クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~

モーツァルト:モテット「エクスルターテ・ユビラーテ」 K.165 (158a)

ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮 北ドイツ放送交響楽団 (S)マリア・シュターダー 1953年4月14日録音





Mozart:Exsultate jubilate in F major, K.165/158a [1.Allegro. Exsultate, jubilate Recitative: Fulget amica dies]

Mozart:Exsultate jubilate in F major, K.165/158a [2.Tu virginum corona]

Mozart:Exsultate jubilate in F major, K.165/158a [3.Alleluja. Allegro]


イタリア的な無頓着さのなかに身を投じても、ザルツブルグを忘れ去りはしなかった事を証明している

モーツァルトは1772年の10月、彼が16才の時に父とともに3回目のイタリア旅行を行います。目的はミラノで謝肉祭用のオペラを作曲し、そのオペラの演奏を指導する為でした。
それは前回のミラノ訪問の時にかわされた契約によるものでした。

父レオポルドがザルツブルグの宮廷から冷ややかな視線を浴びながらも演奏旅行を重ねたのは、息子モーツァルトにオペラを作曲し、それが演奏される機会をつかむためでした。ですから、ミラノでモーツァルトのオペラを演奏する機会を得ただけでなく、次回の予約まで獲得できた2回目の演奏旅行はレオポルドにとっては大成功と言えるものでした。

さらに、モーツァルトはこの3回目のイタリア旅行の直前に新しく大司教に就任したコロレド伯ヒエロニュムスによって宮廷楽士長に任命されています。
宮廷楽士長と言えばコンサート・マスターのような地位ですから、楽長、副楽長に次ぐナンバー3のポジションです。

まさに、この3回目のイタリア旅行はレオポルドにとっては、「神童モーツァルト」を売り出すことから始まった己のプロジェクトが一つの大きな結果をもたらそうとする高揚感に溢れた時期だったと言えます。
モーツァルトもまた11月初旬にミラノに到着するとすぐにオペラの作曲に取りかかり、12月には姉のナンネルあてに「もう14曲作らなければなりません。 それで出来上りです。 ぼくはオペラのことばっかり考えているので、姉さんに言葉を書かずにアーリアをそっくり書いてしまいそうになるくらいです。」と書き送るほどに気分が高揚していたようです。

そして、そのオペラでは当時の人気歌手だったアンナ・デ・アミーチスが起用されることが決まっていたので、モーツァルトもまた全力を挙げて作品に取り組んだようです。
しかしながら、この「ルチオ・シラ」の初演はミラノの大公が大幅に遅刻して開演が3時間以上も遅れるという外面的な事情もあって成功とは言い難い結果となりました。

ちなみに、アインシュタインは明確に「全体としてこの作品はきわめて不手際であり、ムラが多い」と述べています。つまりは、その思わしくない結果は作品そのものにもあったのです。
そして、このオペラはミラノでは20回程度は再演されながらも、それ以外の地域では演奏されることはなく、さらに言えば、モーツァルトにイタリアからオペラの依頼が舞い込むことは二度となかったのです。

レオポルドにしてみればこれは彼にとっても初めての躓きの石であり、それがこの後のパリ旅行の失敗とコロレド伯との確執へと転がり落ちていく複線となったのかも知れません。

しかしながら、この3回目のイタリア旅行は後世の人々に素晴らしい贈り物を残してくれました。
それが、この成功とは言い難かった「ルチオ・シラ」に出演したカストラートのラウツィーニのためにモテット「エクスルターテ・ユビラーテ」を作曲したことです。

ラウツィーニはマンハイムの宮廷劇場第一歌手だったのですが、「ルチオ・シラ」初演のためにミラノに招かれていたのです。
そして、彼がいかに優れた歌手であったかはこの作品を聞けば誰しもが納得するはずです。
このモテットは今もなお、やる気に満ちたソプラノにとっては挑戦のしがいのある難曲であるからです。

それはもう、声によるコンチェルトです。
ですから、アインシュタインもまた「中間楽章を導入する短いレチタティーヴォがなければ、この曲はアレグロ、アンダンテ、プレストあるいはヴィヴァーチェの3部を持つミニアトゥール・コンチェルトと異なるところはない。 光輝や「優美さ」において、真の器楽コンチェルトにほとんど劣らない。」と述べているのです。

それは別の面から見れば、「イタリア的な光輝や無頓着さのなかに身を投じても、ザルツブルグを忘れ去りはしなかった」事を証明しているのです。
何故ならば、ザルツブルグの教会音楽がもつ壮麗さはシンフォニー的に着想され、そのシンフォニー的なものはコンチェルト的なものが混ぜ合わされているからです。


1.Aria

Exsultate, jubilate
o vos' animae beatae,
dulcia cantica canendo,
cantui vestro respondendo,
psallant aethera cum me.

歌え、歓べ、
おお、汝ら祝福された魂よ、
甘き歌を歌いつつ。
汝らの歌に応え、
天もわれに和して歌う。

2.Recitativo ed Aria

Recitativo

Fulget amica dies,
jam fugere et nubila et procellae;
exortus est justis inexspectata quies.

幸先よく陽は輝き、
はや雲も嵐もおさまりぬ。
まさに予期せずして、平安が訪れたり。

Aria

Undique obscura regnabat nox,
surgite tandem laeti,
qui timuistis adhuc,
et jucundi aurorae fortunatae
frondes dextera plena et lilia date.

暗き夜にあまねく支配されし折、
今こそ起きよ、喜びに充てる人々よ、
汝らこれまで恐れおののきしが、
幸せなる晩に歓びの声をあげ、
右手で緑したたる葉と百合の花を捧げよ。

Ti virginum corona,
tu nobis pacemdona,
tu consolare affectus
unde suspirat cor.

純潔の王冠たる汝よ、
われらに平安を与えたまえ。
いずこにか嘆き悲しむ心あれば
汝こそそれを慰めるべし。

3.Finale

Alleluya.

アレルヤ

イッセルシュテットの歌はシュターダーの歌を支え、その歌をより高いものへと引き上げている


「マリア・シュターダー」と言う名前はリヒターやフリッチャイの宗教音楽の録音を聞くとよく目にします。曲目が宗教音楽ですから、一聴して聞く人の耳を驚かすというような歌唱ではないのですが、何よりも安定感のある歌声を聞かせてくれるソプラノでした。
ただし、「安定感」があるなんてのは褒めているのか貶しているのかがよく分からない言い方であり、一般的には評価の定まった演奏家に対する当たり障りのない物言いと言うことになります。

しかし、シュターダーに関して言えば、歌手であればそのキャリアを築き上げていく拠点ともなるべき歌劇場での活動を殆どしなかったという特殊性を考えれば、それは決して当たり障りのない物言いと言うことにはなりません。
言うまでもない事ですが、劇場というのは目立ってなんぼの世界です。
そんな世界で、全体のアンサンブルに留意しながら安定感を持った歌唱を披露するというのは芸術的には称賛されるべき事なのでしょうが、人気は出ません。

マリオ・デル・モナコの妻などは、あらゆる録音会場に現れては自分の夫の声が他のいかなる音よりも大きく収録されることを要求したのです。彼女は、最後には自らもテープレコーダーを持ち込んで夫の声が間違いなく「大きく」録音されているかどうか確かめたというエピソードも残っています。もっとも、その時はさすがに録音会場から放り出されたそうですが・・・。

しかしながら、スター歌手にのし上がっていくためには、そう言うあくどいまでの「押しの強さ」が必要なのです。
そんな歌手の世界にあって歌劇場には背を向けて、ひたすらコンサートでの、それも宗教音楽をメインとして「安定」した歌唱を披露したシュターダーという歌手はまさに異例の存在だったわけです。

彼女は自らが小柄であり、それが劇場には不向きだったと語っているのですが、それが何処まで本心であるのかは分かりません。
幼い頃に貧困に苦しみ、ついには救世軍によって救われてスイスに移住したという経歴が、人を押しのけ、追い落とすことによってキャリアを築き上げていく世界への嫌悪感につながったのかもしれません。

彼女は「自分は小柄だから」と言っているのですが、その声はスケールが大きくて、声量不足だったわけではありません。
それどころか、驚異的とも言える広い音域を持っていて、ソプラノの最高音からアルトの領域までカバーできたのです。
ですから、やろうと思えば劇場でも名声を獲得することは可能だったはずなのですが、そう言うことに彼女は最後まで興味を持たなかったのです。

そんなシュターダーはソプラノの名人芸を発揮する作品とも言うべきモーツァルトの「Exsultate jubilate(踊れ、喜べ、幸いなる魂よ)」を3度も録音していたという事実には少しばかり驚かされました。


  1. ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮 北ドイツ放送交響楽団 1953年4月14日録音

  2. フェレンツ・フリッチャイ指揮 ベルリン放送交響楽団 1954年1月録音

  3. フェレンツ・フリッチャイ指揮 ベルリン放送交響楽団 1960年6月3日~4日録音



フリッチャイとの2種類の録音はモノラルとステレオという違いはあるのですが、どちらも折り目正しい歌唱です。
主導権は指揮者であるフリッチャイが握っていて、彼が示した枠の中で、全体のアンサンブルにも留意しながら隅々まで神経の行き届いた歌声を聞かせてくれています。

それと比べると、イッセルシュテットと録音した53年盤は全く異質の音楽になっています。
そして、そこに「時代の移り変わり」というものをまざまざと見せつけられます。

どちらが好きかと問われれば、躊躇うことなくイッセルシュテットとの録音の方をあげます。

何という伸びやかで自由な歌でしょうか。
そこでは、聞く方も心穏やかに呼吸が出来て、モーツァルトならではの歌の美しさにひたることが出来ます。

イッセルシュテットというのは地味で目立たない指揮者と言われのですが、この録音もまたその様な曖昧な評価に疑問を投げかけるのに十分な美しさを持っています。

そして、この録音で気づかされるのは、イッセルシュテットも歌ってはいるのですが、それは何よりもシュターダーの歌に寄り添っている事です。
ですから、シュターダーは安心して、思うがままに歌の翼を羽ばたかせています。

しかし、その様な音楽の作り方は次第に古いもの、過去のものとなりつつありました。
そして、その事をシュターダーも感じていたのでしょうか。
その後、彼女は主たるパートナーとしてフリッチャイを、そしてカール・リヒターを選んでいくのです。

そこでは、歌に流されるのではなくて、厳しく構築された音楽の中で「立派」な歌唱を披露していくようになります。
それはそれで評価されるべきものなのですが、それとは対照的なイッセルシュテットとの録音を聞かされると、「失ってしまったもの」の大きさを感ぜずにはおれないのです。

<追記>
こう書いてから、フリッチャイとの録音をアップしていないことに気づきました。なんだか、最近こういう事が多いようです。
近いうちに、様子を見ながらフリッチャイ盤の方もアップしたいと思います。

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