メヌエット
- 第4楽章 - ソナタ形式またはロンド形式
いわゆる4楽章構成です。
しかし、ハイドンやモーツァルトの時代には舞曲形式の第3楽章で終わってしまうものが少なくありません。さらに、4楽章構成であってもフィナーレは4分の3とか8分の6の舞曲風の音楽になっていることも多いようです。
もう少し俯瞰してハイドンやモーツァルト以降の作曲家を眺めてみると、みんな最終楽章の扱いに困っているように見えます。それは、交響曲というジャンルに重みが加わるにつれて、その重みを受け止めて納得した形で音楽を終わらせるのがだんだん難しくなって行くように見えるのです。
その意味で、ベートーベンのエロイカはそう言う難しさを初めて意識した作品だったのではないか気づかされます。前の3楽章の重みを受け止めるためにはあの巨大な変奏曲形式しかなかっただろう納得させられます。そして、5番では楽器を増量して圧倒的な響きで締めくくりますし、9番ではついに合唱まで動員してしまったのは、解決をつけることの難しさを自ら吐露してしまったようなものです。
そう言えば、チャイコの5番はそのフィナーレを効果に次ぐ効果だとブラームスから酷評されましたし、マーラーの5番もそのフィナーレが妻のアルマから酷評されたことは有名な話です。さらに、あのブルックナーでさえ、例えば7番のフィナーレの弱さは誰しもが残念に思うでしょうし、8番のあのファンファーレで始まるフィナーレの開始は実に無理をして力みかえっているブルックナーの姿が浮かび上がってきます。そして、未完で終わった9番も本当に時間が足りなかっただけなのか?と言う疑問も浮かび上がってきます。いかにブルックナーといえども、前半のあの3楽章を受けて万人を納得させるだけのフィナーレが書けたのだろうとかという疑問も残ります。
つまり、ことほど左様に交響曲をきれいに締めくくるというのは難しいのですが、その難しさゆえに交響曲はクラシック音楽の王道となったのだとも言えます。そして、交響曲は4楽章構成というこの「基本」にハイドンが到達したのはどうやらこの88番あたりらしいのです。
というのも、ハイドンはこの時期に4分の2で軽快なフィナーレをもった作品を集中的に書いているのです。常に新しい実験的な試みを繰り返してきたハイドンにとって一つのテーマに対するこの集中はとても珍しいことです。
ああ、それにしてもこの何という洗練!!そういえば、この作品を指揮しているときがもっとも幸せだと語った指揮者がいました。しかし、この洗練はハイドンだけのものであり、これに続く人は同じやり方で交響曲を締めくくることは出来なくなりました。その事は、モーツァルトも同様であり、例えばジュピターのあの巨大なフーガの後ろにハイドンという陰を見ないわけにはいかないのです。
頑固爺クレンペラーの真骨頂
クレンペラーのハイドンの録音のクレジットを眺めていると、なるほどと気づかされることがあります。それは2曲ずつがワンセットで録音されているのです。
1960年1月録音:1961年リリース
- 交響曲第98番変ロ長調
- 交響曲第101番ニ長調「時計」
1964年10月録音:1965年リリース
- 交響曲第88番ト長調
- 交響曲第104番ニ長調「ロンドン」
1965年10月録音:1966年リリース
- 交響曲第100番ト長調「軍隊」
- 交響曲第102番変ホ長調
1970年2月録音
- 交響曲第95番ハ短調
1971年9月録音
- 交響曲第92番ト長調「オックスフォード」
つまりは、LPレコードの裏表に1曲ずつ収まるように録音をしてはリリースしていたのです。最後の95番と92番は70年と71年に録音されていますが、ファースト・リリースはこの2曲がカップリングされています。(1972年初発)
クレンペラーと言えば偏屈爺の代表みたいな存在だと思っていたのですが、これを見る限りではプロデューサーであるレッグの言うことを真面目に聞いていたようで、彼の思わぬ側面を見たような気がしました。
しかし、録音そのものはレーベルの意向に添ったものであったとしても、音楽に関しては「これぞクレンペラー!」という優れものです。ただし、今の時代になってみれば賛否両論のある演奏であることもまた事実です。
はっきり言って、時代様式を考えれば、これは「勘違い」以外の何ものでもありません。
それは私も認めます。
ハイドンは、自分が作曲したシンフォニーが、150年後にこのような響きで再現されるなどと言うことは想像もしなかったでしょう。
しかしながら、もしもハイドンが現在に蘇ってこの演奏を聴けば、それを「勘違い」として腹をたてたでしょうか?
言葉をかえれば、ハイドンは、彼が生きた18世紀のオケで演奏される響きこそが最も優れたものだと考えていたのでしょうか?
もしもそうならば、現在の演奏家達はそれぞれの作品が作曲された時代の楽器を復元し、その当時の演奏スタイルを研究してそっくりコピーすれば、それが最も作曲家の意志に「忠実」な演奏であり、それこそが最も「正しい」姿だと言うことになります。
つまりは、どれほど優れた作曲家といえども、その視線は決して時代の制約を超えるものではないと言うことです。
しかし、私はバッハやハイドンやモーツァルト、ベートーベンという存在が、その様な「小さな」存在だったとは到底思えません。
ハイドンは長生きしました。彼がこの世を去った1809年という年は、既にベートーベンは6曲の交響曲を完成させていました。ハイドンがそれらの交響曲を実際に聞いたことがあるのかどうかは分かりませんが、それがどのような音楽であったかは十分に知っていたはずです。
だとすれば、自らが書いたこれらの小振りな交響曲が、クレンペラーという頑固爺の手によってまるでベートーベンのように再現されるのを聞けば、大いに気をよくして感謝の意を表したのではないかと想像するのです。まあ、感謝したかどうかは分かりませんが、少なくともニヤリとして腹をたてたりはしなかったはずです。
とは言え、最近はピリオド演奏を推進する連中も自らの主張を「正しい」という視点でごり押しするのではなく、漸くにして「様々な解釈の一つ」として提示するようにはなってきました。ただ、解釈の一つと言うことになると、こういう爺さん達の演奏と同じ土俵で勝負しなければいけなくなるので、そうなるとやはり旗色は悪いようです。
爺さん達の録音は何十年経っても機会があるたびに再発されますが、ピリオド演奏の多くは殆ど再発されることもなく入手するのも困難になっています。とは言え、それはモダン楽器を使った録音に於いても事情は同じです。
結局、ピリオド演奏であれ、モダン楽器を使った演奏であれ、生き残るのは意味ある解釈として録音された一握りのものだけです。
そして、私は何処まで行ってもピリオド楽器を使った「解釈」が好きになれないと言うことです。
この演奏を評価してください。
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よせられたコメント
2017-01-22:コタロー
- クレンペラーのハイドン、本当にいいですね。この「ロンドン」という曲、他の演奏ではいまいちピンと来なかったのですが、クレンペラーの演奏を聴いて、ようやく納得できたような気がします。
それにしても、指揮者は長生きしなければ損ですね。フルトヴェングラーはクレンペラーより1歳年下ですが、ステレオ録音を遺せずに亡くなってしまいました。
その点、クレンペラーは80代後半まで長生きしたおかげで、数々の録音のよい演奏を遺すことができました。クレンペラーという人、私生活ではご難続きでしたが、ことレコーディングという点に関しては幸運な指揮者だったと思います。
2021-09-05:りんごちゃん
- フルトヴェングラーの94番のお話は、実は3週ほど前に書いたものなのですが、投稿しようか少々迷っていました
神様に駄目だしするような滅茶苦茶な文章というものは、娯楽読み物としては面白いところもあるかもしれませんが、否定的論調だけで終わってしまうのが少々気に入らなかったのです
なんと申しましても、音楽は楽しむために聞くのですから
そういったわけで、ハイドンの魅力がどこにあるのか探してみようと思い色々聞いてみたのですが、聞き比べにつきましてはいくつもできるわけではありませんから、ザロモンセットの中でも録音が比較的多く肌に合いそうな104番を選びまして一通り聞いてみました
すべてを取り上げるのも無意味ですので、この中では特徴的なマルケヴィチ・カラヤン・クレンペラーにだけ注目することにいたします
マルケヴィチの演奏は、サンサーンスのオルガン付きではパレーに当たるような演奏でして、比較的残響が少なくオーケストラの隅々までよく聞き取れる演奏です
ただ、この二つが似ているのはその点だけともいえそうです
パレーは隅々までよく聞き取れる演奏で調和のとれた整った響きを作り出していましたが、マルケヴィチの響きはその正反対と言っても良いでしょう
トスカニーニの演奏によく見られるような、暴力的なタッチによるギスギスした音をあえて響かせることによって、ハイドンのベートーヴェンなところを尖らせるとともに、それが単なる力の奔流でなく荒れ狂う力の奔流であるかのように感じさせようとしているかのようです
この点に置きましては、この3つの演奏の中で彼がトスカニーニやフルトヴェングラーらの演奏に一番近い存在なのかもしれません
この演奏が借り物の衣装をただ着せているようにあまり感じられないのは、多分、楽譜に書かれた演奏効果を丹念に掘り起こしては、隅々までよく聞き取れる演奏によって聞き手の耳にきっちり届けているからなのではないかという気がいたします
カラヤンの演奏はこの正反対に位置するような演奏です
マルケヴィチは楽譜に書かれたものを隅々まで見てもらうことを重視しているため、音楽の論理的な切れ目がはっきりと聞き取れます
カラヤンはそれをあえて曖昧にすることで、全体の流れにどっぷりと浸ってもらうことを狙っているかのようです
彼の演奏は、極端に申しますとディーリアスの音楽のような句読点の感じられない演奏なのでして、そのような演奏をしている意図はもちろん、細部だとか論理的なつながりなどといったものへの注目を潰すことなのです
わたしの文章は書かれた瞬間には句読点は一つも入っておりませんで、この句読点はすべて後付けなのですが、彼の演奏はいってみればこの文章と全く逆のことをしているようなものですね
人間の頭の中ではこういった文章であろうと音楽であろうと本当は句読点などないのですが、それを人に伝えるのに句読点というものが必要なのでして、句読点を付ける外すというのはそれをどの段階で見せようとするかという意味を持つのです
カラヤンはそのような演奏をしてはおりますが、聞こうと思えば各パートが何をやっているかも聞き取れないわけではありませんし、ディーリアスのような茫漠とした音楽になっているというわけではありません
彼は楽譜に書かれた演奏効果を拾わないのではなく、それをただの背景のように聞かせようとしているだけなのでして、ストコフスキー同様官能的な聞き方をしてもらうための作業を理知的に行っているのです
ただこの時期の彼は、その方向に自分を極度に尖らせるというにはまだ至っていないのでしょう
彼の演奏は、聞き手がなにかに注目したり何かを考えたりすることなくただ音楽の流れに浸って聞いてもらう方向を向いているというだけでして、それ以外を意図的に切り捨てているというわけではないようです
そのある意味中庸なバランスが、この時期のカラヤンがその美質を自然な形で発揮しているように感じさせるのでしょう
わたしはこの三者の中ではクレンペラーが一番好ましく感じたのですが、この演奏がどういうものであるかと聞かれたときちょっと答えるのがむずかしいように感じました
こういうときに一番有効なのはよく知っている曲の演奏を聞くことですので、わたしはモーツァルトの40番41番とベートーヴェンの5番7番を落として聞いてみることにいたしました
これらの演奏につきましてはいずれ書くこともあるかもしれませんが、ここでは省略いたします
わたしが感じるのは第一に大変バランスがよいというところです
バランスがよいという言葉に不足があるなら、重心の安定感を感じると言い換えてもよいかもしれません
それからよく言われることかもしれませんが、音楽の構築性を強く感じさせるような演奏です
そういったものはいわばただの印象なのですが、外形的に他と比較して明確な特徴は、テンポが比較的遅めであるところと、一定のテンポを頑なに維持しているところでしょう
ベートーヴェンの7番の終楽章につきまして管理人さんが書かれておりますので、それをお読みいただけばよいかと思います
わたしがまず連想したのは日本舞踊です
歌舞伎の動きというものは基本的に極めてゆっくりとしたものなのですが、もちろんこれは全身で表現された表情を堪能してもらうためにそうしているのです
歌舞伎では意図的あるいは過剰な表情付けというものをいたしませんが、そのようなものは舞踊自体から滲み出てくる自然な表情の美しさを妨げてしまうからでしょう
ダンスでも、テンポが早いものほどその動きのダイナミックさの方に注目が行き、その瞬間の立ち姿ですとか個々の部分あるいは全身での表情といったものへの注目はそらされてしまいます
テンポがゆっくりとしたものになると、その注目点が動きのダイナミックさからその表情へと移ってゆくのです
全く同じ動画を速い速度と遅い速度で再生してみれば、やはりそういったことが感じられるでしょう
クレンペラーはゆっくりとしたテンポを選択することによって、おそらくそういった現象を引き起こすことを意図しているのです
舞踊でも、動きがゆっくりとするほどその重心がしっかりと安定していなければ倒れてしまいますので、当然踊り手は常にその重心の安定を維持しつつ踊り続けるわけでして、それを実現するために必要な姿勢の良さは立ち姿の美しさをもたらします
音楽でも同じことなのでして、ゆっくりとした演奏をするためにはその全体の重心を常に保ち良い姿勢を常に保った演奏をする必要があるのです
クレンペラーはその立ち姿の美しさと自然ににじみ出てくる表情の魅力を見てもらうことをおそらく意図しているのでして、その演奏の重心のどっしりとした安定感ですとか構築性といったものは、そういったものを見せられることで自然に感じられてくるいわば副産物のようなものなのでしょう
彼の演奏を聞いておりますと、これといって何かを尖らせようとしてはおりません
そこがマルケヴィチやカラヤンと大きく異るところかもしれません
マルケヴィチやカラヤンは何かを捨てることでその引き換えに尖らせた魅力を得るという戦略をとっているのでして、これは大家と言われる人の多くがとっている手法でしょう
一方、何かを尖らせようなどといたしますとそのバランスが崩れるのは目に見えているのでして、マルケヴィチのハイドンが暴力的なベートーヴェンのように聞こえたりカラヤンがディーリアスやらストコフスキーに一脈通じるように聞こえるのはその結果なのです
クレンペラーは、響きのバランスや雰囲気に引きずられることのない頑ななテンポを維持することで、その美しい立ち姿をただ見てもらうことに専念しているかのようです
感情の起伏を文脈に沿って再現するのが普通の演奏であり、作った表情を強調して見せることでそこに注目をあえて集めるのが尖った演奏であることはいうまでもありません
クレンペラーは歌舞伎の所作と同じように、それを意図的に避けているかのようです
クレンペラーが捨てているのはその動きのダイナミックさであり、物語のあるいは感情の起伏なのです
ベートーヴェンでは圧倒的な生命力の奔流のようなものがその大きな聞き所ですので、盛り上がりたいところであえてその流れに逆らいテンポや響きを維持するという方向性に疑問を感じる人もいるかも知れません
モーツァルトでは美しい立ち姿を見せるのはただのスタートラインに過ぎませんので、やはり不足を感じる人が多かろうと思います
これがハイドンでは、ベートーヴェンのような唯一無二の尖った特徴などというものが響き自体に存在しているわけではありませんし、モーツァルトのような種類の魅力がそこかしこから溢れ出てくるというような音楽でもありませんので、クレンペラーのスタイルが過不足なく感じられその美点だけが際立って見えるのかもしれません
こういった一見分析のようにも見える遊びでしたらわたしにもできないわけではないのです
こういった楽しみ方ももちろん音楽の楽しみ方のひとつなのでしょう
ただハイドンの場合、こういったことをいたしましてもまるで無意味なような気がしてならないのです
わたしはこの3つを含めたどの演奏を聞きましても、ハイドンが一体何を聞かせたかったのかまるでわからなかったのです
ハイドンの本当の魅力を伝えてくれないものをあれこれ分析してみたところでなんの意味もないですよね
わたしはそういったものを求めて音楽を聞くわけではないのですから
今のわたしにわかるハイドンはどうやら小オルガンミサだけということになりそうです
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