シューベルト:ピアノソナタ(第17番) ニ長調 D.850
(P)クリフォード・カーゾン:1963年6月11~18日録音
Schubert:Piano Sonata No.17 in D major, D.850 [1.Allegro vivace]
Schubert:Piano Sonata No.17 in D major, D.850 [2.Con moto]
Schubert:Piano Sonata No.17 in D major, D.850 [3.Scherzo. Allegro vivace]
Schubert:Piano Sonata No.17 in D major, D.850 [4.Rondo. Allegro moderato]
天国的な長さ?
1825年にシューベルトは3つのピアノソナタを書いています。ドイチェ番号でいうと「D.840:ハ長調」「D.845:イ短調」「D.850:ニ長調」です。しかし、ハ長調のソナタは第3・4楽章が未完成のまま放置されていて、そのアイデアをもとにイ短調のソナタが完成されていることは明らかなので、ある意味では「試作品」と見ることができます。(ただし、実用上の問題として、ハ長調のソナタは別の人物が補筆して完成させたものを使って独立した作品として演奏されることが一般的です)
これら一連のソナタは、ハ長調交響曲が完成された直後に創作されており、シューベルトがアマチュア的な作曲家からプロの作曲家へと大きく羽ばたきはじめた時期に一致しています。さらに、シューベルトにとって「ソナタ形式」はベートーベンを意識せずにはおれないジャンルでしたが、その桎梏からようやくにして解き放たれ、シューベルト独自の音楽語法を獲得しはじめた時期でもあります。
そして、ここでお聞きいただいているニ長調のソナタは、これら3つのソナタの中では特に長大な作品となっています。それは、ハ長調交響曲と共通する「天国的な長さ」だともいえます。
とりわけ、第2楽章の浮遊感のただよう、光と影が交錯するような音楽はシューベルトらしい美しさにあふれていて、どこか現世をはなれたようなその音楽は明らかに「天国的」です。
そしてその両端を重厚な和声によって構成された巨匠的な第1楽章と、躍動的で長大な(長大すぎる?)第3楽章のスケルツォによって挟み込まれているこのソナタは、ベートーベンの影響をうけながらも、それを突き破ってシューベルト独自の音楽語法が展開されはじめていることをハッキリと見て取ることができます。
問題は最終楽章です。
シューマンはこのピアノソナタを高く評価しながらも、最終楽章には異議を唱えています。今日ではその様なシューマンの評価に対して異議を唱える人も多いのですが、私の意見としてはシューマンに軍配をあげたいと思います。
言葉は悪いですが、聞きようによってはラジオ体操の音楽を思わせるような安直さを感じてしまいます。その安直さは、それに先行する3つの楽章があまりにも素晴らしいがために、より際だって見えてしまいます。
この辺がプロになり切れていないシューベルトの弱さがあらわれているのかもしれません。(もちろん異論はあるでしょうが・・・)
シューベルトは難しい!!
カーゾンという人は最晩年になると本当にレパートリーが狭くなっていったピアニストです。
まず第1にモーツァルト、そしてベートーベンとシューベルトだけに専念したかのように見えます。その徹底ぶりは見事なものですが、それも振り返ってみれば、彼がシュナーベルとランドフスカのもとでピアノを学んだことを思い出せば、ある意味当然の帰結だったのかもしれません。
20世紀に入り、ピアニストの多くは自作のピアノ音楽ではなくて、「過去の良い音楽」だけを選択して演奏するようになります。つまりは、「作曲」からは足を洗って「演奏」だけに特化し専念するようになっていくのです。その、偉大なる先駆けがシュナーベルでしたし、それとは少し違う文脈で過去の偉大な作曲家(特にバッハ!!)に仕えたのがランドフスカでした。
そういうDNAを引き継いだカーゾンが、わがままが許されるようになった最晩年においてモーツァルトとベートーベン、シューベルトに専念したと言うことは、彼にとって「演奏」するに値する音楽というのは最終的にこの3人に絞り込まれたと言うことです。
それにしても、シューベルトのピアノ音楽、とりわけ後期のピアノソナタほど不思議な音楽はありません。
とにかく、とりとめもないほどに長くて、おまけに全体の構成は甘くて、一般的な聴き方を持って対峙すれば退屈きわまりない音楽なのです。もしも、音楽を減点法で採点すれば至る所にマイナス点がついてトータルとしてみればあまり芳しくない結果になることは明らか作品です。ですから、この作品を「名曲」と言い切るにはいささか躊躇いが生じることは事実です。
そう言えば、村上春樹が「海辺のカフカ」でこの作品にこんな会話をさせていました。
僕はシューベルトのソナタに耳を澄ませる。
「どう、退屈な音楽だろう?」と彼は言う。
「たしかに」と僕は正直に言う。
「シューベルトは訓練によって理解できる音楽なんだ。僕だって最初に聴いたときは退屈だった。君の歳ならそれは当然のことだ。でも今にきっとわかるようになる。この世界において、退屈でないものには人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なものだ。そういうものなんだ。僕の人生には退屈する余裕はあっても、飽きているような余裕はない。たいていの人はそのふたつを区別することはできない。」
最後の下りは実に村上春樹らしくていいですね。
そして、シューベルトに限らず、この「退屈でないものには人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なものだ。」というパラドックスは、クラシック音楽全般にあてはまる真実のように思えます。もちろん、それは文学や美術の世界へも敷衍できるものかもしれないのですが、そう言う分野においては「言い切る」だけの蓄積が私にはありません。
長くクラシック音楽を聴いてくると、確かに退屈させない音楽というものはドラマみたいなものです。はっきりとした筋立てがあって、最後はあるべきところに落ち着きますから、人は退屈することなく音楽を聴き続けることが出来ます。そして、それはそれで素晴らしいことなのですが、それを何度も繰り返し聞いていると、それは途端に「先の見えたドラマ」になってしまいます。そうなれば、そこにどれほど手の込んだ物語性や意外性のある結末が仕込まれていても、ある時点を境にそんな魅力は吹き飛んでしまいます。
ですから、演奏家は、その見えすぎた展開の中に、何か「新しい」ものを盛り事もうとして必死に頑張るというのがこの世界の通例となるのです。
しかし、村上が言うように、シューベルトのピアノソナタみたいな、最初からとりとめもない退屈な音楽だと、それは不思議なほどにいつ聞いても「先が見えない」のです。そして、先が見えないものに人は飽きると言うことはないのです。
しかし、そう言う音楽を楽譜から現実の「音」に変換する演奏家は大変です。それはどう演奏したって退屈なものにしかならない音楽を、退屈だなぁーと思って演奏し続けながら、それでもその中に燦めくように散りばめられたシューベルトその人のモノローグを過たずにすくい上げてこなければいけないのです。
そして、辛いのは、そうやって最大限の誠意と奉仕の心を持ってすくい上げていっても、結果はどうしたって退屈な音楽にしかならないのですから、これほどまでにピアニストにとって報われない作業はありません。
さらに怖いのは、そうやってすくい上げるべきモノローグを次々と無頓着にこぼし続けていると、今度は聞き手から「地獄に堕ちればいい」と罵られるのです。
そして、そう言う音楽を最晩年に取り組むべき音楽としてカーゾンは選んだのです。
ですから、そう言う偉大なピアニストが晩年に取り組んだこのソナタの録音は「至上の名演」となっていれば麗しい話として、そして、退屈しないお話として完結するのですが、どうやらカーゾンもまた退屈しないものは飽きられると思ったのかもしれません。
本当に、シューベルトほどピアニストにとって難しい音楽はないようです。
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