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アンケートのアーカイブ|誰の指揮でききたいですか(チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」)
アンケートの結果と考察(--;のようなもの・・・
チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」(第6位)
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投票総数: 546
個人的にはチャイコフスキーの交響曲はムラヴィンスキーとレニングラードフィルとのコンビで聴くべきものだと信じています。
私が初めて彼の指揮でチャイコフスキーを聴いたとき、あまりの凄さに呆然としてしばし固まってしまったのを覚えています。何という立派な交響曲であることとか、何という強靱でしなやかな響きであることか、そして何という熱気につつまれた音楽であることか!!これと比べれば、今まで愛聴していたカラヤンの演奏などは(実は、自分のお金で初めて買ったLPでした)お子ちゃまのお遊びとしか思えませんでした。
とにかくムラヴィンスキーとチャイコフスキーの相性は抜群でした。
ベートーベンやブルックナーなどでは凄さは認めながらも、「そこまでせんでもええやろ・・・」と違和感を覚えるときもあったのですが、チャイコフスキーだけは別格でした。一部の評論家に「私のこれからの人生においてチャイコフスキーは必要がない」「日本人もいい加減にチャイコフスキーを卒業してもいいだろう」などと酷評されることもあった彼の作品が、ムラヴィンスキーの手にかかるとまるでベートーベンの交響曲のように立派に響くことは驚きでした。そんな演奏を聞きながら、当時はまだウブで評論家先生の言葉を信じていた私は、「ムラヴィンスキーというのは、どんな作品でも立派に仕上げる人だなぁ!」などと感心していたものです。(^^;
その後、次第次第にチャイコフスキーに対する認識も深まり、「私のこれからの人生においてチャイコフスキーは必要がない」などという発言がいかに誤りと偏見に満ちたものかも理解できるようになり(
現在音楽への憤懣)、そうなるにつれて、チャイコフスキー作品に内在する価値をはっきりと再構築してくれるムラヴィンスキーの芸術に深い尊敬の念を抱くようになっていきました。
そして、「ムラヴィンスキーというのは、どんな作品でも立派に仕上げる人だなぁ!」という最後まで残っていた偏見を是正してくれたのが、河島みどりなる人が著した一冊の本との出会いでした。
「ムラヴィンスキーと私」 河島みどり 著
ISBN 4-7942-1398-0
定価 2,100円(本体2,000円)
判型 四六判
頁数 288頁
初版刊行日 2005年05月02日
ムラヴィンスキーの未亡人から膨大な日記やショスタコーヴィッチとの往復書簡などを提供されて、それらを原資料として彼の生涯と芸術についてまとめた一冊です。
この中で、ムラヴィンスキーはチャイコフスキーのシンフォニーをベートーベンの不滅の9曲にも匹敵する偉大な音楽だと心の底から信じていたこと、さらに6番については暇さえあればスコアを眺めて、時には涙していたことが書かれていました。
これを読んで、何故に彼のチャイコがあんなにも立派なのかが理解できました。
それは、「チャイコフスキーの交響曲のような作品でも立派に造形した」のではなくて、まさに「それに値するほどの偉大な作品だと心の底から信じていた」からこそ、あのような立派な演奏をなしえたのだと教えられたのでした。
これ以外にも、彼が1回のコンサートを成立させるためにどれほどの献身をしていたかが克明に綴られていて実に興味深い一冊でした。現在のプロの指揮者からは想像もできないほどの凄まじさに呆然とさせられること間違いなしです。
前回の最後に次のように書きました。
「やはり、ムラヴィンスキーの首位は動かないのでしょうか・・・?それともこの作品を6回も録音したカラヤンが肉薄するのでしょうか?はたまた、予想もしないダークホースが浮上するのでしょうか?」
結果はムラヴィンスキーが最初から最後まで首位を突っ走り、それをカラヤンが追いかけるという構図で終始しました。私がダークホースと目していたフリッチャイもいいところまで票を伸ばしました。
やはり、日本のクラシック音楽ファンの耳は確かです。
<寄せられたコメントより>
想像した以上にムラヴィンスキーに対するオマージュが寄せられました。
「永遠の価値があるのはムラヴィンスキー。何度聞いても飽きません。弦の音がすすり泣いている!一発勝負ならフリッチャイ。山あり、谷ありで、存分に楽しめます。今回は、判官びいきでフリッチャイに入れてみました。」
「ムラヴィンスキーに一票。冷徹にして甘美な音楽は他の追随を許さないと思います。何よりもロシア人(ソヴィエト人)は、チャイコフスキーと同じ精神土壌に立っているのではないでしょうか。」
「ムラヴィンスキーに一票。タイムリーな話題で一つ。ムラヴィンスキーのチャイコフスキー演奏の後に、他の演奏家のチャイコフスキーを聴くと、それこそ、ブラジルなどのサッカー強国の代表と、彼らの前に完膚無きまで蹂躙されるサッカー日本代表の姿を思い浮かべてしまいます。それ程、他の演奏とは隔絶した場所に位置する演奏だと思います。此岸と彼岸位に。」
「これだけはムラヴィンスキー以外は考えられません。将来に渡っても超えるものは出て来ないのでは?「冷徹」などと評せられることも多いですが、私はムラヴィンスキー/レニングラード・フィルのコンビには「しなやかさ」を強く感じます。同じく大指揮者と称される例えばフルトヴェングラーのような演奏を目指す指揮者はいますが、ムラヴィンスキーを・・・という人はいませんね。彼は間違いなくその目指す方向の頂点を極めたと言えると思います。」
「ムラヴィンスキー・レニングラードフィルは技術的にも,精神的にも完璧の域に達していると思います。あれだけアンサンブルがまとまりきっているのに,かつ熱い思い(熱い,というか,色彩のない絶望ですかね)が切々と伝わってくる3〜4楽章はいいなぁと思います。 小澤・サイトウキネンは上手いと思いますが,上手いだけで無味乾燥なのが残念です。うまさだけなら一番かもと思うことさえあります。 ゲルギエフは最近の指揮者では一番好きかも知れません。知り合いは,学友協会で聞いて泣いた,といっていました。」
寄せられたコメントでも、ムラヴィンスキーに対するものはアツイです。
年輪を感じさせるコメントしては、
「その昔あらえびす氏がメンゲルベルクの悲愴を「これは絶対的な演奏である・いかなる人が考えたよりよりも深刻に再現されてる・全く非の打ち所がない」とこれ以上ないほど絶賛してたのですが、時代が変わると(まああの時と比べると録音が増えたってこともありますが)こうまで評価が下がってしまうのかって感じがします。多くの評論家が「くどい・どろどろ」とけなしてるのを見ると、時代とともに人の感情(演奏に対する共感の仕方)も変化するもんなんだなって思ってしまいますね。私は個人的にメンゲルベルクの演奏のロマンチックな雰囲気が好きなのでに一票投じさせていただきます。今気づいたのですが、メンゲルベルクと同じ年代の人で彼より上位に来てる人はいないようですね。やはり彼はあの時代での悲愴のチャンピオンってことなんですねぇ^^」
確かに、メンゲルベルグやフルトヴェングラーの悲愴は情念ぶちまけの凄い演奏です。
どうやらチャイコフスキーの演奏はムラヴィンスキー以前と以後に分けることができるようであり、彼らの演奏はその意味ではムラヴィンスキー以前の時代を代表する演奏と位置づけていいのかもしれません。
そして、好むと好まざるとに関わらず、ムラヴィンスキー以後の時代にあっては、彼の演奏様式を無視してチャイコフスキーを演奏することは不可能になったようです。ムラヴィンスキーの演奏様式がいかに己の考えから遠いものであっても、それを視野に入れた上で自らのスタンスを示さないと、それは独りよがりのあまりにも脳天気な演奏だと言われてしまうかもしれません。
それ以外では、
「僕は、ムラヴィンスキーにどうも馴染めません。カラヤンは、某雑誌の「21世紀の名曲名盤」ランキングの一位になっていた録音を聞いたのですが、正直、どうしてこれが一位なのか? とおもってしまいました。 僕としては、マルケヴィチですね。1983年、死の2ヶ月ほどまえにN響に客演したときの映像を見て聴いて、びっくりしてしまいました。とにかく密度が濃い! 咆哮する金管、地割れのような音のティンパニ、決め所でのテンポの落とし方も僕の好みにぴったり。この演奏を聴くと、他の演奏を聴くことができませんね。 朝比奈は未聴ですが、おそらくマルケヴィチのような世界が繰り広げられていることとおもいます。」
うーん!!
朝比奈の悲愴はライブで一度聴いたことがありますが、あれは100%ド演歌の世界であり、マルケヴィッチとは対極にある世界だと思うのですが・・・。
「悲愴には良い演奏がたくさんありますが、オーマンディ・フィラデルフィア管(CBS録音)を選びたいと思います。もう何十年も前の社会人になりたての頃、初夏のまだ部屋の窓を開けて風を通しながら過ごせる時間に何気なくつけたFMから流れてきた誰の演奏かもわからない「悲愴」がこれでした。ぼんやり聞いているうちに引き込まれていて、標題からくるイメージや思い入れを感じさせず、しかも美しく素晴らしい音楽を聞くことを教わった気がしました。 今回聞き直してみて、ムラヴィンスキー、フルトヴェングラー、ジュリーニ、マルケヴィッチ等に心引かれながらもやはりオーマンディを選びたいと思いました。」
オーマンディは芸術の「クリエイター」ではなくて「キーパー」にすぎないと酷評されることもあるのですが、意外と根強いファンが少なくありません。こういうコメントを読ませていただくと、その理由が分かるような気がします。
「マルティノン指揮によるウィーンフィル。LPレコードのジャッケットに惹かれて購入しましたが、その演奏に度肝を抜かれました。第一楽章のピアニッシモから突然のフォルテッシモに至る部分には、何度聞いてもびっくりしていました。三十年たって同じ演奏のCDを買いましたが、つまりませんでした。ウィーンフィルの渋い音色はCDよりもLPの方が良く聞こえます。」
ある方が、悲愴のスタンダードとしてマルティノンをあげておられました。理由は「これよりも体温が低い演奏は「犯罪」の部類にはいる」からだそうです。
個人的にもこれはきわめて低体温の演奏だと思っていたのですが、それはもしかしてCDへの復刻に問題ありなのでしょうか・・・?
さて次回はブラームスの4番です。
本命は息子のクライバー、対抗はワルターで決まりだと思うのですが、さてどうなるでしょうか?