ラヴェル:ボレロ
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 1966年3月録音
Ravel:Bolero, M. 81
変奏曲形式への挑戦
この作品が一躍有名になったのは、クロード・ルルーシュ監督の映画「愛と哀しみのボレロ」においてです。映画そのものの出来は「構え」ばかりが大きくて、肝心の中味の方はいたって「退屈」・・・という作品でしたが(^^;、ジョルジュ・ドンがラストで17分にわたって繰り広げるボレロのダンスだけは圧巻でした。
そして、これによって、一部のクラシック音楽ファンしか知らなかったボレロの認知度は一気に上がり、同時にモダン・バレエの凄さも一般に認知されました。
さて、この作品なのですが、もとはコンサート用の音楽としてではなく舞踏音楽として作曲されました。ですから、ジョルジュ・ドンの悪魔的なまでのダンスとセットで広く世に知れ渡ったのは幸運でした。なにしろ、この作品を肝心のダンスは抜きにして音楽だけで聞かせるとなると、これはもう、演奏するオケのメンバーにとってはかなりのプレッシャーとなります。
嘘かホントか知りませんが、あのウィーンフィルがスペインでの演奏旅行でこの作品を取り上げて、ものの見事にソロパートをとちってぶちこわしたそうです。スペイン人にとっては「我らが曲」と思っている作品ですから、終演後は「帰れ」コールがわき上がって大変なことになったそうです。まあ、実力低下著しい昨今のウィーンフィルだけに、十分納得のいく話です。
この作品は一見するとととてつもなく単純な構造となっていますし、じっくり見てもやはり単純です。
1. 最初から最後まで小太鼓が同じリズムをたたき続ける。
2. 最初から最後まで少しずつレッシェンドしていくのみ。
3. メロディは2つのパターンのみ
しかし、そんな「単純」さだけで一つの作品として成り立つわけがないのであって、その裏に、「変奏」という「種と仕掛け」があるのではないかとユング君は考えています。変奏曲というのは一般的にはテーマを提示して、それを様々な技巧を凝らして変形させながら、最後は一段高い次元で最初のテーマを再現させるというのが基本です。
そう言う正統的な捉え方をすれば、同じテーマが延々と繰り返されるボレロはとうていその範疇には入りません。
でも、変奏という形式を幅広くとらえれば、「音色と音量による変奏曲形式」と見れなくもありません。
と言うか、まったく同じテーマを繰り返しながら、音色と音量の変化だけで一つの作品として成立させることができるかというチャレンジの作品ではないかと思うのです。
ショスタの7番でもこれと同じ手法が用いられていますが、しかしあれは全体の一部分として機能しているのであって、あのボレロ的部分だけを取り出したのでは作品にはなりません。
人によっては、このボレロを中身のない外面的効果だけの作品だと批判する人もいます。
名前はあげませんが、とある外来オケの指揮者がスポンサーからアンコールにボレロを所望されたところ、「あんな中身のない音楽はごめんだ!」と断ったことがありました。
それを聞いた某評論家が、「何という立派な態度だ!」と絶賛をした文章をレコ芸に寄せていました。
でも、私は、この作品を変奏曲形式に対する一つのチャレンジだととらえれば実に立派な作品だと思います。
確かにベートーベンなんかとは対極に位置する作品でしょうが、物事は徹すると意外と尊敬に値します。
完璧さ故の物足りなさ
「ファインプレー」を演じているようでは一流の野球選手とは言われないそうです。本当の一流というのは、どんなに難しいゴロでもなんなく捌いて、いとも簡単にアウトにしてしまう選手のことを言うそうです。
ところが、見ている方からすると、そう言う超一流のプレーというのはあまり面白くないのです。
面白くないので、何でもないゴロや飛球をまるで「ファインプレー」であるかのように捌いて拍手喝采をねらう奴が出てきたりします。プロならばそれもまた芸のうちなのかもしれません。
しかしながら、そう言う際物のファインプレーに拍手喝采し、本当の名人芸を見逃してしまうようでは、その芸の世界は衰退します。「芸」というのは、それを演じるものだけで成り立つのではなく、その「芸」を見極めることができる「受け手」がいてこそ成り立つのです。
なぜ、こんな事を書いたかというと、それほどまでにカラヤン&ベルリンフィルがいとも易々とボレロを演奏してしまっているのです。
「ボレロ」という音楽は、一度聞いてしまうと次からは「種明かしをされた手品」みたいになってしまう音楽です。
ですから、ボレロというのは、どこかで誰かがヘマをするのではないかという、「怪しからぬハラハラドキドキ感」が素敵なのです。
逆に言えば、「誰かがへまをするんじゃないか!」というような興味でもなければ、今一つつまらない音楽になってしまうのです。
世間では名盤ということになっている
クリュイタンス盤などは、セッション録音であるにもかかわらず、そう言うハラハラドキドキ感が満載なのです。
ところが、このカラヤンとベルリンフィルはそのボレロを「なんと言うこともない小品ですよー」みたいな感じで、汗一つ流す事もなく、いとも易々と演奏をしてしまっているのです。
それって、怪しからぬほどにつまらないではないですか!!
さらに言えば、このコンビは演奏が完璧であるが故に、ボレロという音楽が持っている弱さや底の浅さみたいなものをあからさまに露呈させてしまうのです。言ってみれば、種明かしをされた手品の「種」を懇切丁寧に解説してくれるような演奏なのです。
その意味では、このカラヤンとベルリンフィルのボレロは実につまらない演奏になっているのです。
しかし、その「つまらなさ」は同時に彼らに対する最高の讃辞でもあるのです。もちろん、これはセッション録音なのですが、ライブであっても同じようなクオリティの演奏を聞かせるだろう事は容易に察せられます。
実につまらないコンビなのです。困ったものです。(= =v
<コメントへの追記>
みんないろいろなところが気になるんですね。(^^;
私が何気に気になったのは、何処とは言いませんが(おそらく)ミュートをつけたであろうトランペットのソロ。でも、何の躊躇いもなく、そしてなんと言うこともないですよ、という感じで演奏しきってしまうベルリンフィルはやはりすぎと思います。オケがハイテク化する80年代以降ならどうって事はないのですが、それよりも20年前の話ですからね・・・。
よせられたコメント
2017-01-27:Sammy
- yungさんの仰る「つまらなさ」も分からないでもないのですが、私はこの周到で隅々まで行き渡った華やかな色彩感と滑らかなレガートによる豊饒なオーケストラサウンド(そしてそれを存分に楽しませてくれる優れた録音)の故に、この演奏はある種の現代という時代の「快適さの追求の極点」のような「優しい、真綿で包んだようなほの明るい狂気」のようなものを感じさせてくれるように思いました。それはある意味で「ボレロ」の恐らく元々はもっと荒々しい狂気と不思議な響き合いを持っているようにも思えなくもありません。
もしかすると余裕過ぎてスリリングではないという点に加え、今はこういう演奏が標準になってしまったから「ありがちでつまらない」という印象になる面もあるのかもしれません。でも、この時代の中に置いたら、最先端の演奏だったのかもしれない、と想像しています。このサイトでご紹介いただいているほかの演奏を聞きながら、いきなりこういうとことん磨ききったうえで余裕ですいすいと進んでいく演奏が出てきたら、かなり斬新だったのではないかと思うのです。
2017-02-03:べんじー
- イエス・キリスト教会で録音されたDG盤の演奏かと思いますが、太鼓とハープがズレているのがハッキリ分かります。弦セクションが入ってからの盛り上がりはさすがカラヤン/ベルリンフィルと思いますが、完全主義者らしからぬ録音だと思いました。
2017-02-04:HIRO
- イイですね?。カラヤン/ベルリン・フィルを相手に回して「あの?ちょっとズレてますよ…」って言ってみたかったですね!
その前のクラリネットソロもたるいし、らしくないと言えばらしくないですね。
2021-11-24:りんごちゃん
- 最初に申し上げておきますが、これはわたし個人の感想でございまして、他のどなたにもこのような聞き方を無理におすすめしようなどという意図はまったくございませんので、どうかご承知おきくださいませ
わたしはこの音楽につきましては、正直に申しますとあまり詳しくはありません
なぜかと申しますと、わたしはこれを聞くたびに退屈すぎて眠くなるのです
はじめのうちはそのメロディーとリズムについていくわけですが、これだけ単調なものを単調なままに聞かされ続ければそうなるに決まっております
で、あくびを我慢せずにそのまま何も考えず、ただひたすら音とリズムに浸って聞いておりますと、不思議なことが起こるのです
いつの間にかその音とリズムに集中してしまっており、その集中がもたらす不思議な感覚にとらわれるのです
その音は耳に入っているはずなのに、意識がそれに向けられていないため、その音は聞こえていないかのようなのです
こういったものは普通はトランス状態などと呼ばれるものなのでしょう
別にわたしは眠ってしまって夢を見ているのではないのだろうとは思うのですが
こういった体験をわたしはこの音楽だけでするわけではないのです
例えば、何でも良いのですが適当なお経を朗読いたします
如是我聞一時佛在舍衛國祇樹給孤獨園…などとただ朗読してゆくわけですが、お経というものは漢文ですので、意味など考えずただ朗読いたしますと、単純なリズムがひたすら繰り返され、そののっぺりとした音の連鎖だけが耳に入ってまいります
これを続けてまいりますと、いつの間にやらその音とリズムだけに勝手に集中してしまっておりまして、しかもそれは聞こえていないかのような、なんとも説明し難い不思議な状態になるのです
みーんみんみんみん
あぢー
みーんみんみんみん
などといったものはどなたも経験なさったことがおありかと思いますが、こういったさなかにふとみーんみんみんみんが、音としては聞こえているはずなのに意識から消えてしまうことがあります
これなどもその種の体験と申してよろしいのかもしれません
こういったたぐいの体験はたぶん珍しいものでもなんでもないのでして、誰もがほとんど気づくことなく日々こういったことを繰り返しているのでしょう
通常、人間の意識は散漫としておりまして、様々なものへ勝手に連想が飛び、落ち着いていないものです
それを一点に集中させるためにはなにかその対象が必要であるらしく、単純なリズムを持った単調な音の連鎖というものはそれに最適であるらしいのです
作曲者はボレロを17分で演奏してほしいと考えていたようですが、このテンポは1分間に60拍になるようでして、それはだいたい落ち着いているときの人間の心拍数に当たるようですね
このテンポ自体は、そういった集中をいざなうのに最適なものを意図しているようにも見えます
この曲は、クラシック音楽の中ではそういった現象を引き起こすのに比較的適した作りになっているように見えますが、それ以外の音楽でもそういった現象はもちろん頻繁に起きているはずですし、音楽が祭祀に使われているケースなどでは、むしろそれがその音楽の最大の目的とするところなのでしょう
こうやってまたボレロに戻ってまいりますと、本来の意味での音楽としてはこれは至極まっとうなあり方であるようにも思えます
作曲者がここで何を意図しているのか自体はわたしにはさっぱりわかりませんが
それ以前に、そういったトランス状態のようなものは作曲や演奏をこれと言って必要としないのでして、鉛筆で筆箱をただ叩くだけでもそれは達せられることでしょうし、もっと手軽な手段といたしましては、自分の呼吸に集中するだけでもそれは得られるのです
その意味ではそのような曲は必ずしもなくてもよいのですが、それを集団で共有するためには音楽が必要なのでしょうね
音楽というものはむしろそういったものを得るために存在していたのかもしれませんが、クラシック音楽の歴史の中でそれは埋没し絶滅してしまったも同然のようです
が、別の見方をいたしますと、そういった音楽の聞き方自体に経験といったたぐいのものはたぶん不要なので、そういった種類の音楽は誰にとっても極めてわかりやすく、受け入れやすい音楽なのかもしれません
一方で、伝統的なクラシック音楽が築き上げてきたものやその聞き方という観点からこの曲を見た場合、これはそういったものから大きく逸脱しているような気がいたします
旋律の魅力やリズムの魅力という観点から見ましてもあまりに単調すぎますし、その音楽に心を揺さぶられるようなところはまったくないのです
そういった、伝統的なクラシック音楽が与えてくれるものをここに求めようといたしますと、この曲は内容空疎で聞くに値しない音楽となるのもまた当然でしょう
ボレロという曲は、音楽というものをどう捉えるかによって、それが音楽であるように見えたり全く見えなかったりする存在なのでして、これを音楽として認める人と認めない人がいるのはむしろ当然であるように思えます
この曲を聞こうとするなら、そのような狭く凝り固まった先入観などは捨ててしまったほうがよいのでしょうね
その音楽に価値を見いだせる聞き方こそ、それにふさわしい聞き方なのですから
わたしがカラヤンの演奏を選択いたしましたのは、この演奏が最も眠くなりやすいからなのです
わたしからいたしますとこの曲は、その単調さに眠くなり、音楽としてそれを聞こうなどという態度は捨て去って、ただその音とリズムを単純に受け取ることに専念することによってはじめてその鑑賞が始まるのです
カラヤンの音楽は、聞き手が何も考えずただひたすらその音の流れに身を任せてそれに浸るという官能的な聞き方を導くように作られておりますので、そういった特性がたまたまそれに最適なものとなっているのです
この曲はたぶんトランス状態を導く純粋な効果音でしかないのでして、その目的が達成されたとき聞き手の意識からその音は消失します
だからこそ、この曲にクラシック音楽が積み上げてきた種類の聞き所などというものは最初から存在する必要がないと申しますか、むしろあってはならないのでしょう
聞き手が意識を向けるべき先はそちらではないのですから
わたしはこういった音楽を批判しているのでも称賛しているのでもないのでして、ただ人間とは不思議なものだなぁと思っているだけなのです
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