チャイコフスキー:交響曲第4番 ヘ短調 作品36
マゼール指揮 ウィーンフィル 1963年9月 - 1964年10月録音
Tchaikovsky:Symphony No.4 in F minor, Op.36 [1.Andante sostenuto - Moderato con anima]
Tchaikovsky:Symphony No.4 in F minor, Op.36 [2.Andantino in modo di Canzone]
Tchaikovsky:Symphony No.4 in F minor, Op.36 [3.Scherzo. Pizzicato ostinato.]
Tchaikovsky:Symphony No.4 in F minor, Op.36 [4.]Finale. Allegro con fuoco
絶望と希望の間で揺れ動く切なさ
今さら言うまでもないことですが、チャイコフスキーの交響曲は基本的には私小説です。それ故に、彼の人生における最大のターニングポイントとも言うべき時期に作曲されたこの作品は大きな意味を持っています。
まず一つ目のターニングポイントは、フォン・メック夫人との出会いです。
もう一つは、アントニーナ・イヴァノヴナ・ミリュコーヴァなる女性との不幸きわまる結婚です。
両方ともあまりにも有名なエピソードですから詳しくはふれませんが、この二つの出来事はチャイコフスキーの人生における大きな転換点だったことは注意しておいていいでしょう。
そして、その様なごたごたの中で作曲されたのがこの第4番の交響曲です。(この時期に作曲されたもう一つの大作が「エフゲニー・オネーギン」です)
チャイコフスキーの特徴を一言で言えば、絶望と希望の間で揺れ動く切なさとでも言えましょうか。
この傾向は晩年になるにつれて色濃くなりますが、そのような特徴がはっきりとあらわれてくるのが、このターニングポイントの時期です。初期の作品がどちらかと言えば古典的な形式感を追求する方向が強かったのに対して、この転換点の時期を前後してスラブ的な憂愁が前面にでてくるようになります。そしてその変化が、印象の薄かった初期作品の限界をうち破って、チャイコフスキーらしい独自の世界を生み出していくことにつながります。
チャイコフスキーはいわゆる「五人組」に対して「西欧派」と呼ばれることがあって、両者は対立関係にあったように言われます。しかし、この転換点以降の作品を聞いてみれば、両者は驚くほど共通する点を持っていることに気づかされます。
例えば、第1楽章を特徴づける「運命の動機」は、明らかに合理主義だけでは解決できない、ロシアならではなの響きです。それ故に、これを「宿命の動機」と呼ぶ人もいます。西欧の「運命」は、ロシアでは「宿命」となるのです。
第2楽章のいびつな舞曲、いらだちと焦燥に満ちた第3楽章、そして終末楽章における馬鹿騒ぎ!!
これを同時期のブラームスの交響曲と比べてみれば、チャイコフスキーのたっている地点はブラームスよりは「五人組」の方に近いことは誰でも納得するでしょう。
それから、これはあまりふれられませんが、チャイコフスキーの作品にはロシアの社会状況も色濃く反映しているのではと私は思っています。
1861年の農奴解放令によって西欧化が進むかに思えたロシアは、その後一転して反動化していきます。解放された農奴が都市に流入して労働者へと変わっていく中で、社会主義運動が高まっていったのが反動化の引き金となったようです。
80年代はその様なロシア的不条理が前面に躍り出て、一部の進歩的知識人の幻想を木っ端微塵にうち砕いた時代です。
私がチャイコフスキーの作品から一貫して感じ取る「切なさ」は、その様なロシアと言う民族と国家の有り様を反映しているのではないでしょうか。
上りの美学、下りの美学
マゼールがこの時期に、ウィーンフィルとの間でシベリウスとチャイコフスキーの交響曲全集を完成させることができたのはマゼール自身にとっても、聞き手ある私たちにとってもとても幸運なことでした。
何故ならば、ここには頂点を目指して駆け上がっていく溢れる才能がほとばしっているからです。
この少し後になるとアバドやムーティ、そしてメータや小沢などと言う若手が同じような勢いに溢れる演奏を聴かせてくれるようになります。
確かに、若い頃の小沢は今からは想像もできないほどに素晴らしい音楽を聴かせてくれたものです。
ただし、彼らには残念な共通もがあります。
それぞれが世界的にトップクラスのオケのシェフと言う地位を手に入れて、そこで安定して音楽活動を始められるようになると、平均点はそこそこなのに、彼らが何をしたいのかが聞き手に伝わってこないような音楽ばかりを生み出すようになったことです。
いや、こんな言い方をすると反論もあるでしょう。しかし、私には、そう言う不満がいつもついて回り、結果として90年代以降になると彼らの新しい録音は殆ど聴かないようになってしまいました。
それはマゼールにおいても同様です。
当時は別に何故なんだろう?などとは考えませんでした。
私も若かったですから、ただ「面白くないものに金は使いたくはない」という一点だけでした。
しかし、年を重ねてきて、気がつくこともあります。
頂点目指して駆け上がっていくのは体力も必要ですし気力も求められますから、しんどいことはしんどいです。
しかし、目指すべき頂点ははっきり見えているわけですから、その見えている一点を目指して駆け上がっていくのはそれほど困難なことではありません。
問題は、頂点に近づいてきて、今度は何処を目指して進んでいくかを自分で見いださなければならなくなったときです。そして、彼らの多くはその頂上付近でぐるぐる回るばかりでした。
その違いは、たとえばテンシュテットやクライバーと比較してみれば明らかです。
しかし、山は登れば下りなければいけません。
やがて、彼らもまた下山の時を迎え、その衰えを自覚して下りの芸術に取り組むことを余儀なくされるときがきています。
しかし、どうしても下れない人もいます。
世間はそれを「老醜」と言います。
指揮者にはこの「老醜」をさらす人が多いのですが、稀に、見事に下って見せる人がいます。
そして、驚くべきは、同世代の指揮者の中では一番ギラギラしていると思われていたマゼールが見事に山を下ってみせたことです。結果として、大きな環を閉じることで、この若い時代の勢いに満ちた演奏にも大きな価値が生まれたのです。
指揮者にとって「若い頃は良かったのにね」と言われるのは屈辱以外の何ものでもないと思われます。この屈辱をはねのけるには、誰もが認める天辺まで駆け上がるか、見事に山を下ってみせるかの二つしかありません。
ネット上の評価を散見していると、マゼール&ウィーンフィルの演奏を取り上げて、後期の4番以降は深みが足りなくて物足りないが、初期シンフォニーではマゼールの手際の良さが馴染みのうすい作品を面白く聴かせてくれる、などと書いている人が少なくないようです。
あまり悪口は書きたくないのですが、何を聴いているんだ!と言いたくなります。
たとえば6番「悲愴」の、この割り切れた表現は希有のものです。本当に、あれよあれよという間に終わってしまうので、人によっては物足りなく思える人もいるかもしれません。
しかし、だからといって、これを「深み」が足りないなどと言うのは、クラシック音楽の聴き方としてはあまりにも一面的に過ぎます。
作品が持つ本来の姿を過不足なく描き出し、さらに勢いと情熱をも感じさせてくれる演奏というのは、それほど簡単なものではないのです。
それは、もったいぶった恣意的解釈を持ち込んで、さも深みがあるかのように偽る演奏と比べれば、遙かに困難な仕事なのです。
また、第5番のシンフォニーの方は、冒頭の部分は重々しい雰囲気で始まるのですが、アレグロの主部に入れば若いマゼールらしい勢いと明晰さがしっかりと前面に出てきます。
また、こういうアプローチだとオケの響きに物足りなさを感じたりするのですが、そこをウィーンフィルの本能が上手くカバーしてくれています。
シベリウスの時はその本能が必ずしもプラスにはたらかない場面もあったのですが、チャイコフスキーだとそんな心配は全くありません。
なお、1番から3番までの初期シンフォニーに関しては、あれこれ言えるほどの数を聴いていませんので何とも評しようがないのですが、ともすれば交響曲というよりは組曲のように聞こえてしまう作品の弱さを上手くカバーしていることは間違いありません。
そして、こういう演奏で聞かされると、これら初期シンフォニーも、少なくともシベリウスの1番や2番程度の頻度では演奏されてもいいのではないかと思われます。
ただし、凡人の手にかかると、こんなに面白く聴けないのかもしれません。
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