モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番ニ短調 , K.466
(P)リリー・クラウス:スティーヴン・サイモン指揮 ウィーン音楽祭管弦楽団 1965年5月9日~10日録音
Mozart:Concerto No. 20 In D Minor For Piano And Orchestra, K. 466 [1.Allegr]
Mozart:Concerto No. 20 In D Minor For Piano And Orchestra, K. 466 [2.Romance]
Mozart:Concerto No. 20 In D Minor For Piano And Orchestra, K. 466 [3.Rondo: (Allegro Assai)]
広大な感情の領域を彷徨う音楽
モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番ニ短調 , K.466
ウィーン時代のモーツァルトは大きな浮き沈みを経験します。それは人気ピアニストとして多くの収入を獲得した前半と、予約演奏会を開いてもほとんど人が集まらなくなった凋落の時代です。
そして、多くの日本の評論家達は、その分かれ目となったのがこのニ短調の協奏曲だったと書いていました。ですから、私も、このあまりにも時代の先を行きすぎたモーツァルトの音楽にウィーンの人々はついて行くことが出来ず、その無理解故にモーツァルトの人気は凋落し、その結果として若くして亡くならざるを得なかったと信じていました。
おそらく、今でもその「説」を信じておられる方は多いのではないでしょうか。しかし、残された手紙などを調べてみれば、このニ短調協奏曲が披露された予約演奏会には多くの人が申し込み、そしてその「素晴らしい音楽」に多くの聴衆は拍手を送ったのです。
ただし問題は、父レオポルドがその演奏会に様子をザルツブルグにいる娘のナンネルに送った手紙の次の一節です。
「6回のコンサートの内最初の演奏会に出かけけましたが、
身分の高い人たちがたくさん集まっていました。
何気ない一節ですが、問題はモーツァルトの予約演奏会に参加をしたのは「身分の高い人たち」。つまりは上流貴族が大部分を占めていた事です。そして、彼らの音楽的教養は非常に高くて、おそらくはニ短調という特殊な調性で書かれた第1楽章に少しは驚きもしたでしょうが、それもまた一つの面白い趣向として受け入れるだけの音楽的教養を持っていました。
確かにその音楽は憂鬱であり、当時の常識から言えば広大な感情の領域を彷徨う音楽であり、それは疑いもなくロマン派の時代の音楽を予見させるものでした。しかし、そんな事ぐらいで彼らはモーツァルトを見限るわけはなく、これに続いて21番のハ長調協奏曲等の新作を含む自主興行で、レオポルドは息子が559グルテンを稼いだと手紙でザルツブルグに知らせているのです。
つまりは、モーツァルトを支えた上流貴族達は次々と進化していくモーツァルトを受け入れることはあっても、決して見捨てることはなかったのです。
また、モーツァルトもまたこの憂鬱な第1楽章の気分を振り払うように、最終楽章では明るくハッピーな気持ちで終わらせているのです。つまり、モーツァルトは基本的には作曲家であり演奏家であると同時に興行師でもあり、そのたりの仕掛けには抜かりはなかったのです。
それ故に、ロマン派の時代になると、このニ短調協奏曲の第1楽章は賞賛の対象となっても最終楽章の評判は悪かったのです。とりわけ、若きベートーベンはピアニストとしてこの作品を自分自身の重要なレパートリーとしていたのですが、このハッピーエンドがよほど気に入らなかったようで、自らの手でより悲劇的な形で終われるようにカデンツァを書いていて、これが現在でも最もよく用いられるカデンツァとなっています。
つまりは、ウィーンにおけるモーツァルトの凋落はその音楽の有り様が変化したためではなく、彼を支持していた「上流貴族」達がウィーンを去ってしまったことが最大の原因だったのです。
モーツァルトがこの作品を披露したのは1785年です。そして、その時には1789年のフランス革命に向かう導火線に火はついていて、その影響はハプスブルグ帝国にも及んでいました。長年のプロイセンとの戦争で疲弊し、さらにはハプスブルグ領だった各地で反乱が起こり、またフランス啓蒙思想の影響を受けたヨーゼフ2世の施策はことごとく失敗に帰してその混乱にさらなる拍車をかけました。
そして、そのヨーゼフ2世が亡くなると、そのあとを弟のレオポルト2世が引き継ぐのですが、彼は兄の墓に「善良な意志であるにもかかわらず何事にも成功しなかった人ここに眠る」と記して、兄の開放的な政策から一転して強圧的な政策を次々に実行しはじめたのです。そして、その変化はウィーンに滞在していた上流貴族達にも深刻な影響を与え、彼らの多くは次々と自分の領地に引き上げてしまったのです。
つまりは、モーツァルトの凋落はウィーンの人たちが彼の音楽を理解しなかったのではなくて、彼を支えていた「身分の高い人」達がウィーンを去ってしまったことが最大の原因だったのです。
そして、時代は1789年のフランス革命という発火点を契機として、時代の主役は貴族から市民階級にうつっていくのです。しかし、この時代の市民階級には未だにモーツァルトのような音楽家を支えるだけの力は持ち得ていませんでした。
モーツァルトは1756年に生まれていますが、ベートーベンは1770年に生まれています。この14年の差はこの時代にあっては決定的でした。
ベートーベンがウィーンに出てきたのは1792年であり、ブルク劇場で第1響曲などを公演して交響曲作家としても評価されるようになるのは1800年のことでした。そして、その時には彼は貴族ではなくて市民階級を対象として音楽を書き、フリーランスの作曲家として生きていくことが出来たのでした。
まさに、父レオポルが何気なく手紙にしたためた「身分の高い人たちがたくさん集まっていました。」の一言は途轍もない重しとなって晩年のモーツァルトにのしかかったのでした。
ウィーン時代後半のピアノコンチェルト
第20番 ニ短調 K.466:1785年2月10日完成
第21番 ハ長調 K.467:1785年3月9日完成
第22番 変ホ長調 K.482:1785年12月16日完成
第23番 イ長調 K.488:1786年3月2日完成
第24番 ハ短調 K.491:1786年3月24日完成
第25番 ハ長調 K.503:1786年12月4日完成
9番「ジュノーム」で一瞬顔をのぞかせた「断絶」がはっきりと姿を現し、それが拡大していきます。それが20番以降のいわゆる「ウィーン時代後半」のコンチェルトの特徴です。
そして、その拡大は24番のハ短調のコンチェルトで行き着くところまで行き着きます。
そして、このような断絶が当時の軽佻浮薄なウィーンの聴衆に受け入れられずモーツァルトの人生は転落していったのだと解説されてきました。
しかし、事実は少し違うようです。
たとえば、有名なニ短調の協奏曲が初演された演奏会には、たまたまウィーンを訪れていた父のレオポルドも参加しています。そして娘のナンネルにその演奏会がいかに素晴らしく成功したものだったかを手紙で伝えています。
これに続く21番のハ長調協奏曲が初演された演奏会でも客は大入り満員であり、その一夜で普通の人の一年分の年収に当たるお金を稼ぎ出していることもレオポルドは手紙の中に驚きを持ってしたためています。
この状況は1786年においても大きな違いはないようなのです。
ですから、ニ短調協奏曲以後の世界にウィーンの聴衆がついてこれなかったというのは事実に照らしてみれば少し異なるといわざるをえません。
ただし、作品の方は14番から19番の世界とはがらりと変わります。
それは、おそらくは23番、25番というおそらくは85年に着手されたと思われる作品でも、それがこの時代に完成されることによって前者の作品群とはがらりと風貌を異にしていることでも分かります。
それが、この時代に着手されこの時代に完成された作品であるならば、その違いは一目瞭然です。
とりわけ24番のハ短調協奏曲は第1楽章の主題は12音のすべてがつかわれているという異形のスタイルであり、「12音技法の先駆け」といわれるほどの前衛性を持っています。
また、第3楽章の巨大な変奏曲形式も聞くものの心に深く刻み込まれる偉大さを持っています。
それ以外にも、一瞬地獄のそこをのぞき込むようなニ短調協奏曲の出だしのシンコペーションといい、21番のハ長調協奏曲第2楽章の天国的な美しさといい、どれをとっても他に比べるもののない独自性を誇っています。
これ以後、ベートーベンを初めとして多くの作曲家がこのジャンルの作品に挑戦をしてきますが、本質的な部分においてこのモーツァルトの作品をこえていないようにさえ見えます。
明るく華やかで無垢なモーツァルト
私の知人で、リリー・クラウスの最後の来日公演を聴いたことがあるという人がいます。彼の言によれば、その演奏会は惨憺たるもので二度と思い出したくもないような代物だったようです。
演奏家の引き際というものは難しいものです。
最近の例で言えば、見事な引き際を見せてくれたのがマリア・ジョアン・ピリスでした。わたしは幸運にもその引退コンサートの一つを大阪のシンフォニー・ホールで聴く機会を得たのですが、それは見事なベートーベン演奏でした。ステージに現れた姿は颯爽としており、彼女の指から紡ぎ出されるベートーベンの音楽は、わたしが生で聞いたベートーベンのピアノ・ソナタとしては最上のものの一つでした。
「演奏家」というのはどれほどの醜態をさらしても最後までステージにしがみつく種族ですから、その引き際の見事さはは希有なものだったと言えます。それは、彼女の言動を見れば、引退のきっかけが自らの演奏能力に対する疑問ではなくて、ビジネスとしてのクラシック音楽界のあり方への絶望感に起因してたからかもしれません。
二人の女性が歩いている。
若い女性は麗しい。
齢を重ねた女性はさらに麗しい。
話がいささかいらぬ方向にそれたのですが、このクラウスのコンチェルトの全集もまた、彼女のピアニストとしての衰えをはっきりと聞き取ることが出来ます。
それは、彼女が54年に録音したソナタの全集と聞き比べてみれば一目(一聴?)瞭然です。あのソナタ全集では、モーツァルトの音楽が持つ微妙なニュアンスが見事なまでに表現されていました。しかし、このコンチェルトの演奏では、そう言う微妙なニュアンスを表現しきる能力がすでに失われていることは明らかです。
しかしながら、それでは全体としてつまらぬ演奏なのかと言えばそうとも言いきれない部分があるので困ってしまうのです。
ここでのクラウスのピアノの響きに微妙で多彩な表情を求めることは出来ないのですが、逆に、驚くほど華やかで明るく、そしてチャーミングな響きで最初から最後まで貫徹しています。これは1番から27番まで一気に聞き通したので自信を持って言い切ることが出来ます。
おそらく己の能力を自覚した上で、それでもその限界の中で実現可能なモーツァルトの姿を探求した結果かもしれません。
そして、そう言う衰えたクラウスを必死でサポートしたのが指揮者のスティーヴン・サイモンでした。オーケストラの「ウィーン音楽祭管弦楽団」というのは怪しげな存在のように聞こえるのですが、その実態はウィーン交響楽団からの選抜メンバーであったことはすでに知られています。
ところが、どういう訳か、世間一般では衰えたクラウスを持ち上げて、逆にオーケストラ伴奏を批判する人が多いのです。
曰く、「響きが薄い」、曰く、「表情が平板に過ぎる」等々です。
しかし、そう言う批判は本当に的を射ているのでしょうか。
わたしには、指揮者であるサイモンがクラウスの衰えを敏感に感じとり、その衰えに最も相応しいやり方で伴奏を付けたがゆえに、明るく華やかで、そして無垢な姿のモーツァルトが実現したのではないかと考えます。
モーツァルトのピアノ協奏曲には19番と20番の間に大きな断層が存在していることがよく指摘されます。しかし、このコンビによる演奏で聞いてみれば、そこに大きな断層を聞き取ることは難しいかもしれません。そして、その事の責をオーケストラ伴奏に求めるのでしょうが、聞けばすぐに分かるようにクラウスのピアノにはロマン派好みのバイアスがかかったような微妙な陰影を描き出す能力はすでに失われています。
スティーヴン・サイモンにしてみれば、20番以降の作品群においても、それ以前と同じようなスタイルで伴奏を付けるしかなかったのです。
しかし、漏れ聞くところによると、そう言うサイモンのオーケストラ伴奏にクラウスはたびたび不満を申し立てていたようです。ということは、もしかしたら彼女は自らの「衰え」を自覚できていなかったのかもしれません。
もしも、このエピソードが事実ならば、それこそ「演奏家」という種族が陥らざるをえない「誤解」だと言わなければなりません。そして、それが「誤解」であったとすれば、その「誤解」を「美しき誤解」に仕立て直した功績はスティーヴン・サイモンとウィーン交響楽団からの選抜メンバーで構成された「ウィーン音楽祭管弦楽団」にこそあったのかもしれません。
そして、クラウスもこの辺りを潮時として第一線から身を引いていれば、彼女にも「齢を重ねた女性はさらに麗しい。」という言葉を捧げることができたのかもしれません。
<追記>
最初にも指摘したように、この時のクラウスのピアノの響きに微妙で多彩な表情を求めることは出来なくなっています。しかし逆に、驚くほど華やかで明るく、そしてチャーミングな響きで全ての協奏曲を最初から最後まで貫徹しています。
そして、その事を持ってこのクラウスの演奏を低く評価する向きもあるのですが、それは一面ではモーツァルトの作品をロマン派好みの視点から、言葉をかえればロマン的なバイアスがかかった視点で捉えようとすことから来る批判でもあります。そして、そん批判は、確かに20番咽喉の、つまりはモーツァルトが大きな飛躍を遂げた後の作品では認めざるを得ない批判かもしれません。
しかし、このような華やかなウィーンの社交界で人気を得ていた時代の作品に関しては、このようなクラウスの響きで紡ぎ出される音楽は決して悪くはありません。逆に、あまりにも濃厚な表情を付けすぎるよりはかえって好ましいと思われます。
もっとも、それはモーツァルトの作品からロマン派的なバイアスを排除しようとしたピリオド演奏的な要素から生まれたものではありません。
それは、疑いもなく隠しようもない衰えを自覚しながら、しかし、その衰えの中にあっても必死で己のモーツァルトの姿を模索した結果です。
ですから、最後にもう一度この言葉を彼女に捧げたいと思います。
二人の女性が歩いている。
若い女性は麗しい。
齢を重ねた女性はさらに麗しい。
<追記の追記>
最初にも述べたのですが、この協奏曲全集においてクラウスに微妙で多彩な表情を求めることは出来ないのですが、逆に、驚くほど華やかで明るく、そしてチャーミングな響きで最初から最後まで貫徹しています。その事に不満を感じる人も多いのですが、それでも20番までの作品に関してであるならば、それも一つのアプローチかなと思える部分はありました。
モーツァルトの協奏曲では20番以降とそれ以前では録音の数は全く異なりますから、その数少ない20番以前の演奏を録音、演奏両面においてもそれなりのクオリティでまとめて聞くことのできるパブリック・ドメインとしては貴重な存在でした。
しかし、それが20番以降の作品となると、その陰影に乏しいピアノの響きには物足りなさを感じてしまいます。そして、それは私だけではなく、このクラウスの全集に寛容な態度を取る人の中でもそれが多数を占める意見でした。
ところが、この全集を紹介するにあたって、彼の協奏曲を一つずつ検証してみてあらためて気づかされたのは、20番以降の協奏曲に関しては20世紀を待つまでもなくロマン派の時代に多くのすぐれた音楽達によって「発見」されていて、それ故にその作品解釈に関しては「ロマン派的な広大な感情の領域」を彷徨う作品としてとらえられていきました。
そして、その解釈には「天才モーツァルト」への敬意も込めた正当な者であり、さらに20世紀に入って再びモーツァルトが「発見」されるようになると、多くのピアニスト達は腕によりをかけてその広大な感情の領域を行き来するモーツァルトを表現しました。そして、その事は決して不当ものではありませんでした。
しかし、肝心のモーツァルトは確かにこのジャンルにおいて新しい挑戦を続けていたのですが、そこには「ロマン主義」的な意味合いを持たせようなどという意図はありませんでした。それは間違いありません。
ですから、おそらく演奏会において、モーツァルトと自身は昨今のピアニストのように陰影に富んだ表現でもって自作を演奏しなかったはずです。
そう思えば、このクラウスのスタイルは18世紀末のウィーンの社交界で演奏をしていたモーツァルトの姿がふと浮かび上がってくるような錯覚に襲われる瞬間があります。
もちろん、そこには、後のピリオド演奏への先駆け等という意図は欠片もなかったでしょうが、結果としてクラウスのピアノにモーツァルトの姿がだぶるような錯覚に襲われる瞬間があるのです。
そして、これだけは強調しておきたいのですが、モーツァルトの最後のピアノ協奏曲となった変ロ長調の協奏曲だけは、何故かこのクラウスの響きと相性が良いのです。その、一切の感傷や感情を排したように聞こえるクラウスのピアノは、それ故にモーツァルトの「悲しみ」を誰よりも聞き手の心に迫ってくるのです。
よせられたコメント
【最近の更新(10件)】
[2025-10-02]
J.S.バッハ:幻想曲 ハ短調 BWV.562(Bach:Fantasia and Fugue in C minor, BWV 562)
(Organ)マリー=クレール・アラン:1959年11月2日~4日録音(Marie-Claire Alain:Recorded November 2-4, 1959)
[2025-09-30]
ベートーベン:合唱幻想曲 ハ短調 Op.80(Beethoven:Fantasia in C minor for Piano, Chorus and Orchestra, Op.80)
(P)ハンス・リヒター=ハーザー カール・ベーム指揮 ウィーン交響楽団 ウィーン国立歌劇場合唱団 (S)テレサ・シュティヒ=ランダル (A)ヒルデ・レッセル=マイダン (T)アントン・デルモータ (Br)パウル・シェフラ 1957年6月録音(Hans Richter-Haaser:(Con)Karl Bohm Wiener Wiener Symphoniker Staatsopernchor (S)Teresa Stich-Randall (A)Hilde Rossel-Majdan (T)Anton Dermota (Br)Paul Schoffler Recorded on June, 1957)
[2025-09-28]
エルガー:コケイン序曲 Op.40(Elgar:Cockaigne Overture, Op.40)
サー・ジョン・バルビローリ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1962年5月9日&8月27日録音(Sir John Barbirolli:The Philharmonia Orchestra Recorded on May 9&August 27, 1962)
[2025-09-26]
ベートーベン:交響曲第4番 変ロ長調 作品60(Beethoven:Symphony No.4 in Bflat major ,Op.60)
ジョルジュ・ジョルジェスク指揮 ブカレスト・ジョルジェ・エネスク・フィルハーモニー管弦楽団 1962年1月録音(George Georgescu:Bucharest George Enescu Philharmonic Orchestra Recorded on January, 1962)
[2025-09-24]
フォーレ:夜想曲第3番 変イ長調 作品33-3(Faure:Nocturne No.3 in A-flat major, Op.33 No.3)
(P)エリック・ハイドシェック:1960年10月21~22日録音(Eric Heidsieck:Recorded 0n October 21-22, 1960)
[2025-09-22]
ブラームス:弦楽四重奏曲 第2番 イ短調 Op. 51-2(Brahms:String Quartet No.2 in A minor, Op.51 No.2)
アマデウス弦楽四重奏団 1955年2月11日~12日&14日録音(Amadeus String Quartet:Recorde in February 11-12&14, 1955)
[2025-09-20]
エルガー:序曲「フロワッサール」, Op.19(Elgar:Froissart, Op.19)
サー・ジョン・バルビローリ指揮 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団 1966年7月14日~16日録音(Sir John Barbirolli:New Philharmonia Orchestra Recorded on July 14-16, 1966)
[2025-09-18]
バッハ:トッカータ、アダージョとフーガ ハ長調 BWV.564(Bach:Toccata, Adagio and Fugue in C major, BWV 564)
(Organ)マリー=クレール・アラン:1959年11月2日~4日録音(Marie-Claire Alain:Recorded November 2-4, 1959)
[2025-09-16]
メンデルスゾーン:厳格な変奏曲 Op.54(Mendelssohn:Variations Serieuses, Op.54)
(P)エリック・ハイドシェック:1957年9月20日録音(Eric Heidsieck:Recorded 0n September 20, 1957)
[2025-09-14]
フランク:天使の糧(Franck:Panis Angelicus)
ルネ・レイボヴィッツ指揮 ロンドン新交響楽団 1961年録音(Rene Leibowitz:New Symphony Orchestra Of London Recorded 1961)