クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~

チャイコフスキー:交響曲第2番 ハ短調 作品17 「小ロシア」

ゲオルク・ショルティ指揮 パリ音楽院管弦楽団 1956年5月録音





Tchaikovsky:Symphony No.2 in C minor Op.17 "Little Russian" [1.Andante sostenuto-Allegro vivo]

Tchaikovsky:Symphony No.2 in C minor Op.17 "Little Russian" [2.Andantino marziale quasi Moderato]

Tchaikovsky:Symphony No.2 in C minor Op.17 "Little Russian" [3.Scherzo. Allegro molto vivace]

Tchaikovsky:Symphony No.2 in C minor Op.17 "Little Russian" [4.Finale. Moderato assai - Allegro vivo]


交響曲を書くという「使命」

チャイコフスキーは交響曲を書くことを求められれていました。

何故ならば、遅れたロシアが音楽の分野でもヨーロッパに追いつくためには、クラシック音楽の王道である交響曲の分野において、ヨーロッパの音楽家が書いた交響曲に劣らないような「交響曲」をロシアの音楽家が書くことが求められていたからです。

もちろん、チャイコフスキーに先んじて交響曲を書いたロシアの音楽家は存在しました。たとえば、チャイコフスキーの師であったアントン・ルビンシテインは既に3曲の交響曲を書き上げていました。
しかし、それらの交響曲は既存のスタイルをなぞっただけの亜流の音楽の域を出ることはなく(聞いたことがないので無責任な受け売りです^^;)、未だ助走にしか過ぎませんでした。

ですから、ルビンシテインが初代の院長となって創設されたペルブルグ音楽院の目的は遅れたロシアが音楽の面でもヨーロッパの水準にまで引き上げることでした。
そして、その音楽院の第1期生として最優秀の成績で卒業したのがチャイコフスキーだったのです。

ロシアの音楽界は、この若き天才にロシアが超えなければいけない課題を託したのです。
ですから、彼は1865年に音楽院を卒業すると、すぐに交響曲の作曲に取りかかります。そして、その翌年の1866年に第1番の交響曲「冬の日の幻想」を完成させます。
おそらく、今でもコンサートで取り上げられる事がある「ロシア初の交響曲」としてはこれが間違いなく第1番です。

しかし、この交響曲を示された師のルビンシテインは全く気に入らなかったようです。理由は単純です。ヨーロッパの交響曲が持っている強固な形式感が希薄だと感じたのです。
確かに第1番の交響曲は、明らかに交響詩的な性格を色濃く持っています。

そこにあるのは主題を構成する動機をもとに音楽を論理的にくみ上げていくのではなく、彼が愛したロシアの大地のイメージを次々と提示していくような音楽だったからです。
いや、提示していくのではなくて、まるで聞き手がロシアの大地を逍遙していくかのような雰囲気の音楽なのです。
ルビンシテインにしてみれば、オレが期待したのはこんな音楽じゃない!と言いたかったのでしょうね。

しかし、そんな師の不興にかかわらず、これを評価して初演を実現してくれた人がいました。
それが、1866年に開校されたモスクワ音楽院の初代院長、ニコライ・ルビンシテインでした。
アントン・ルビンシテインの弟であり、偉大なピアニストとして名を残した人です。(ただし、チャイコフスキーのピアノ協奏曲を演奏不可としてはねつけたことでも有名です)

至る所にロシアの民謡の旋律が使われていて、さらに最終楽章では革命的な学生運動の中で歌われた「花が咲いた」のメロディが使われています。
そういうあたりも師の不興を買った原因のようです。

そして、それに続けて書かれたのが交響曲第2番でした。

この作品は1872年7月に着手し10月には完成し、さらに翌年の1月には初演がされています。
第1楽章と終楽章でウクライナなの民謡が用いられているので「ウクライナ」もしくは「小ロシア」と呼ばれるようになった作品ですが、それはチャイコフスキー自身が与えた標題ではありません。

ただし、この作品も後に大幅に手を加えられ、1879年の第2稿が決定版となっています。
1879年と言えばすでに彼の個性がはっきりと刻印されるようになった第4番の交響曲が書き上げられた翌年です。

そして、その改訂は部分的な手直しというよりは「改作」に近いものだったので、番号は2番と若くても内容的にはかなり充実したものになっています。
チャイコフスキーの初期シンフォニー3曲の中ではもっとも演奏機会の多い作品だと言えます。


一切の妥協を許さない男が、全くやる気のないオケの首根っこをつかんで引きずり回している


この録音はショルティという指揮者の本質を考える上で非常に興味深い録音です。

カルショーは1954年にDeccaを離れてCapitolに移っていたのですが、そのCapitolがEMIに吸収されたために1955年8月に再びDeccaに復帰します。カッチェン&マークによるモーツァルトのコンチェルトが復帰後初の録音だったようです。
そしてその翌年の5月にはパリの録音現場を担当しています。

このパリの録音現場というのはDeccaの口座が開設されていて、担当者はサイン一つでそこからお金を引き出すことが可能だったようなのです。
1951年にカルショーが始めてそのポジションを与えられたときのことを以下のように回想しています。

「Deccaは、数百万の旧フランを私のサイン一つで使えるように、小切手帳をわたしてくれた。」

彼は1956年のことに関しては詳しくは述べていませんが、事情はほぼ同じであっただろうと思われます。
そして、その「自由」を生かして、彼はパリで「トリスタンとイゾルデ」の公演を行ったクナパーツブッシュのわずかな空き時間を利用して、リヒャルト・シュトラウスの交響詩を2曲録音しているのです。

実は、クナパーツブッシュはウィーンでフラグスタートとワーグナーの録音を行う予定になっていたのですが、カルショーはその録音を担当したくて胸は張り裂けんばかりだったと回想しています。
しかしながら、ウィーンはオロフの縄張りでしたから、彼にとってはどうしようもないことだったのです。
そこで、彼は自らの「抑えがたい思い」を少しでも和らげるために、彼に許された「自由」を行使したわけです。

クナパーツブッシュのリヒャルト・シュトラウスの交響詩のスタジオ録音というのは非常に珍しくて、さらにはオケがパリ音楽院管弦楽団と言うことで、この時期にその様な録音が行われたことの意味が分からないと首をかしげるクナパーツブッシュのファンも多いのですが、おそらくは上で述べたような事情だったのではないかと想像されます。

前振りが長くなってしまいました。(^^;
しかし、その録音はカルショーにとっては満足のいくものではなかったようです。

それは、パリのコンセルヴァトワールのオケに原因があります。
この音楽院のオケはフランスを代表するオケではあったのですが、規律のなさに関しては疑いもなく世界一でした。おそらく、「労働とは神が人間に与えた罰である」というカソリックの伝統が染み込んでいるのでしょう。
そして、そう言うオケに対して、クナパーツブッシュという人は決して無理強いはしないのです。オケにやる気がなければ、それを何とかしようという気持ちは決して持たず、無理のない範囲でまとめてしまうのです。

ですから、この時に録音された「ドン・ファン」と「死と変容」には、そう言うクナパーツブッシュの指揮者としてのあり方みたいなものが刻み込まれています。クナパーツブッシュという指揮者はよく「気ままな指揮者」と言われるのですが、実際気ままなのはオーケストラの方であって、クナパーツブッシュはそれにあわせてそれなりの音楽に仕上げていた面もあったのかもしれないのです。そして、「ドン・ファン」のようにゆるゆるになってしまった演奏に対してクナパーツブッシュらしさを感じて愛でる人もいるのです。

しかし、コンセルヴァトワールのオケにとって不幸だったのは、その後にショルティが乗り込んできたことでした。

おそらく、この録音を行うためにカルショーはパリにやってきていたのだと思われます。
そして、クナパーツブッシュのような偉大な指揮者であっても適当な演奏でお茶を濁すことが出来たオケは、若造の指揮者が相手となればさらに舐めた態度で録音に臨んだのでした。

ここから、両者の壮絶なバトルが始まります。
ショルティは最初のリハーサルが始まるとすぐにだらけきったオケに鞭を入れ始めます。

闘いのゴングは鳴ったのです。

翌日ショルティが録音会場に行くと、各パートの首席奏者の席には違うプレーヤーが座っているのでした。
前日行ったリハーサルは全て無駄になってしまったショルティは激怒して、この録音から降板することを主張したのです。

慌てたカルショーは首席奏者が交代しないこと条件に4回のセッションを追加することでショルティをなだめます。
オケのマネージャーもセッションの追加を喜んで、病気による欠席だけは例外と言うことでその申し出を受け入れます。

そして、1回目のセッションは何とか終えることが出来たのですが、2回目のセッションでは何人かの首席奏者(オーボエ、ホルン、トランペット、チェロ)の姿がなかったのです。
それを見て帰り支度を始めたショルティに対してオケのマネージャーは必死の言い訳を始めるのです。

「恐ろしい悲劇が起こりました。」
「食中毒なのか、それなら医師の診断書を見せろ。」
「いや、もっと恐ろしい悲劇のためです。彼らは、アルジェリアでの軍務につくために、家族から引き離されて軍服を着せられたのです。」

そして、そのマネージャーは同じような徴兵の恐怖にさらされている楽員達のためにも、どうか録音を続けてほしいと懇願したのでした。
ショルティはその言い訳に仕方なく同意して録音を継続したのですが、驚くことに次のセッションでは彼らは軍務から解放されたようで、何事もなかったかのように姿を現したのでした。

しかし、オケのマネージャーはそのまま姿をくらまして二度と録音会場に現れることはなかったのです。

そうして出来上がったのがこのチャイコフスキーの交響曲なのです。
ショルティという一切の妥協を許さない男が、全くやる気のないコンセルヴァトワールのオケの首根っこをつかんで引きずり回しているのです。
そこには、良いとか悪いとか言うレベルを超越して、ショルティという男の本質がさらけ出されているのです。

それにしても、わずか2週間ほどを隔てただけなのに、クナパーツブッシュとショルティの録音を聞き比べると、全く同じオケが演奏したものだとは信じがたいほどの違いです。
もちろん、それはどちらが優れているとか言うような問題ではなくて、指揮者の資質というものがどれほどオケの姿を変えるかの見本のような例がここに提示されているのです。

しかし、時代は明らかにショルティのような指揮者を求めていました。
そして、そう言う時の流れに最後まで抵抗し続けたコンセルヴァトワールのオケはこの10年後には解体されてしまうことになるのです。

それを「進歩」と見るのか、それとも、「どいつもこいつもお利口さんばかりになってつまらない」と思うかは、人それぞれでしょうが、そう言う流れはもはや誰にも止めることは出来なかったことだけは確かです。

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