クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~

ベートーベン:ピアノソナタ第30番 変ホ長調 作品109

(P)ヴィルヘルム・バックハウス 1961年11月録音



Beethoven:Piano Sonata No.30 in E major Op.109 [1.Vivace ma non troppo. Adagio espressivo]

Beethoven:Piano Sonata No.30 in E major Op.109[2.Prestissimo]

Beethoven:Piano Sonata No.30 in E major Op.109 [3. Gesangvoll, mit innigster Empfindung. Andante molto cantabile ed espressivo]


ピアノ作品の作曲には制約が多すぎる

ベートーベンのピアノ作品の最後を飾るのが一般的に「後期ソナタ」と呼ばれる3つのソナタです。


  1. ピアノソナタ第30番 ホ長調 作品109(1820年作曲)

  2. ピアノソナタ第31番 変イ長調 作品110(1821年作曲)

  3. ピアノソナタ第32番 ハ短調 作品111(1822年作曲)



最後のハ短調ソナタを作曲した後でもベートーベンには5年の歳月があったのですが、彼はピアノ作品の作曲には制約が多すぎると述べてこの分野から去ってしまいます。この言葉をどのように受け取るのかは難しいのですが、考えるきっかけとしては作品101のイ長調ソナタ(28番)と「ハンマークラヴィーア」と題された作品106の巨大なソナタ(29番)との関連性を見ればいいのかもしれません。

聞いてみれば分かるように、後期ソナタが持っているある種の幻想性に近いのはイ長調ソナタの方です。
それに対して、「ハンマークラヴィーア」の方はアダージョ楽章の深い幻想性に惑わされるのですが、音楽全体の形は「熱情」や「ワルトシュタイン」に通ずる構造を持っているように聞こえます。言葉は悪いかもしれませんが、作品101のイ長調ソナタから見れば、いささか「先祖帰り」したような作品になっています。
しかし、それは言葉をかえれば、ベートーベン自身にとって一度前に進み出した歩みを留めて過去の自分が辿ってきた道を総決算するような営みだったのかもしれないのです。そして、その総決算によってもう一度歩みを前に踏み出したのが、これらの後期ソナタだったと言えるのです。

だとすれば、いかにベートーベンといえども、3つの後期ソナタにおけるチャレンジはピアノという楽器を用いた音楽の一つの行き止まりだったはずです。
その、ある意味での「やりきった感」が「ピアノ作品の作曲には制約が多すぎる」という言葉になり、彼の創作活動の中心が弦楽四重奏曲の世界に収斂していったのでしょう。

その証拠に(と言うのもおかしないいかたですが)、これらのソナタは当時の聴衆にはなかなか受け入れられなかっただけでなく、その後1世紀にわたって広く受け入れられることはなかったのです。これらの音楽がコンサートのメインピースとなるのは20世紀になるのを待たなければならなかったのです。
そして、創作という分野においても、彼の中期の作品は多くの作曲家に影響を与えたのですが、この後期ソナタをかみ砕くことができた作曲家はほとんどいなかったのです。

その結果として、チャールズ・ローゼンはこれらの作品は「聞き手の積極的な参加」が求められる音楽だと述べています。つまりは、構造的に極めて複雑であり、ベートーベンが果敢に挑戦した実験的な営みを聞き分ける能力が聴衆に求められるということです。
言葉をかえれば、これらの作品はその幻想的な雰囲気に浸っているだけでも十分かもしれないのですが、もう少しベートーベンのチャレンジを聞き分けることができれば、より一層、これらの作品の凄さが分かると言うことなのでしょう。

ピアノソナタ第32番 ハ短調 作品111

ベートーベンの後期ソナタは聞き手に多くのものを要求するのですが、その中でももっとも要求する度合いが大きいのがこの最後の作品111のハ短調ソナタでしょう。
一般的には、この第1楽章において、誰もが成し遂げることができなかったソナタとフーガの融合が為されていることが指摘されるのですが、それではこの音楽を聞いてみて、その「融合」の何たるかを、さらに言えばその融合を成し遂げるためにベートーベンがどのような技術的労作を試みているのかを正確に聞き取れる人がどれほどいるのでしょうか。
いや、もっと言葉を継いでみれば、そう言うことをしっかりと意識をして演奏しているピアニストってどれほどいるのかな、とも思ってしまいます。

率直に言って、彼が第1楽章で成し遂げた労作の凄さは、そのあまりの複雑さゆえに私もよく分かりません。

フーガというのは基本的にポリフォニーの音楽であり、ソナタ形式はホモフォニーの音楽です。

ホモフォニックな音楽とは簡単にいってしまえば「伴奏と歌」で成り立っている音楽です。言うまでもなく「歌」が主であり「伴奏」が従です。
それに対して、ポリフォニックな音楽では全ての声部が平等であり、主役である「歌」と従者である「伴奏」には別れていません。

ポリフォニックな音楽のもっとも簡単な形が「カエルの歌」や「静かな湖畔」に代表される「輪唱」形式です。

これを3グループくらいに分けて歌うというのは小学生でも可能ですが、その3声が重なった部分をホモフォニックに見てみるととんでもなく複雑なことになっています。そして、言うまでもなく、この3グループ(3声)の間に何の上下関係も存在しません。
これをもう少し複雑にすると「カノン」になり、その究極の形が「フーガ」になるわけです。

「フーガ」とは最初に示された単純な主題をもとに、それを少しずつ形を変えながら積み上げていく形式です。積み上げていく声部が増えれば増えるほどとんでもなく複雑なことになっていくのですが、聞き手からしてみれば、どこまで行っても最初に示された主題が何度も繰り返されるので、音楽が見上げるような大伽藍になってしまってもその主題に出会うたびにほっと一息がつけます。

つまりは、「フーガ」というのは作る方にとっては大変な労力が求められるのですが、聞き手にとっては非常に親切で優しい形式なのです。
そして、その事はこのソナタにも言えて、聞いているととんでもなく複雑なことになっているような気はするのですが、第1主題の最初の音型が何度も帰ってくるので、聞き手はその複雑さに足をすくわれることなく安心して聞いていることができます。ですから、この楽章は聞いている方にとっては「フーガ」的に聞こえます。

しかし、ベートーベンはそこにソナタ形式というもう一つの形式を持ち込んでいるらしいのです。
ホモフォニックな音楽というのは今では耳に馴染みがあるので聞きやすいように思えます。しかし、ポピュラー音楽のように5分程度で終わる小品ならば「Aメロ」と「Bメロ」と「サビ」くらいでまとめることができます。しかし、このソナタのような長大な音楽になるとそれだけでは間が持ちません。
そこで、その長い時間を持たせるためには構造が必要となります。そんな構造の一つがソナタ形式です。第1主題と第2主題を用意してそれをあれこれ展開させ、最後に第1主題を帰ってこさせる・・・みたいな複雑な構造ですね(^^v。

つまりは、ホモフォニックな音楽というのは規模が大きくなると複雑な構造が必要となり、聞き手はその構造を把握していないと何をやっているのか分からなくなってしまうのです。
ですから、こういう音楽は聞き手に一定の訓練を要求します。そして、クラシック音楽が少なくない人に拒否される原因の一つがそこにあります。ですから、ベートーベンやブラームスはよく分かんないけどバッハなら楽しく聞けるという人がいるのですが、それは極めて正直な話だと思います。

そして、この第1楽章においてベートーベンが聞き手に要求しているのは、この基本的にフーガの姿をとりながらそれをソナタという形式にまとめ上げたところを聞き取ってほしいと言うことなのでしょう。
でも、そうなると、私も聞いていてよく分からないというのが正直なところなのです。
要は凡なだけですが。

それから、アリエッタと題された第2楽章はベートーベンが得意とした変奏曲形式で書かれています。
この変奏曲の一番の聞き所は、第1変奏からだ3変奏へとどんどん音価が短く刻まれていくところで、それはまるで20世紀のジャズ音楽を想起させると言われます。そして、その極限まで短くなった細かい音符で緩やかに旋律が歌われていくところは一種異様な雰囲気を讃えた音楽になっています。

しかし、そう言う斬新さに満ちていながら、おそらく、ベートーベンが書いた数多い変奏曲の中でももっとも感動的な音楽の一つでしょう。
ただし、この楽章にはどのようなテンポ設定をとるのが相応しいのかという問題が常に横たわっています。

この変奏曲は冒頭の変奏主題と5つの変奏で成り立っているのですが、やりようによってはいくらでもテンポを落とすことが可能です。そして、テンポを落とせば落とすほどより深い精神性に満ちた世界が展開されるように聞こえる事は事実で、そこに仏教における「解脱:の領域を見いだす人もいるようです。(^^;

しかし、それでは「Adagio molto, semplice e cantabile」と指示しているベートーベンの意図との整合性が問われることになります。
つまりは「素朴に歌え(semplice e cantabile)」と言う指示をどのように受け取るかという問題なのですが、多くのピアニストは「素朴に歌う」よりは遅いテンポ設定で入念に歌い上げることで「己の深い精神性」を表明したとの欲望から逃れることは難しいようです。


  1. 第1楽章:Maestoso - Allegro con brio ed appassionato

  2. 第2楽章:Arietta. Adagio molto, semplice e cantabile



老いたる男の執念(2)


とあるピアニストがこのようなことを語っていました。
「バックハウスは何故か素人と評論家には人気がある。プロのピアニストが良くないというバックハウスとブレンデルが一番評価が高いという、まあ、おかしな現象でしょうね。」

世界中のプロのピアニストに聞いて回ったわけではないので、正確に表現すれば「(ボクのまわりにいる)プロのピアニスト」とすべきでしょうか。
まあそう言う嫌みは脇においてみても、この言葉は一度吟味してみる価値はあるようにも思うのです。

いわゆるプロのピアニストから見ればバックハウスを評価しないというのはよく分かるのです。

例えば、分かりやすい例で言えば、このソナタの第2楽章の第1変奏から第3変奏にかけてはどんどん音価が短くなってテンポが上がっていきます。
主題の付点8分音符が第1変奏では3倍速の16分音符になり、第2変奏ではさらに倍速、第3変奏ではそのさらに倍速になっていきます。そして、この極限まで短くなった音型の裏拍に16回スファルツァンドが入るという形になっています。

今の耳から聞けばこれは完全にジャズ的な勢いに満ちた音楽になっているのですが、バックハウスの指はこの動きに全くついて行けていないのは明らかです。そして、現在のプロのピアニストからしてみればこういう部分を曖昧に弾きとばしてしまうなどと言うのは論外であり、そう言う演奏を高く評価する評論家や素人どもに物申したくなるのは至極当然な事でしょう。

しかし、音楽の聞き手は基本的にみんな「素人」なのです。音楽を聞くときにそう言う「分析的な聴き方」はしないのです。
もちろん、そう言う分析的な聴き方をすることであれこれと「今日の演奏」に駄目出しをして得意げな人もいることはいいますが、多くの聞き手は貴重な時間とお金を使ってそんな「無駄なこと」はしないのです。

ですから、多くのプロのピアニストが良くないと思っているバックハウスの演奏が、何故に多くの「素人の受け手」が受け入れられているのかという事実は考えてみる価値があると思うのです。
そして、「素人どもは何も分かっていない」という「上から目線」で切り捨てている限りは何か大切なものを見落としてしまうような気がするのです。

ここにあるバックハウスの演奏から感じ取れるのは、確固たるバックハウスにとってのベートーベンの姿が呈示されていると言うことです。
そして、その思い描く姿に向かって思うように動かぬ指を使いながら必死で造形しようともがいている老いたる男の姿がそこにはあります。

おそらく、この作品をこれほど透明感に満ちた響きで交響的に造形しているピアニストは少ないでしょう。そして、そう言う「構築」とは違うところで音楽を成り立たせようとしているベートーベンの試みとは食い違いを感じたりもするのですが、それでも信じる姿には不思議なほどの「力」があります。
そして、その信じる力があったからこそ、彼は第2楽章のアリエッタでテンポを落とす誘惑に打ち勝つ事ができたのでしょう。

この第2楽章のテンポ設定にはいろいろな意見はあるでしょうが、これほど速いテンポで素っ気なく弾ききった演奏はそれほど多くはないはずです。
しかし、このバックハウスの演奏で聞いてみれば、ベートーベンが「素朴に歌え(semplice e cantabile)」と指示したのはこういう事だったのかと納得させてくれます。

素人は完璧に動く指の名人芸に「感心」はしても「感動」は滅多にしません。
そして、素人は音楽を通して求めるのは「感心」することではなくて「感動」することだという「厳粛な事実」を多くの演奏家にはもう一度考えてもらいたいと思うのです。

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