ブラームス:交響曲第2番 ニ長調 作品73
サヴァリッシュ指揮 ウィーン交響楽団 1959年1月録音
Brahms:Symphony No.2 in C major Op.73 [1st movement]
Brahms:Symphony No.2 in C major Op.73 [2nd movement]
Brahms:Symphony No.2 in C major Op.73 [3rf movement]
Brahms:Symphony No.2 in C major Op.73 [4th movement]
ブラームスの「田園交響曲」
ブラームスが最初の交響曲を作曲するのに20年以上も時間を費やしたのは有名な話ですが、それに続く第2番の交響曲はその一年後、実質的には3ヶ月あまりで完成したと言われています。ブラームスにとってベートーベンの影がいかに大きかったかをこれまた物語るエピソードです。
第2番はブラームスの「田園交響曲」と呼ばれることもあります。それは明るいのびやかな雰囲気がベートーベンの6番を思わせるものがあるかです。
ただ、この作品はこれ単独で聞くとあまり違和感を感じないでのですが、同時代の他の作品と聞き比べるとかなり古めかしい装いをまとっています。この10年後にはマーラーが登場して第1番の交響曲を発表することを考えると、ブラームスの古典派回帰の思いが伝わってきます。
オケの編成を見ても昔ながらの二管編成ですから、マーラーとの隔絶ぶりはハッキリしています。
とは言え、最終楽章の圧倒的なフィナーレを聞くと、ちらりと後期ロマン派の顔がのぞいているように思うのはユング君だけでしょうか。
伝統と対峙した演奏
サヴァリッシュという人は「ドイツの音楽の先生」という雰囲気で、穏やかに経歴を積み重ねてきたように見えるのですが、戦時中はかなり過酷な体験を強いられたようです。
たとえば、所属部隊がレニングラードに派遣されて全滅したにもかかわらず、たまたまピアノの腕を買われて慰問演奏に出かけていて一人取り残されたとか、戦車部隊の通信兵としてイタリア戦線の最前線を転戦させられたか、さらには敗戦後も敗残兵として放浪の憂き目にあったとかです。
「芸は身をたすく」ということばがありますが、サヴァリッシュの場合は本当に言葉の意味のままに命を長らえることができたようです。
戦後はアウクスブルク歌劇場の練習指揮者をスタートラインとして、アーヘンの歌劇場、ヴィースバーデンの歌劇場、ケルンの歌劇場の音楽総監督へとキャリアの階段を駆け上っていきます。
そして、ケルンの歌劇場の音楽総監督の職を得た1960年にはウィーン交響楽団の首席指揮者も勤めることになります。
まさに、ヨーロッパの伝統とも言うべき、地方の歌劇場からのたたき上げで力を伸ばしていった指揮者です。
しかし、その演奏を聴くと、特にこのブラームスなどは意識的にヨーロッパの伝統から距離を置いて、スコアだけを頼りにもう一度自分なりのブラームス像を作り上げようという意欲が読み取れます。
もちろん、聞きようによっては、あまりにも直線的に過ぎてスケールが小さいとか、奥行きが浅いなどと言う文句も出てくるのでしょうが、そう言う物言いは注意する必要があります。なぜならば、ここでのサヴァリッシュはそう言う「伝統的なブラームス像」を意識的に避けているからです。ですから、本人が意識的に拒否しているような部分が実現していないことを持ってだめ出しをするのはあまりにも物が見えていないと言わざるを得ません。特に、1番などは意図的に力こぶが入るのを避けていることがよく分かります。4番なども同様で、この曲にまとわりついている「舞い落ちる秋の枯れ葉」みたいなイメージからは距離を置こうといている様子が手に取るように分かります。
では、ここでサヴァリッシュは何を求めているのかと言えば、それはブラームスが書いたスコアを過不足なく、かつバランスよく鳴らし切ることに力を傾注し、結果として、重くない颯爽としたブラームス像を立ち上げることです。
確かに、このサヴァリッシュの的確な指揮によって、各声部がバランス良く鳴ることによって世間で言われるほどには渋くもならず、逆に風通しの良い颯爽とした姿が浮かび上がってきます。
また、録音の方もそう言う細部の見通しを良くするために、かなりデッドな感じで音をすくい取っています。もっとも、この時代のフィリップスの録音はみんなデッドなのですが、しかし、これに関してはかなり確信犯です。
そう言えば、若い頃の小沢もこんな音楽をやっていました。
まるで、夏の朝露にぬれたような瑞々しい音楽はとても魅力的でした。
どちらも、伝統という名に胡座をかいておけば80点の平均点がとれる道を捨てて、真摯にスコアと向き合った結果がしっかりと刻み込まれています。
もちろん、そのようにして提示されたブラームス像を是とするか否とするかは人それぞれでしょう。
しかし、それでも否とするときに「フルヴェンと比べればスケールが小さいね」などと言っていると、それは聞き手もまた「怠惰の別名である伝統」の上に胡座をかいていると言われても仕方がありません。
聞くところによると、この時期、フィリップスはサヴァリッシュとウィーン交響楽団の組み合わせでモーツァルトやハイドンの交響曲をまとめて録音する計画を持っていたそうです。しかし、その計画の中心にいたプロデューサーがフィリップスを去ってしまったためにその計画は立ち消えになってしまったそうです。
実現していれば、それなりに興味深い録音が残ったと思えるので、実に残念な話ではあります。
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