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トスカニーニ(Arturo Toscanini)|ベートーベン:交響曲第6番 ヘ長調 作品68「田園」
ベートーベン:交響曲第6番 ヘ長調 作品68「田園」
トスカニーニ指揮 NBC交響楽団 1939年11月11日録音
Beethoven:Symphony No.6 in F major , Op.68 Pastoral [1.Allegro Ma Non Troppo (Apacibles Sentimientos Que Despierta La Contemplacion De Los Campos)]
Beethoven:Symphony No.6 in F major , Op.68 Pastoral [2.Andante Molto Moto (Escena Junto Al Arroyo)]
Beethoven:Symphony No.6 in F major , Op.68 Pastoral [3.Allegro (Animada Reunion De Campesinos) ]
Beethoven:Symphony No.6 in F major , Op.68 Pastoral [4.Allegro (La Tormenta, La Tempestad) ]
Beethoven:Symphony No.6 in F major , Op.68 Pastoral [5.Allegretto (Cancion Pastoril, Gratitud Y Reconocimiento Despues De La Tormenta)]
標題付きの交響曲
よく知られているように、この作品にはベートーベン自身による標題がつけられています。
第1楽章:「田園に到着したときの朗らかな感情の目覚め」
第2楽章:「小川のほとりの情景」
第3楽章:「農民の楽しい集い」
第4楽章:「雷雨、雨」
第5楽章:「牧人の歌、嵐のあとの喜ばしい感謝の感情」
また、第3楽章以降は切れ目なしに演奏されるのも今までない趣向です。
これらの特徴は、このあとのロマン派の時代に引き継がれ大きな影響を与えることになります。
しかし、世間にはベートーベンの音楽をこのような標題で理解するのが我慢できない人が多くて、「そのような標題にとらわれることなく純粋に絶対的な音楽として理解するべきだ!」と宣っています。
このような人は何の論証も抜きに標題音楽は絶対音楽に劣る存在と思っているらしくて、偉大にして神聖なるベートーベンの音楽がレベルの低い「標題音楽」として理解されることが我慢できないようです。ご苦労さんな事です。
しかし、そういう頭でっかちな聴き方をしない普通の聞き手なら、ベートーベンが与えた標題が音楽の雰囲気を実にうまく表現していることに気づくはずです。
前作の5番で人間の内面的世界の劇的な葛藤を描いたベートーベンは、自然という外的世界を描いても一流であったと言うことです。同時期に全く正反対と思えるような作品を創作したのがベートーベンの特長であることはよく知られていますが、ここでもその特徴が発揮されたと言うことでしょう。
またあまり知られていないことですが、残されたスケッチから最終楽章に合唱を導入しようとしたことが指摘されています。
もしそれが実現していたならば、第五の「運命」との対比はよりはっきりした物になったでしょうし、年末がくれば第九ばかり聞かされると言う「苦行(^^;」を味わうこともなかったでしょう。
ちょっと残念なことです。
トスカニーニ&NBC交響楽団による1939年のベートーベンチクルス
トスカニーニとNBC交響楽団による1939年のベートーベンチクルスが中途半端な状態で放置されているというご指摘をいただきました。「そんな馬鹿な・・・?」と思いつつサイトの方を確認すると、確かに中途半端な状態で投げ出されいています。
全集としてのまとめページの方を確認しても、同じ組み合わせによる50年代の録音はまとめられていますが、39年のベートーベンチクルスは何処を探しても見つかりません。
ということで、少しずつ記憶がよみがえってきました。
簡単に言えば、この1939年のNBC交響楽団とのチクルス、さらには35年以降のBBC交響楽団とのライブ録音、さらには30年代にRCAレーベルが行ったスタジオ録音が私の頭の中でこんがらがってしまうというアホさかげん故に一度整理し直そうと思って中断したのでした。そして、その後整理がついたものの、新しい録音を紹介するのに忙しく後回しとなり、そしていつしかアップしたつもりになってしまって「中途半端な状態で放置」という仕儀になったようです。
個人的には、この39年のベートーベンチクルスこそがトスカニーニによるベートーベンのベストと信じているだけに、びっくりの「放置」でした。
トスカニーニとフルトヴェングラーは並び称される二大巨匠なのですが、世代的には大きな隔たりがあります。
- トスカニーニ:1867年~1957年
- フルトヴェングラー:1886年~1954年
60年代生まれの指揮者といえば、マーラー、R.シュトラウスという作曲家組、ブルックナーの改鼠版で有名なシャルクやレーヴェ、そしてワインガルトナーです。ニキッシュやカヤヌスのような伝説的存在と較べても10年ほどしか隔たっていないのです。
それに対してフルトヴェングラーと同世代の指揮者といえば、ストコフスキーやパレーのように80年代近くまで、またはボールトのように80年代になっても活躍していた人もいるのです。つまり、トスカニーニの立場に立ってみれば、マーラーやニキッシュの方がフルトヴェングラーよりは世代的近いのです。
トスカニーニというのはそれほどまでに古い世代に属する指揮者だったのです。
しかし、現代のクラシック音楽のあり方に多大な影響を与えたのは、世代的には二つほど遡るトスカニーニでした。フルトヴェングラーは多くの人にその偉大さが賞揚されながらも、そして多くの猿真似を生み出しはしたものの本当の意味での継承者を持たなかった指揮者でした。
では、トスカニーニが後の世代に与えた影響とは何かといえば、一言で言えば19世紀というロマン主義の時代にまとわりついたありとあらゆる塵、芥、思いこみ、物語性などを綺麗さっぱり洗い流して見せたことでした。もっと端的に言えば、クラシック音楽にまとわりついたありとあらゆる憑きものを「悪魔払い」したことでした。
そして、好むと好まざるとに関わらず、現在においてクラシック音楽と向き合おうと思えば、この「悪魔払い」をしたトスカニーニのスタンスをまずは最初の一歩としなければ誰からも相手にされないのです。
ただし、そのスタンスを「楽譜に忠実」という短い言葉で集約することには賛成できません。それは、現実にトスカニーニの演奏が楽譜に忠実ではないと言うことだけではなくて、トスカニーニの主張が「取りあえず楽譜に忠実に演奏すればいいんだ」というようなお手軽なものではないからです。
そうではなくて、彼の方法論の肝は、まずは長い歴史の中でまとわりついた夾雑物一切を洗い流した上で、もう一度楽譜だけをたよりに作曲家の声に耳を傾けようとしたことにあります。そして、そこで何よりも重要なことは作曲家の言い分に耳を傾けその言い分を理解し納得できるだけの「大きさ」が自分にあるかどうかでした。
楽譜を丹念に研究し、その響きを精緻に分析して現実の音に変換する作業は「職人技」として実現は可能です。そして、このトスカニーニの方法論を「楽譜に忠実に」という形で矮小化して良しとする連中はそこで歩みを止めてしまっていて、結果としてオケは綺麗に鳴り響いているものの聞き終わった後に何も残らない蒸留水のような演奏がはびこることになりました。
しかし、トスカニーニの方法論をもう少し真摯に受け取るならば、それは事の始まり、スタートラインに立つことしか意味していないことは容易に理解できるはずです。その容易に理解できることを己の「小ささ」故に目を瞑るというのは情けない限りです。
しかし、こういう事をいくら言葉で語ってみても抽象論にしか過ぎません。そんな抽象論を重ねるくらいなら、この39年にトスカニーニが行ったベートーベンチクルスを実際に聞いた方がはるかに彼の言い分が伝わってきます。
ここには、トスカニーニという稀代の大指揮者がベートーベンの楽譜から聞き取ったベートーベンの声がはっきりと刻印されています。
なお、最後に、この30年代のトスカニーニのベートーベンには3系統あってややこしいので、最後に整理しておきます。
まずは、NBC交響楽団による1939年のベートーベンチクルス
- 交響曲第1番 ハ長調 作品21:1939年10月28日録音
- 交響曲第2番 ニ長調 作品36:1939年11月4日録音
- 交響曲第3番 変ホ長調 作品55「英雄」:1939年10月28日録音
- 交響曲第4番 変ロ長調 作品60:1939年11月4日録音
- 交響曲第5番 ハ短調 「運命」 作品67:1939年11月11日録音
- 交響曲第6番 ヘ長調 作品68「田園」:1939年11月11日録音
- 交響曲第7番 イ長調 作品92:1939年11月18日録音
- 交響曲第8番 ヘ長調 作品93:1939年11月25日録音
- 交響曲第9番 ニ短調 「合唱付き」作品125:1939年12月2日録音
10月28日から毎週土曜日に演奏会が行われ、その様子はNBCから全米にラジオ放送がされました。
なお、このチクルスで交響曲以外に以下の作品も演奏されています。
- レオノーレ第1番 作品138:1939年11月25日録音
- レオノーレ第2番 作品72a:1939年11月25日録音
- レオノーレ第3番 作品72b:1939年11月4日録音
- フィデリオ序曲 作品72c:1939年10月28日録音
- エグモント序曲 ヘ短調 作品84:1939年11月18日録音
- コリオラン序曲 ハ短調 作品62:1939年11月11日録音
- 七重奏曲 作品20:1939年11月18日録音
- 合唱幻想曲 ハ短調 作品80
次に1930年代のBBC交響楽団との録音
- 交響曲第1番 ハ長調 作品21:1937年10月25日録音
- 交響曲第4番 変ロ長調 作品60:1939年6月1日録音
- 交響曲第6番 ヘ長調 作品68「田園」:1937年6月17日&10月21日,22日録音(諸説あり)
- 交響曲第7番 イ長調 作品92:1935年6月14日録音
太字の部分がRCAから正規盤としてリリースされています。第7番はEMIからリリースされたようです。
RCAからリリースされた30年代の正規盤
- 交響曲第5番 ハ短調 「運命」 作品67:NBC交響楽団:1939年2月27日,3月1日&29日録音
- 交響曲第7番 イ長調 作品92:ニューヨークフィル:1936年4月9日&10日録音
- 交響曲第8番 ヘ長調 作品93:ニューヨークフィル:1939年4月17日録音
ちなみに、1936年に録音された第7番に関してはSP盤とLP盤では音源が同一ではないようです。SPのマスターが摩滅したために、トスカニーニの希望で40年代に第1楽章だけが別テイクの音源に取り替えられたそうです。演奏に関しては当然のことながら大きな差異はないようですが天日が若干早くなっているそうです。
<追記>
ただの、「アレグロ・コン・ブリオ」にすぎない!!
時に誤解を生みそうなこのトスカニーニの言葉は、その表現の強烈さゆえに彼の音楽観を最も端的に表している言葉でもあります。
しかし、そのような言葉とは裏腹に、彼のエロイカ演奏を通して聞いてみると、少なくないブレを感じ取ることができます。
ここで紹介した録音は1939年に彼が行ったベートーベンチクスルの中のものですが、後の演奏と比べてみると、冒頭の彼の言葉を最もよく体現した演奏になっています。響きの透明性と強靭な推進力は音質的な問題を差し引いても十分に聞く価値のある演奏となっています。(ちなみに、ビクターは全9曲の中からこれだけを唯一正規盤として41年にリリースしています。)
その後大戦中に彼は二回エロイカを取り上げているのですが、こちらは一転して遅めのテンポで演奏したり、とんでもないスピードで弾き飛ばしてみたりと、なんだか実験的な雰囲気が漂うような演奏となっています。
そして最晩年の50年代の録音は、音質的には最も恵まれているのですが、なんだか中庸の美という風情で、よく言えばバランス感覚にあふれた、悪く言えばどっちつかずの演奏になっています。
トスカニーニのこのようなブレに接してみると、「楽譜に忠実」に演奏しましたという言葉の底の浅さを改めて思い知らされます。
楽譜に忠実であろうとし、ベートーベンに忠実であろうとして、トスカニーニもまた苦闘したのです。楽譜に忠実であるというのは方法論としては入り口を示しているに過ぎないという、ごく当たり前の事実を改めて教えてくれます。
エロイカという、あまりにも大きな憑き物がまとわりついている作品を、ただの「アレグロ・コン・ブリオ」として悪魔祓いをしたのがトスカニーニでした。そして、その中から彼なりのベートーベンを描き出したのがこの39年の録音だといえます。
その後の彼のあれこれのトライを無視するのは気が引けますが、後から振り返ればこれがベストだったな!と思うのはユング君だけでしょうか?
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